第6話 夫人とお茶

§


 絶対に出て行くものかと叫んだエリーゼではあったが、実際のところ、少々怯えていた。

 兄の訴えを受ければ、優しいグレイフィールド辺境伯もさすがに『エリー』を解雇しようと考えるかもしれない。

 

(そうなったら、どうしよう……)


 領主の館で働く以上に稼ぎのいい仕事なんて、後はもう娼館くらいしか残っていない。

 しかし、さすがにそれは無理だ。

 没落しているとはいえ、エルドラン男爵家は一応古くから続く伝統ある名家。その養女が娼婦になったなんて、末代までの笑いものである。


「――エリー、どうしたの? 今日はなんだかぼうっとしているのね」


 その声に、エリーゼははっとして顔を上げた。

 まず視界に入ったのは、読みかけの本。そして次に、気遣わしげな視線を寄越す上品な深緑のドレスの女性と目が合う。


「申し訳ございません、大奥さま」


 彼女は先代グレイフィールド辺境伯の未亡人、シャノン夫人だ。

 黒髪と、緑色の目が辺境伯にそっくりで、年齢は四十代半ばと聞いているが、とてもふたりの子持ちには思えないほどに若々しく、どこか少女めいた雰囲気すら残しているようにも見える。


 近頃細かい字が読めなくなってきたという彼女のために、読み聞かせをするのがエリーゼの日課なのだが――。


(わたしったら、読み聞かせの最中に考え事をするなんて!)


 せっかくエリーゼの声を気に入って仕事を頼んでくれた夫人に、なんて失礼なことをしてしまったのだろう。


「読み直しますね。ええと……」

「ああ、いいのよ。今日はもう、読書は終わりにしましょう」


 慌てて本に目を落とし、自分がどこまで読んでいたか文面を指で辿るエリーゼだったが、やんわりと押しとどめられた。

 叱られるのかと恐る恐る夫人の様子を窺うが、彼女はいつもの柔和な笑みのまま、悪戯っぽい表情を浮かべる。


「それより、少し早いけれどお茶の時間にしない? お友だちから、とても美味しいと評判のお菓子が送られてきたの。あなたの淹れてくれたハーブティーと一緒にいただきたいわ」

「は、はい! もちろんです! すぐにご用意いたします!」


 エリーゼは勢いよく椅子から立ち上がり、勇み足で夫人の部屋を出た。

 背後から「ゆっくりでいいのよ」というのんびりした声が聞こえてきたが、気持ちだけ受け取っておくことにして、急いで台所へ向かう。

 読み聞かせの失敗を取り戻すべく、なるだけ早く夫人にお茶を届けなければ。


(このところ大奥さまは、お身体が冷えると仰っていたから……。ジンジャーにシナモンに、それからオレンジピールに蜂蜜を加えようかしら)


 台所の棚には、ラベルの貼られたガラス瓶が所狭しと並んでいる。中身は、さまざまなハーブや果実、果皮を乾燥させたものだ。これらはほとんど、エリーゼが実家の薬草園から持ち出したものである。


 エルドラン男爵家は代々薬師の家系で、エリーゼの父もまた薬作りや昔ながらの診療で生計を立てている。とはいえ貧しい平民に無償で治療をしたり薬を提供したりするせいで、家計は万年火の車なのだが。

 それはさておき、エリーゼも幼い頃から父について、薬草の種類を学んだり製薬の知識を身に着けてきた。ハーブティーのもたらす効果もその一環として教わり、独自に美味しい淹れ方などを研究したものだ。 


 世間ではハーブティーというのは薬草臭くて苦くてまずいというのが定説だが、エリーゼの淹れるハーブティーは決してそんなことはない。

 グレイフィールド館で働き始めた頃、夏バテで食欲がないというシャノン夫人のために淹れたハーブティーをいたく気に入られ、毎日のお茶出し係として任命されたほどなのだから。


 手際よくお茶を淹れたエリーゼは、大きめのカップをトレイの上に乗せて夫人の私室へ戻った。

 エリーゼのいない間、侍女がやってきたのだろう。飴色の丸テーブルの上には、クッキーや焼き菓子の入った籠が用意されている。


「お待たせいたしました、大奥さま」

「ありがとう。さあ、ほら。あなたもここに座って。一緒にいただきましょう」


 さも当然のように、夫人は自分の隣を指し示す。

 普通なら、下女が主人と同席するなど決してありえないことだ。エリーゼも何度かそれを伝えたが、夫人からは「わたくしがあなたとお茶をご一緒したいのよ」と笑顔で押し切られた。


「それでは、失礼いたします」


 これが初めてのことでないとはいえ、夫人の隣に腰を下ろす時はいつも緊張する。

 エリーゼは夫人がカップに口をつけるのを待って、己もひとくち、ハーブティーを口に含んだ。

 ジンジャーのぴりりとした辛さに、オレンジの爽やかな甘みがよく合う。鼻に抜けるようなシナモンの濃厚な香りも、お茶の風味にほどよく彩りを添えていた。


「お菓子もどうぞ。わたくしひとりではこんなに食べられないもの」

「あ、ありがとうございます」


 いつものことながら、夫人の押しの強さには毎度圧倒されてしまう。

 進められるがままクッキーを口に運んだエリーゼだったが、口の中でほろりと儚く崩れる食感に、思わず笑みがこぼれた。


「美味しい……!」 

「それはよかったわ。ほら、もっと召し上がって。若い方はやっぱり笑顔でないとね」 


 要するに、夫人はぼうっとしているエリーゼを気遣ってお茶に誘ってくれたのだ。

 主人に気を遣わせてしまったことを恥ずかしく思い俯くエリーゼだったが、夫人のほうは全く気にしていないようだ。

 それどころか、逆にエリーゼを心配してくれる。


「ギデオンと会ったのでしょう? わたくしの、上の息子の」

「は、はい……」


 公爵の名はギデオンというのか。

 いにしえの言葉で『破壊者』という意味だ。よく似合っている気がする。


「あの子はとても厳しいから、使用人たちも気を張ってしまって……。もしかしたらあなたにも、何か嫌な思いをさせたのではないかしら」


 はいともいいえとも言えず、エリーゼは沈黙を守った。さすがに実の母親の前で、息子の嫌味な発言のあれこれをあげつらうつもりはない。

 しかしそれは夫人にとって、肯定の返事に他ならなかったようだ。


「やっぱり……。ギデオンも悪い子ではないのだけど、どうも頑ななところがあって。昔から自分がこうだと思ったら、絶対にそうと決めつける節があるのよ。まったく、困った子」


 夫人から見れば、あの仏頂面で失礼な公爵も『困った子』扱いされてしまうらしい。

 しかし、エリーゼのほうはそうもいかない。何せ首がかかっているのだ。


「あの、大奥さま。わたし――」


 ノースフォード公爵に秘密を暴露されてしまうくらいなら、いっそ自分から打ち明けようか。

 騙していたことに変わりはないが、他人から知らされるのと本人から知らされるのとでは、やはり心証が大きく違ってくるはず。

 そう思って口を開いたエリーゼだったが、穏やかな眼差しに押しとどめられた。


「大丈夫よ、エリー。あの子が何を言ったのかはわからないけれど、あなたが真面目で働き者のいい子だということは、わたくしもルークもよくわかっていますからね」

「大奥さま……ありがとうございます」


 涙すら浮かべそうになりながら、エリーゼは頭を下げた。

 家計のために始めた仕事ではあったが、今となってはこの仕事に誇りを抱いているし、主人一家のことを慕わしく思うほどだ。


(ああ、叶うことなら、一生この方々にお仕えしていたいくらい……)


 しかし、そんなエリーゼの感動に水を差す者があった。

 ノースフォード公爵、ギデオンである。

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