第26話 告白
家に帰った私はお風呂に入って早々に寝支度を整えた。リビングの壁にかかった時計を見ると、針は午後九時三十分を指している。
一人きりの夜は怖い。
本当は誰かに側にいてほしかった。
それでも嫌なことはさっさと忘れてしまおうと私は無理やり布団に入り、暗闇の中で目を閉じた。
夢を見た。
誰かが私に触れてくる。花を愛でるような優しいものではなく、手折るように暴力的な手付きだ。
逃げようとした所で、私は自分の手足が縛られていることに気付く。
頭上でパシャリとシャッター音が聞こえた。
嫌だ、やめて。そんな写真を撮らないで。
悲鳴をあげた所で誰かが私を呼ぶ声がした。よく知っている、聞き慣れた声。同時にふわりと体が宙に浮く。
良かった、助かった。逞しい腕の感触と共に安堵感がこみあげ、私はお礼を言おうとして顔をあげた。
けれども、私を抱き上げる男は酒井先生の顔をしていて――
叫び声が聞こえた。と思ったらそれは自分の声だった。来なかった未来。だけどもあり得たかもしれない過去。痛みを伴うくらいにドキドキと脈打つ心臓を抑えながら、私はベッドから起き上がった。灯りのない真っ暗な室内が、先程の夢を想起させてまた私の記憶を刺激する。闇が怖くなって私はパチリと部屋の電気をつけた。
ふと時計を見ると、時刻は午後十一時四十五分だった。誰かの側にいて気分を紛らわしたい気持ちだったが、今から真木先生の家に行くのはさすがに迷惑だ。電話くらいならしてもいいだろうかとスマホを手にとった所で私は力なく首を振った。
今日は確か合コンがあると言って帰宅した真木先生だ。そのまま合コンで見つけた相手と一夜を明かすこともある。やっぱり迷惑はかけられないとスマホの電源を落とそうとした所で、画面に表示された名前に目が吸い寄せられた。
真木先生の名前の下に一ノ瀬さんの名前が表示されている。思わずタップしてトーク画面を出した所で私はため息をついた。
――やっぱりだめだ。彼の気持ちを利用するなんて。
きっと私が連絡すれば、彼はすぐに来てくれるだろう。彼女でもなんでもない、ただのお隣さんである私が都合よく一ノ瀬さんを振り回してしまうわけにはいかない。
そう思って画面を閉じようとした私の指が、何を間違えたのかポンとスタンプの画面を押してしまった。画面の上では可愛らしいうさぎのイラストがしゅんとした顔でこちらを見ている。慌てて送信を取り消そうと画面をタップするが、その前にピコンと音がして一ノ瀬さんから返信が来る。
――どうかしましたか?
――すみません。私の打ち間違いです。誤タップしてしまったみたいで。私は元気ですので大丈夫です。
――そうですか、無理はしないでくださいね。
そこでやり取りが終わる。ほんの少しの切なさを感じながら私は画面を閉じた。だが、またすぐにピコンっと通知音が鳴る。
――もし一人でいるのが辛くなったら俺の部屋に来てください。鍵は開けておきますので。
私はそのメッセージが映った画面を暫くの間じっと見つめていた。正直に言うと、一ノ瀬さんの厚意に甘えてしまいたかったけれど、彼女でもない私がそんなことをしていいのかという迷いもあった。
だけど、廃工場で私を抱き上げてくれた力強い手の記憶に、私は抗うことができなかった。
※※※
ドアノブに手をかけると、かちゃりと音がして扉が開く。彼の言った通り、ドアに鍵はかかっていなかった。本当に微かな音だったのに、私が入ってきたことに気がついた一ノ瀬さんが玄関まで出迎えてくれた。
「……すみません、お世話になります」
「いいえ、俺が言い出したことですから。中へどうぞ」
彼の言葉につられるようにして部屋の中に入る。私の部屋と同じ間取りになっている一ノ瀬さんの部屋は、モノクロの家具で統一された、シンプルで清潔感のある空間だった。小さなソファの前には背の低いテーブルが置いてあり、クッションが敷かれている。案内されるがままにその一つに座ると、一ノ瀬さんがキッチンの方へ向かった。
私はクッションに腰をおろしながら、そっと辺りを見回した。私の部屋と変わらない間取りなのに、置いてある家具が違うだけで雰囲気がまるで違う。小さな木製の箪笥の上に畳まれた洗濯物が置いてあるのを見て私はドキッとした。生活感のある光景に、本当に男の人の部屋にきてしまったのだと実感して心臓が大きな音を立てる。
(ほんの少しだけ……気持ちが落ち着いたら帰るから)
必死に自分自身に言い訳をしていると、目の前にマグカップが置かれる。ふわりと甘いミルクの香りが優しく鼻をくすぐった。
「ホットミルクです。あったまりますよ」
「あ……ありがとうございます。すみません、すぐに帰りますので」
「あかりさんの気持ちが落ち着くまでいてもらって良いですよ。枕とタオルケット、ここに置いておきますね」
そう言って一ノ瀬さんがソファに畳んだタオルケットと枕を置いてくれる。至れり尽くせりの対応に恐縮しながらマグカップに口をつけると、温かいミルクが私の体を満たしてくれた。
「わ、甘い。このホットミルク、甘くて美味しいです」
「ああ、砂糖を入れてあるんですよ。前にあかりさんと一緒にパンケーキを食べに行った時に、甘いものがお好きなようでしたので」
一ノ瀬さんの言葉がミルクと共に私の体にじわっと熱を与える。胸がきゅっと詰まり、私はそれを隠すように再びマグに口をつけた。
一ノ瀬さんが私の横に座る。そのまま当たり障りのない会話を続けるうちに、彼が私の心を落ち着かせてくれようとしていることがわかって、また私の胸が切なげな音を立てた。
「じゃあ、俺は別の部屋にいますから。何かあれば遠慮なく呼んでください」
そう言って一ノ瀬さんが立ち上がろうと膝を立てる。私は思わず――ほとんど無意識のうちに彼の服の裾を掴んでいた。
「今日は……一人にしないでほしいです」
彼の顔は見られない。うつむきながら服を掴む手にぎゅっと力をこめると、一ノ瀬さんが微かに動揺した気配がした。だけどもすぐに黙ったまま座り直してくれる。私は少しだけ体を動かして……一ノ瀬さんの体に身を寄せた。
近くで見ると、警察官なだけあって一ノ瀬さんは体格が良かった。ちょうど彼の肩の位置に私の頭が来る。体の触れ合う部分が温かい。マグを持つ両手に感じるじんわりとした温かさとミルクの甘さもあって、私は酩酊したかのようにふわふわと心地良くなる。
一ノ瀬さんの体温に包まれているうちに、とろとろと眠気の波がやってきた。安心感につつまれながら、私はまどろみの中に意識を手放した。
また夢を見た。
何もない空間を全力で逃げる私に、腕の形をした闇が襲う。全身にまとわりついて私を引き倒し、抗えない力で押さえつけようとしてくる闇に私は抵抗できない。
だけど――誰かが私の腕を掴んでぐっと引き上げてくれた。体にまとわりついていた闇がするっと解けるように離れていく。懲りずに闇が私の足元をすくおうとしてくるが、その度に誰かの腕が力強く私を引き上げてくれる。何度も、何度も。私が闇に飲まれようとする度に必ず助けてくれる信頼感が、次第に私の心を落ち着かせていった。
ハッと気がつくと、私はソファの上に寝かされていた。左側を下にした状態。枕が濡れているのに気がついて頬を触ると、しっとりと指がしめる。私はいつの間にか泣きながら寝ていたようだった。
起き上がろうとして右手が誰かに握られていることに気がつく。それが誰なのかは見なくてもわかった。
一ノ瀬さんがソファを背もたれにして、片膝を立てて眠っている。ちょうど横たわる私の足の方の位置にいて、左手だけをソファの方に伸ばして私の右手をしっかり握ってくれていた。
視線を下に落として彼の手を見る。硬い筋肉に覆われている腕はがっちりしていて、血管の浮いた、骨ばった手は私の手をすっぽりと包み込んでしまうくらいに大きい。彼の手の中でまるまる自分の手を見つめているうちに、じわりと涙がにじみ出てきた。胸がぎゅっと締め付けられて、どうしようもなく苦しくなる。この痛みの正体を私はもう知っていた。
怪盗をしている以上、彼の好意に答えてはいけない。頭ではわかっているけど、私の心はそれを受け入れたがっているのだ。もう理性では抑えられないくらいに、私は一ノ瀬さんのことが好きだから。
握られた手がピクリと動き、一ノ瀬さんが目を覚ます。慌てて涙を拭おうとしたが、その前にバッチリと目があってしまった。一ノ瀬さんが気付かわしげに私を見ている。
「どうしたんですか? 怖い夢でも見たんですか」
「いえ、何でもないんです。ごめんなさい、私、一ノ瀬さんに一晩中つき合わせてしまったみたいで……その体勢、辛かったですよね」
「夜勤でこういうのは慣れていますから。あかりさんは気にしないでください。今日は公休ですしね」
「そんなわけにもいかないです。すみません、今度必ずお礼をしますので」
「むしろ俺はあなたの力になれたのなら本望だと思っているんですけどね」
言外に笑いを含んだ声と共にスルッと手が解かれる。そしてその手が私の背中に回ってゆっくりと撫でてくれた。
「時には誰かに甘えたっていいじゃないですか。子供を守るあなたにも、守られることは必要ですよ」
優しい声と背中に伝わる温かい手のぬくもりを感じた瞬間、私の目からポロッと涙がこぼれ落ちた。どこまでも優しく、包み込んでくれる彼の存在に、私はもう抗うことができなかった。
「一ノ瀬さん、あの時のお返事を伝えてもいいですか?」
涙を拭って真っ直ぐに彼を見上げ、素直な気持ちを口にする。
子供の時間を盗む女怪盗はこの日、恋心に敗北した。
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