第16話 薄井先生

 カチリ、と長針が動いた音がした。

 その音につられるようにして私は顔をあげる。職員室の時計を見ると、時刻は既に午後七時になっていた。

 視線を机に戻せば目の前にはプリントの山。私は自分の椅子に座りながら、積み上がった残業を見てため息をついた。いつもは自宅に持ち帰って仕事の続きをするのだが、今は運悪く夏休み前。ここで終わらせなければいけないことが多くて、必然的に怪盗業もお休みになっている。私は目の前の仕事から逃げるように天井を見上げ、背もたれに体を預けた。

 この春から怪盗業を続けてきたが、やはり本業と並行するのはかなり無理があった。本業を疎かにしてしまっては本末転倒なのだから仕方がないことなのだけど、今日も昨日も子供達の家には行かれていない。今現在も寂しい思いをしている子がいるのかと思うと、私の心は重く沈んだ。

 

(もう少し学校側で支援をしてあげられたらいいのに)


 そう思いながら、恨めしげに校長室へ視線を送る。

 以前、遅くまで両親が帰ってこない家庭に教師が定期的に様子を見に行き、問題になったことがあった。この地域はフルタイムの共働き家庭が多いのに、帰宅時間が遅い家だけ特別な対応をしてもらうのはおかしいと別の保護者達からクレームを受けてしまったのだ。曰く、もう一人で留守番もできる年齢なのだし、支援が必要ならばその家庭がなんとかするべきだということらしい。

 だけど私はそれが正しいとは思えなかった。確かに小学生にもなれば一人で留守番はできるかもしれないけど、子供達を犯罪や事故から守る為には大人の存在は必要だ。それに何より、小さな子供達が寂しい思いをしているのであれば、構える大人が構ってやりたいと思う。

 そう思って各家庭の見回りを提案したこともあったが、校長は保守に回り、許可をしてくれなかった。この地域は学童も入りにくいのを知っているくせに、と私は誰もいない校長室をキッとにらみつける。


(いや、多分違うのよね。問題はそこじゃないんだわ)


 校長を説得して家庭訪問の許可をもらっても、保護者の理解が無い以上多分意味がないのだ。環境がそれぞれ違うだけにどうしても訪問頻度には偏りが出てしまうだろう。そうなると、あの家庭ばかり贔屓をすると糾弾する保護者も出てくるだろうし、訪問される方も遠慮をしてしまう。これでは以前の騒動と全く同じ結果になって終わるだけだ。やはり私は、学校にも保護者にも黙って怪盗を続けるしかない。

 ここまで考えた所で、私は机に転がっているペンを持ち直す。一先ず目先の仕事を終わらせなければと姿勢を正したその時だった。


「浅雛先生」


 突然名前を呼ばれてハッと顔をあげる。声をした方を向くと、職員室の扉の前に立っていたのは薄井先生だった。薄暗い廊下を背にしている為か、長い前髪の下に隠れた表情はわからない。


「教材を出すのを手伝ってほしいのですが」

「明日の準備ですか? はい、わかりました」


 気前よく返事をして椅子から立ち上がる。彼がこの時間まで残っているのは珍しいなと思ったが、きっと夏休み前なので仕事が立て込んでいるのだろう。私は簡単に机の上を片付けると、薄井先生と共に職員室を出ていった。



 案内されたのは、音楽準備室だった。職員室から少し離れた、二階の端にある部屋だ。私が準備室の鍵を開けてパチンと部屋の明かりをつけると、薄井先生が奥にある棚を指さした。

 

「この棚の上にあるピアニカを全部出しておいてください。僕は譜面台を出します」

「ピアニカですね、わかりました」


 明日の授業で使う楽器を出しておくのだろう。私は愛想よく返事をすると、棚を開けて一つずつピアニカを出し始めた。

 そのまま二人で黙々と楽器を出して机に並べていく。作業をしている間、薄井先生は終始無言だった。私が一つか二つ世間話をふるも、「はい」や「いや」など単純な返事が返ってくるだけで会話が続かない。

 正直に言うと、私はこの気まずい雰囲気に居心地の悪さを感じていた。会話はないものの、なぜか薄井先生はたまにチラチラと私に視線を投げてくる。その眼差しが少し不気味に思えて、私は早く作業を終わらせたくてたまらなかった。だが、最後のピアニカを出し終えた途端、背後にゾワリと誰かの気配を感じて私は勢いよく振り返った。

 目の前には薄井先生がいた。別の場所で作業をしていたはずの彼が、いつの間にか私のすぐ真後ろにいる。


「薄井先生……?」

「あの警察官は誰ですか」

「警察官? 一ノ瀬さんのことですか?」


 私が名前を出した途端、薄井先生の目の色が変わった。急に肩を掴まれ、勢いよく棚に体を押し付けられる。バンっという音と共に教材が入った棚がガタガタと震えるように音を立てた。


「知り合いなのか」

「え?」

「あの警察官とはどういう関係なんだ」

「た、たまたま以前から知っていただけで何もありません!」

「嘘をつけ!」


 彼が大声をあげ、ガンッと棚を蹴る。あからさまな威嚇行動に、私の全身が震えた。そのまま薄井先生が私の両足の間に自分の足を滑り込ませる。彼が何をしようとしているのかを理解したと同時に本能が警鐘を鳴らし、私は咄嗟に薄井先生の体を突き飛ばした。彼がよろめいた隙に駆け出し、音楽準備室から飛び出る。そのまま私は脇目もふらずに廊下を駆け出した。


(嫌だ……! 怖い、怖い!!)


 階段を飛び降りるように駆け下り、そのまま校舎を出る。後ろから彼が追ってきているのかどうかを確認する余裕は無かった。少しでも速度を緩めれば、あっという間に腕を掴まれて引き倒されてしまうのでは無いかと言う恐怖が全身にまとわりついてくる。

 背後の気配に怯えて走りながらぎゅっと目を瞑った時だった。


「あかりさん!」

 

 自分を呼ぶ声が聞こえ、同時にドンッと何かに体がぶつかる。ハッとして目を開けると、一ノ瀬さんが驚いた表情で私を抱きとめていた。


「一ノ瀬さん! 私、私……!」

「どうしたんですか? まずは一度落ち着いてください」


 一ノ瀬さんが懐からハンカチを取り出して私に差し出してくれる。どうやら恐怖のあまり走りながら泣いていたらしい。私はしゃくりあげながら借りたハンカチで涙を拭った。


「あかりさん、何があったか話してくれますか?」

「ど、同僚の先生に……音楽準備室で……」


 突如ザリッと背後から砂を踏む音が聞こえて私はビクリと肩を震わせた。思わず一ノ瀬さんにすがりつくようにシャツを掴むと、一ノ瀬さんの手が私の背中に回る。恐る恐る振り向くと、体操服を着た酒井先生が驚いたようにこちらを見ていた。


「浅雛先生? まだ帰られていなかったんですか。一体どうしたんです、何かあったんですか?」

「う、薄井先生に」


 そこまで言って私は言葉を切った。音楽準備室に連れ込まれて体を触られそうになった、と喉まででかかった所で、もしかしたらあれは勘違いだったのではないかと思い直す。そっと校舎に視線を送ると、追ってこなかったのか薄井先生の姿はなかった。

 

「すみません、私の勘違いかもしれません。お騒がせして申し訳ありませんでした」

「本当ですか? いつも気丈に振る舞っているあかりさんがあそこまで動揺していたということはただごとではないはずです。何があったか話してもらえませんか」

「でも私の勘違いで薄井先生にご迷惑はかけられません。私は大丈夫ですから」

「それが勘違いかどうかはまだわかりませんよ。間違っていてもいいんです。今後の犯罪抑制の為にも、あなたが実際に感じたことを正確にお伝え下さい」

 

 一ノ瀬さんがきっぱりと言い切る。その力強い声色に絆されて、私はぽつりぽつりと話し始めた。なるべく主観は入らないように伝えるが、迫られたことを思い出した時は声が震えてしまった。

 話し終わると、酒井先生が腕組みをしながら眉根を寄せる。


「確かに薄井先生は以前より浅雛先生に執着している感じがあったな。とうとう強硬手段に出たか」

「でも今までそんなこともありませんでしたし、そもそも話す機会もあまり無かったんです。やっぱり私の勘違いかもしれません」

「いや、それでも浅雛先生をこのまま一人で帰すわけには行きませんね。もう遅い時間ですし、今日は自分がお送りしましょうか?」

  

 酒井先生が歯を見せながらニカッと笑う。確かに一人で帰るのは不安が残るが、私はなぜかはいと言えず、ちらりと目線をあげた。

 私の視線に気づいた一ノ瀬さんが優しく微笑む。

 

「本当は自分が送って行きたい所ですが、この格好だと誤解を招くかもしれません。今日は同僚の先生に送ってもらってください」

「ハハハ。確かに警察官と歩いていたら連行されているように見えかねませんな。保護者に見られたら一大事だ。さて、私もそろそろ帰りますので鞄を取ってくるとしましょう。警察官さん、ご苦労様です。さ、浅雛先生、一緒に職員室へ戻りましょう」


 酒井先生が豪快に笑って私の背中を押す。

 私は頷いて一ノ瀬さんに挨拶をすると、酒井先生と一緒に校舎へ向かって歩きはじめた。歩きながらチラリと背後を見ると、一ノ瀬さんは私が帰るのをじっと見守ってくれていた。

 

 理由はわからないが、なんとなく……酒井先生と二人で歩いている姿を見られたくない、と私はぼんやりと思った。

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