63「仮面」

『仮面はその人の正体を隠すものではない。  付けた人の本性を表しているのだ。』 ――ニゲル・ポートマン


   1


 息子が、これがいい、とソレを指差した。

「本当にそれでいいの?」

 私は念のために息子に訊いた。あとで、駄々をこねられても困るからだ。

 息子は、うん、と首を縦に振った。

「すみません。これください」

「あいよ。二百円ね」

 私は店主に小銭をわたし、そのお面を買った。


 夏は終盤に差し掛かっていた。八月も残りわずかとなってきている。相変わらず蝉の鳴き声はうるさいが、夕方にもなるとそれも落ち着き、逆にいい風合いを醸しだしていた。その頃になると暑さもいくらか柔らいで、快適な時間となる。


 私は息子と一緒に、近所の神社でやっているお祭りへと足を運んでいた。近くでやっていることもあってか、家の中にいてもお祭りの賑やかな音が聞こえてくるのだ。

 そのとき息子が珍しく、「お祭りに行きたい」と私にせがんできた。

 私は少しだけ驚いた。なぜなら息子は四歳児にしてはあまりにも大人しく、わがままを言わない児だったからだ。

 だから私はその珍しさもあって、夕飯の準備に取り掛かっていたにもかかわらずに、そのわがままを聞き入れ、お祭りに出かけることにしたのだった。



「そのお面、カッコいいね」

 私が言うと、お面をつけた息子は目で笑って返事した。

 息子に買ったお面は、某アニメのキャラクターのお面で、薄いプラスチックで出来ていている。目と口のところには穴が開けられていた。安物だが、とても気に入ったらしい。心なしか、足取りも弾んでいるように見えた。


 お祭りはとても賑やかだった。そこには多くの人が一夏の思い出を愉しんでいた。

「まま、人が多いね」

 隣で歩く息子が、前を向きながら言った。

「そうだね。迷子にならないでよ」

 私が言うと、息子は私の右手をギュッと握りしめた。


 その後、色々と露店を見てまわった。定番の綿あめやりんご飴、おでんやイカ焼きなんかを売っている店もあった。

 どれも美味しそうだね、なんて話をしながら境内けいだいをぐるりと廻り、最終的にはフランクフルトとたこ焼き、カキ氷といろいろ買ってベンチで食べた。

 思えば息子とこうしてお祭りに来るのは初めてだった。

 息子はお面をしたまま、カキ氷を頬張っていた。相変わらず無口だが、その目は愉しんでいるように見えた。

 私も隣でフランクフルトをかじった。

 どこにでも売っているような安ものだ。不味くはないが、特別美味いわけでもない。だが、その時食べたフランクフルトだけは、なんだか不思議と美味しく感じられたのだった。


   ◆


 お祭りはいつもとは違う日常を与えてくれる。

 家に帰ってからも息子はお面を付けつづけていた。どうやら相当気に入ったらしい。

 私の中には、不思議な高揚感の余韻が残されていた。

 私にとってこれは人生において何度目かのお祭りだ。だが息子にとっては、これが初めてだ。よほど楽しかったのだろうと思う。

 私は残していた家事を片付け、夫の分の夕飯作りにとりかかった。



「いいかげんに外したら」

 しばらくして、テレビを見ていた息子に声をかけた。だが息子はアニメに夢中なのか、その声は届いていなかった。


 程なくすると、夫が仕事を終えて帰ってきた。

「ただいま」

「おかえりなさい」

 ネクタイを緩めながらリビングに入ってきた夫は、息子の姿を見るや、「お? なんだいそれ」と、不思議な顔をした。

 私はテーブルに夕飯の品を並べながら、近所でやっていたお祭りの話をした。


「おう、そうか」


 席についた夫は、缶ビールのプルリングを引き上げた。


「珍しくあの子が行きたいって言い出したのよ」

「へぇー。よかったな悠太ゆうた、いっぱい買ってもらっちゃって。楽しかったか?」


 夫が口に泡のひげを作って、言った。

 息子はお面をしたまま、こくんと頷いた。


 それからしばらくして、息子は誰に言われるでもなくパジャマに着替えはじめた。

 着替えの最中も息子はお面を外すことなく、器用に服を脱いでいた。


「寝るときぐらいは外したらどうなの?」


 私は再度言った。

 しかし息子は着替え終わるや否や、どたどたと走って寝室に行ってしまった。


「あ、こら! もう」


 階段をのぼる足音だけが聴こえてくる。


「まあまあいいじゃないか。嬉しかったんだろ」

 側から様子を見ていた夫は、ビールを飲みながら気楽にそう言う。

「それにどうせ明日になったら飽きてるよ、きっと」

「うん、だといいけど……」

 私もその時はそれほど気にはしていなかった。

 だけど心の奥では、少しだけ変な胸騒ぎを覚えたのだった。


   ◆


「きゃっ!」


 次の日の朝だった。

 私が朝食の準備で台所に立っていると、いつの間にか息子が背後に立っていた。

 それだけなら普段のことなのでそれほど驚いたりはしない。ただその時は、息子があのお面をつけて立っていたのだ。


「驚かせないでよ、もう。ほら保育園行くんだから、外しなさい」


 だが息子はまた聞かなかった。そのままリビングの方へと走っていってしまった。


 朝は何かと忙しい。

 その時の私は息子を追いかける余裕などなく、仕方なく止まっていた作業の方を再開させた。


 朝食を作り終えリビングに行くと、すでに息子は着替えを済ませていた。が、その顔にはまだお面がしてあった。

 そして、朝食中もずっとつけていた。


「いい加減にしなさい。ほら外して」


 ごうやした私は、息子からお面を取り上げようと手を伸ばした。だが息子は取られまいと、両手でお面をギュッと握りしめた。しかも意外に力がある。だがそこは四歳児の力、私はひょいとお面を取り上げた。

 そのとき息子は、驚きの言葉を口にした。


「返せよ」


 ただ一言。その一言に、私は一瞬で身体が硬直した。

 息子は私の顔をじっと睨んだ。威圧するような、静かで、冷たく、真っ直ぐとした視線。

 その時の私は、胃袋を握り締められたような感覚に陥った。

 正直言って怖かった。唇が恐怖で震えていた。


 ――これは一体誰だ? 私の息子なのか?


 気づくと私はお面を手放していた。

 我に返った時、息子は再びソレを被っていた。


   ◆


 息子を保育園に送り届けてから、家に着いた私は、ふと今朝のことを回想した。アレは何だったのだろう。あんな息子は見たことがない。

 保育園には「息子がどうしても付けていたいというので、お面をつけたままにさせてもらえませんか?」と、昨日のお祭りのことなどを織り交ぜながら説明をして、許しをもらった。


 ただ本当の理由は説明しなかった。したくもなかった。


 もしかしたら、あれは私の見間違いだったのかもしれない。そうであって欲しいと心の中で思った。だがあの人を射抜く目つきは……。


 私は思考を放棄することした。なに、夫の言うように一日遊べば帰る頃には飽きているだろう。そうに違いない……。



 夕方になって、息子を迎えに行った。

 保育園に着いたとき、出迎えた先生の横には、お面をつけた息子が立っていた。まだ外してないのか、と私は内心でため息をついた。

 時間が経って私は、あれは見間違いだったと心の中で結論づけた。


 保育園での息子に表立った異変はなかったようだ。元々は大人しめの児だったし、そこは育児のプロ、上手くやってくれたのだろう。


「今日はわがままを聞いてもらってすみませんでした」


 保育園の先生に頭を下げた。 

 先生は特に気にするような素振りは見せず、


「いえいえ、まあ子供ですからね」


 と親身になってくれた。


「ありがとうございます」

「お気になさらずに。むしろ今日の悠太くんは、いつもより活発でしたよ」

「そうなんですか」

「ええ、いつもは隅っこで絵本読んだりしてるんですけど、今日に限ってはみんなと外で元気に走って遊んでましたからね」


 その話を聴き、私は今朝のあの場面が蘇ってしまった。やはり息子はいつもとは違うようだ。


「まあ、ですが……」

 先生は、言いにくそうに口を結んだ。

「どうしたんですか」

 私は訊く。先生は周囲に視線を向けてから説明した。


「他の子供が興味持っちゃいましてね。それで悠太くん、せがんできた相手の子を泣かせちゃって」

「え!?」


 驚きで口が半開きになった。どちらかといえば息子の方が、泣かされることが多いからだ。


「あ、でも気になさらないでください。怪我させたりとかはありませんでしたから」

 先生はそう言ったが、そうもいかない。気になるどころではなかった。


   ◆


 家に帰ってからは、あえてお面について話題にすることはしなかった。無理に取ろうとすれば、今朝のようになるかもしれない。だが何も認めたわけではない。私はその時を待った。


 いつも通り夕飯を作り、息子を風呂に入れ、その他の家事や雑務をこなした。

 そのあいだ息子は、お面をつけ続けているという点を除けば、変わった様子もなく、いつも通りの生活を送っていた。テレビを見て、風呂に入り、夕飯を食べ、パジャマに着替えて眠りにつく。

 いつも通りの行動。

 息子が寝室に行ってから約一時間後。もうそろそろいいだろうと、私は足音に注意しながら、慎重に寝室へと向かった。


   ◆


 そーっと扉を開けた。息子はベッドの上で気持ちよさそうに寝息を立てていた。そしてまだその顔にはお面をつけていた。

 私は起こさぬよう、半開きにした扉から漏れでた廊下の明かりだけを頼りに、すり足で息子に近づいた。

 顔をのぞき、確認する。


 ――大丈夫、深く眠っている。


 私は一度深く息を吐き出して、呼吸を整えた。そして細心の注意を払いながら、息子のうなじに手を添えた。ゆっくりと頭を持ち上げ、後頭部のゴム紐を外していく。今のところ問題はない。後はこのプラスチックの面を顔から取り外すだけだ。いける。

 生唾を呑み込む。

 そしてゆっくり頭を下ろした。その時――。


 ぐるん、と頭がこちらを向いた。


「――ッ!」


 息がつまった。同時に心臓も止まるかと思った。だがそれは、ただの寝返りだった。


( ふぅ……。)


 息を整える。

 ――落ち着け。大丈夫。まだ気付かれていない。

 私は一度目を閉じて心を落ち着かせてから、再びお面を取り外しにかかった。そっとお面に手を触れ、ゆっくりと持ち上げる。


 ――“めりっ”


 え? と頭が混乱した。聞こえてはいけない音がした。


 ――“めりめり”


 手を動かしていく。

 嫌な音は続いた。なぜだか、ぬちゃっとした感覚が伝わった。


 ――“めりめりめり”


 脳がそれの理解を拒んだ。

 これはだめかもしれない。私の呼吸は荒くなっていった。

 だが後には引けない。

 私は、顔からお面を全て

 ゆっくりと持ち上げ、息子の顔を確認する。


「あ……あぁ……うっ――」


 一瞬にして吐き気を催した。

 胃液が逆流しそうになったのをなんとか耐えた。

 それは見るに耐えない代物。

 皮膚が全て剥がれ、筋肉が剥き出しとなった悲惨で醜怪な顔がそこにあった。


「まま……」

「――え?」


 心臓が跳ね上がる。

 息子がこちらを見ていた。生気をなくした虚ろな目で私を見つめていた。

 私には何がなんだかわからなかった。

 頭が混乱する中、息子は言った。


「返せ」


   2


「うあぁ!」


 大声を出して、私は飛び上がった。嫌な汗が額からあふれてくるのを感じた。


「なんだ……夢か……」


 あたりを見渡してみると、まだ薄暗い。隣では夫がぐっすりと寝息を立てていた。

 私は一度、深く息を吐き出した。それにしても寝覚めが悪い。

 目覚まし時計を確認すると、いつもより少しだけ早く起きていた。

 だが今更二度寝する気にもならなかった。


 とりあえずベッドから出て立ち上がろうとした。と、そのとき、私の足が何かを踏もうとしていた。


「ん?」


 かがんで確認してみると、それはあのお面だった。


「そうだ……私はちゃんとお面を取ってたんだ」


 脳裏に、昨夜の記憶が蘇ってきた。

 なんてことはなかった。息子が寝静まったあと、普通にお面を取り外せていたことを私は思い出した。

 そう、さっきのは完全に夢。それにしても嫌な夢を見た。


 私はお面を持つと、一階にあるリビングに向かった。その前に息子の寝顔をチェックしてみた。そっと扉を開けて息子の寝室を覗く。すやすやと息子は眠っていた。顔もいたって正常だ。


 安心した私は一通り朝のルーティンを済ませ、エプロンに着替えてからいつもより早めの朝食と弁当作りに取り掛かった。

 そして私は手を動かしながら、漠然と考えていた。


 ……これでもう大丈夫なはず、だよね。いや大丈夫にしなければ駄目。はっきり言って原因は分からない。だけど、あるとするなら間違いなくあのお面。お面さえ取り上げれば、息子ももう受け入れるしかないはず……。

 それとも四歳ぐらいの子供がああなるのは普通のことなのかしら。子育て初心者の私にはそれも分からない。いや……もう何もかもが疑心暗鬼になっている。もしかしたらあの出来事も全て夢や幻で、いつか覚める日がくるの……?

 私の不安はまだ続いていた。



 なんだかんだで、時刻は七時をまわった。もうそろそろ息子を起こす時間だ。夫の方は今日は休み。夫は、休みの日は起きてくるのが遅い。


「まったく、休みだからって早く起きなさいよね、もう」


 愚痴をつぶやきながら、息子を起こしに階段を上がろうとした時、ふと思い出した。


 ――そうだ、起こす前にお面をなんとかしないと。


 私は考えた。

「捨てる……いや、勝手に捨てるのはよくないよね。ここはひとまず隠すだけにしておこう」


 本当は捨てるのが一番手っ取り早いのかもしれない。けれど息子とはいえ、勝手に他人の物を捨てるのは良くないと私は思った。良心がそれを咎めた。そうだ、何も捨てることはない。あの薄気味悪い息子でなくなれば……。


 そうして私は、食器棚の上、奥の方に脚立きゃたつを使ってお面を隠した。これなら絶対に気づかれない――はず。


「あ、そうだ」


 捨てるという言葉で思い出したが、今日は燃えないゴミの日だった。私はよくゴミ出しを忘れてしまう。今日は思い出せて良かった。

 そして火のもとを確認してから、サンダルをはいてゴミを捨てにいった。それは時間にして十分じゅっぷんもかからなかった。実際は五分くらいだろう。

 家に戻り玄関を開けると、リビングの方から物音が聞こえた。どうやら息子が起きたようだ。


「おはよう、ゆう……た……」


 リビングの扉を開けて、私は――戦慄した。

 そこには息子がいた。


「嘘でしょ……なんで……」


 起きたばかりであるはずの息子。

 その顔には――さっき隠したはずのお面がすでに被さっていた。


   ◆


 私は恐怖でおののいた。

 怒りや苛立ちよりも、恐怖が心を支配した。

 なんで!? どうして? だってそれはさっき私が隠したばかりじゃない。脚立だって片付けたし、私にだって死角になるような場所に隠したのよ。なのになんで私より背の低い息子がもう見つけてるのよ。はっ、まさか……。


 どこかで見ていた……?


「まま」

「――ひぇ!?」


 ふいに、息子が口を開き、私はびくっとした。


「な、なに?」

 私の声は変に上ずってしまっていた。


「おはよう」

「あ、お、おはよう。そうだ、朝ごはんできてるから、さっさと食べちゃって」

「うん」


 息子は頷いて、大人しく私の言葉にしたがった。


 その後のことはよく覚えていない。ただ、逆らってはいけないような、触れてはいけないような気がしたのだけは覚えている。


   ◆


 私はそのあと息子を保育園に送りとどけた。

 先生にはまた事情を説明して、息子をそのままにしてもらうように説得した。先生も長年現場を見てきているため、子供のわがままについては理解があった。ただ、詳しいことは伏せたままだったために、私が説得している最中、眉間にシワがよっていた。

 私は事情を説明するべきなのだろうか?

「お面を外そうとすると息子が豹変するんです」

 といったところで、果たして信じてもらえるだろうか? きっと私の頭がおかしくなったと思うに違いない。

 なんとかしなければ、でもじゃあ――。


 私は何をすればいいの?


 家に帰ってからも心は晴れなかった。

 家事をする手に力が入っていかない。漠然とした不安を引きずりながら、私は午前中を過ごした。帰ってきたときには夫はいなかった。休みの日はよくパチンコに行っている。今日も行ったのだろう。


 十二時を過ぎたあたりだった。

 私が一人リビングで昼食を食べていると、固定電話のベルが鳴っていたことに気づいた。

 私はふらりと立ち上がり、電話に出た。


「はい、もしもし」


 声には抑揚がなくなっていた。


「あ、悠太くんのお母様でいらっしゃいますか! 犀華せいか保育園の森久保もりくぼです!」


 出たのは、息子の担任の森久保先生だった。先生の声はすこし張ってる気がした。


「はい。そうですが……なんです――あ!」


 遅れて私は、はっと気づいた。

 私の中で、一気に確かな不安が広がった。

 昼ごろにかかる電話。迎えの時間までまだ十分に時間はある。つまり、緊急の電話だ。

 そして私にはそれに心当たりがある。


「息子です!? 息子が何かしたんですか?」


 気づくと私はまくしたてていた。

 その訊き方に、先生は疑問に思ったに違いない。普通なら息子の安否状況を知りたがるはずだからだ。


「ええ、そのことについて今すぐこちらにきていただけますか?」


 不安は当たっていた。

 私は急いで保育園へと向かった。


   ◆


 到着するや否や、一人の女性が私のもとに近づいてきた。そして気づくと、私の頬に、じんわりと痛みが広がっていた。


「あんた、どういう教育してんの!? え、お面なんか被せちゃって。それでいいと思ってんの?」


 その女性はかなりの怒声を浴びせてきた。眉間によったしわが、なによりも如実に怒りを表していた。そしてようやく自分は、この女性に頬を叩かれたのだと認識した。


「ちょっと、落ち着いてください」

 後から駆け寄ってきた森久保先生が、私たちの間に割ってはいってきた。


「この女のガキのせいでコウちゃんが怪我したんでしょ! それじゃもう、こいつのせいって言ったって同じじゃない!」

「ですから、いったん落ち着いてください」


 先生は宥めるように彼女の肩に手を置いた。そして私の方に顔を向けて、眉尻を下げながら、

「本当にすいません。事情を説明するのでこちらへ来てください」

 と、申し訳なさそうに言った。

 私はこの急展開に、何がなんなのかわからなかった。

 そんな私たちをよそに、校庭では子供たちが賑やかに遊びまわっていた。今は昼休みの時間だった。

 


 私は彼女と共に、校舎の奥、事務室らしき部屋へと案内された。

「おかけになってください」

 入ると、入り口近くにはパイプ椅子が三脚広げられていた。私は一番入り口に近い椅子に腰を下ろした。


 一度ぐるりと室内を見渡す。


 ここに入るのは初めてだった。

 中は事務作業に使うのだろう机と椅子がいくつかあった。端のほうには棚があり、その奥にはコピー機があった。


「それで、息子が何かしたんですよね……」


 私は自分から話を切り出した。先ほどの流れから察すると、息子が彼女の子供を怪我させてしまったのだろう。


「ええ。そうなんです。ですがその前にまず、謝罪を申し上げます。このたびは本当に申し訳ございませんでした」


 森久保先生は頭を下げて謝罪の言葉を述べた。だが、私にはそれよりもまず状況が知りたかった。


「先生、先に経緯を教えてください」


 私が言うと、そうでした、と先生は少し目を伏せながら説明した。


「はい、実は悠太くんと光太郎こうたろうくんが遊んでいるときに、悠太くんが光太郎くんを怪我させてしまったらしくて……。どうやら光太郎くんが悠太くんのお面を取ろうとしたそうなんです」


 先生は、慣れない声で説明した。そのあいだ彼女――光太郎母は、脚を組んで私のことを睨みつけていた。


「それで、悠太くんがお面を取り返そうとして光太郎くんのことを突き飛ばしてしまったそうなんです。その時、光太郎くんの額が近くにあった棚の角とぶつかってしまって」

「だからぁ――」


 光太郎くんの母は突然立ち上がった。


「あんたんとこのガキが、お面なんかしてんのがおかしいでしょ! なんなのよアレ、ねぇ、うちのコウちゃんにもしものことがあったらどうしてくれんのよ!」


 険を帯びた声で迫りくる彼女には、苛立ちよりも不安が混じっていることに私は気づいた。

 私は黙るしかなかった。もしもこれがいつも通りの日常で起きたことなら反論もしただろう。だが今の私には言い返すだけの気力がなかった。


「だから、落ち着いてくださいって」


 先生はまた、宥めるように彼女の肩に触れた。森久保先生は身体が細く、年も若いので気弱な印象を受ける。事実、彼女の対応に慣れていない感じがした。

 彼女の方はそれでいったんは落ち着き、椅子に座った。

 私は今この場において重要なことを聞いた。


「息子は今どこにいるんですか?」


 息子が今どんな状況なのか、それが気がかりだった。母親として思う部分もある。だがそれよりも、アレを異質なものとして認識している自分がいた。


「悠太くんは気絶してしまって、今、保健室で眠っています」

 先生が説明する横で、光太郎母は嫌そうに顔を歪めた。


「え? ――いや、じゃあ光太郎くんは今どこに……」


 先生に向けて質問すると、先生は眉を掻きながら、

「光太郎くんは今、別室で他の先生が対応してます」

 と答えた。


 そこで私は、彼女の行動の意味を理解することができた。

 事の発端は、光太郎くんが息子のお面を取ろうとしたことだ。そのとき息子は取られまいと、光太郎くんを突き放した。それで光太郎くんは額に怪我をしてしまった。だがそうすると矛盾が生じる。そこで終わるなら保健室で寝ているのが光太郎くんで、別室待機しているのが私の息子となるはずだ。実際は逆だ。


 そこで彼女の行動を思い出せば、この矛盾も解消される。


 おそらく大した怪我ではなかった光太郎くんは息子に反撃したのだろう。今はおかしくなっているとはいえ、息子は息子だ。小柄で大人しかった息子が、喧嘩で負けて気絶したとしても不思議ではない。むしろその方がしっくりくる。

 そして我が子の責任を負いたくない彼女は、しきりに私のせいにしようとしていたということだろう。

 この推理を確認すると、先生は「はい」と答えた。彼女は何も言わなかったが、顔は不満そうにしていた。


 私は意気消沈した。

 ここは私が謝罪すれば、いったんは収束はするだろう。それよりいま問題なのは事の発端、息子の異変だ。あれを解決しないことにはまた同じようなことが起きる。

 今この場で二人に説明したところで、解決の糸口はつかめないだろう。どうすればいいのか……。

 そうして私が悩んでいた――その時だった。


 私のすぐ近くのドアが勢いよく開けられた。


「え……ゆうた?」


 お面をした子供がそこにいた。顔は見えない。だが服装や背格好から見て間違いない。息子だ。


「ちょっと、何もってるのよ!」


 突如、光太郎母が叫んだ。彼女の視線の先を追うと――息子の手もとがキラリと光って見えた。

 私はとっさに立ち上がった。

 息子は今、カッターナイフを握っていた。


「おい、どこだよ」


 ――え?


「あいつはどこだって聞いてんだよ!」


 もはや息子ではない“何か”が、大声で叫んだ。

 私は二人を確認した。光太郎母は少し怯えているように見えた。森久保先生は状況がいまいち飲み込めていないようだった。

 だが私にはわかっていた。この“何か”は光太郎くんを探しているのだと。

 そう、今この場で事情を知っているのは私だけ。


 私はまた不安になった。だがそれ以上に、今までなかった怒りの感情が込み上げてきた。

 いま目の前にいるのは紛れもない息子だ。だが果たして息子なのだろうか?

 息子は何かに取り憑かれているだけなのではないか?

 中身が別だとして、じゃあ外身はどうだ。あれは間違いなく息子だ。もしかしたら息子は今、身体の中でその何かに怯えて隠れているのかもしれないじゃないか。

 なぜその可能性に気づかなかった。もっと早くに気づくべきだったろう。

 そして私はなんだ。母親じゃないか!

 私が助けなくて誰が助ける!


 私はその“何か”に近づいた。先生は背後で、

「危ないです!」

 と声をかけてくれていたが、そんなのはもう関係ない。

 私は覚悟を決めた。


 一歩づつ確実に距離を縮めた。お面から覗かせるその“何か”の眼は、私を睨み付けていた。


「どけよ」


 はらに突き刺さるような低い声で、“何か”は言い放った。だが私は退かない。


「嫌だと言ったら?」

「……お前を殺す」

「だったら――」


 鋭く放つ奴の視線を跳ね返すように、私は言ってやった。


「やれるもんなら、やってみろよ!」


 すると、何かは持っていたカッターナイフを振り上げた。私もすかさず手を振り上げた。そして奴より先に奴に攻撃した。頬を叩いて体勢を崩させた。

 何かは勢いよく倒れこんだ。

 お面は外せなかったが、持っていたカッターナイフは離させることができた。すかさず私はカッターナイフを拾い上げた。何かはよろめきながら立ち上がった。


「さあ、お前の負けだ! とっとと息子の体から出ていけ!」


 何かに向かって、強く言い放った。

 すると何かは――。


「ふひゃ、うひゃ、うひゃひゃ、うひゃひゃひゃ、ひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ」


 気色の悪い笑い声をあげた何かに、私も後ろの二人も、恐ろしさのあまり閉口した。

 奇怪な笑い声。奇妙な手や足の動き。かくかくと震えているような、関節の可動域を無視するようなその動きは、あきらかに人間のそれではなかった。


 そして何かは、その動きのまま異常な速さで、不気味に走り出した。校庭を抜け、門扉をあけて外に勢いよく飛び出していった。

 私たちには追いかける余裕がなかった。かろうじて校庭で他の子を相手にしていた先生が気づいて、追いかけてくれたが、数分後には見失ったらしく一人で戻ってきた。


 私はその場にへたり込んでいた。

 疲れがどっと押し寄せてきた。もう何も考えられなかった。

 そのあと先生たちは息子の捜索やなんやらで慌ただしく動いていた。他の先生が事情を聞きに私に話しかけていたが、私はその時どう対応していたかよく覚えていない。訳の分からないことの連続、息子に起こった異変や、どこかへ去ってしまったこと、私の頭では処理しきれずに思考が止まってしまっていた。

 どうすることもなく私は校舎で時間を過ごした。


「あ、悠太くん戻ってきました!」


 しばらくして先生の一人が、そう叫んだ。

 私ははっと顔を上げ、校舎の外に出た。

 門扉のところには大泣きしている息子が立っていた。その顔にお面はなく、手にも何も持っていなかった。私は一目散に駆け寄った。息子を力一杯抱きしめた。

 そこにいたのはいつも通りの息子。あの不気味でおかしな息子ではない。

 あの“何か”はどこかへ行ったのだ。


 私は、息子と一緒に泣いてしまった。

 全てが終わった開放感が私を包み込んだ。


「どこに行ってたのよ、もう!」


 泣きながら息子に訊いた。

 私も息子も泣いていたため息子の返事はよく聞き取れなかった。だが、寂しかった、ままに会いたかった、と震えた声で言っていた。

 きっとあの何かに身体を乗っ取られていたのだろう。そして奴は息子の体から立ち去った。私のあの言葉が効いたんだ。

 そして私はもう一度息子を強く抱きしめた。


   3


 後日談。

 あの後私は先生達からいろいろと説明を求められた。何があったのかさっぱりな先生もいただろう。だけど私は適当に端折りながらそれっぽい説明で済ませた。森久保先生はあまり納得してなかったけど、私からしたらどうでもよかった。

 もう過ぎたことだ。息子が戻ってきたならそれでいいのだ。これ以上深追いする必要も、原因を探る必要もない。それに私は疲れてしまった。

 そう、すべての災難は過ぎ去った。

 これでまた、いつもの日常へと戻ることができたのだ。


「なぁ、キッチンペーパーどこだ?」


 あれから何日かが過ぎたが、今のところ異変はなかった。息子は以前のような大人しい、どこにでもいそうな普通の四歳児の姿へと戻っていた。

 あの不気味さの影はどこにもない。


「なぁ、聞いてるのか?」


 息子にあの数日間の出来事について訊いてみた。息子はよく覚えていないと言った。乗っ取られていたのだから覚えていなくてもしょうがない。

 数日間の息子に起こった異変。私は一生それを忘れることはないだろう。だがそれも過ぎたこと。いつか忘れられるその日まで、前を向いて生きていこう。

 私は心の底から安堵したのだった。


「おい、返事しろよ」


 ――えっ?


 声に気づき私は顔を上げた。目の前に夫が立っていた。


「な、なに?」

「だから、キッチンペーパーの替えはどこって訊いてんの」

「あ、えっと――」


 今日、夫は休み。私は今、リビングの食卓に向かって座っていた。どうやらぼーっとしていたようだ。私はふだん家事をしない夫に、シンク周りの掃除を頼んでいたのを思い出した。


「それなら食器棚の上にあるはずよ」


 それを聞いて夫は台所へと向かっていった。

 ……なんだろう。

 私はさっきまで夫の声が耳に入ってこなかった。まだあの時の疲れが残っているのだろうか?


「おー、あったあった」


 台所から夫の声が聞こえる。どうやら見つけられたようだ。

 私は自分の頬を軽く叩いた。

 いつまでも引きずるものじゃない。

 さて、じゃあ私も洗濯でもするかな。


 私は机に手をついて立ち上がった。

 もう忘れよう。それが一番だ。

 そして私は振りかえった――。


「ばぁ!」

「ぇ……」


 ――なんで……?


「なんだよ。もっと驚くかと思ったのに」

「いや……」


 背後には夫が立っていた。私をびっくりさせようとしたらしい。確かに驚かされた。だが私は別の理由でさらに驚かされた。

 だって、それは……。


「どうした? そんな怖い顔して」


 ――いや、嘘だ。そんなはずない。だってもしそうだとしたら……。


 私は震えた。もうあってはならないを見て。

 夫は不思議そうな顔をして呟いた。


「でも、なんでお面が食器棚の上なんかにあるんだ?」

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