第14話 訪問

 ふわり。と煮立ったお醤油の香りが鼻孔をくすぐる。根菜が箸で柔らかく崩れるのを確認すると、私はくつくつと煮立っている鍋の火を止めた。 

 今日の一ノ瀬さんの勤務形態は非番だ。昨日の午前からまるっと二十四時間勤務して、お昼頃には帰宅しているだろう。私も今日は休日なので、ぴよぴよ仮面のお仕事はお休みして作り置きのおかずを仕込んでいた。貰った高価なGPSのお礼だから、と続けているおかず作りだったが、最近では喜んでくれる一ノ瀬さんの顔が見たくて作っているようなものだった。好きなおかずを作ってあげると、嬉しそうに笑う彼はちょっとカワイイ。

 タッパーに入れて後で渡しに行こうと思った途端、ピンポンと玄関のチャイムが鳴る。時計を見ると、時刻は午後五時を指していた。


(誰だろう。今日は休日だから真木先生かな?)

 

 アポ無しで突撃してくるのは真木先生くらいだ。来るなら事前に一言連絡くださいよと思いながら扉を開けると、そこにいたのは意外な人物だった。


「一ノ瀬さん……?」

「こんばんは。遅くに訪問してしまってすみません」


 警察官の制服をきっちり着た一ノ瀬さんが帽子を取って軽くお辞儀をする。私は目をパチパチとしばたかせながら扉の前に立つ彼の姿を見つめた。


「あれ? 制服を着ているということはまだ勤務中ですか? 今日は非番って聞いていたんですけど」

「ああ、よく覚えていましたね。少し仕事が立て込んでおりまして。昼にあがるつもりが、この時間まで長引いてしまいました」

「ええ! てことはほぼ二日勤務ですよね? なんだかお忙しいご様子ですが、今日はどういったご要件で来られたんですか?」

「単なる巡回訪問です。この周辺で変わったことがないか教えていただければと思いまして」


 一ノ瀬さんがいつも通りの優しい表情で言う。でも、私は一ノ瀬さんの目の下にうっすら隈があるのが気になった。多分これは昨晩ろくに仮眠も取れていないに違いない。そしてここまで疲れ切った人は大抵、この後コンビニか何かで適当に済ませるか何も食べずに倒れるように寝てしまうはずだ。私にはわかる。だって私もしょっちゅう同じことをやってるから。

 そう思った途端、持ち前のお節介がむずむずと顔を出す。疲れ果てた彼を目の前にして居ても立ってもいられなくなった私は、ニコッと笑って大きく扉を開けた。


「わかりました。私で良ければ何でも聞いてください。とりあえず中で話しましょう。どうぞあがってくださいね」


 彼の腕を掴んで半ば強引に招き入れる。玄関口にスリッパを並べ、私は準備の為にパタパタと部屋の中に入っていった。一ノ瀬さんはこの無理やりな展開にぽかんと呆気にとられていたが、やがて観念したのか部屋の中に足を踏み入れてくれた。

 彼が入ってきたのを確認すると、私は冷蔵庫からお茶を出し、氷を入れてローテーブルの上に置いた。私が着席するのを確認すると、一ノ瀬さんがカチリとボールペンの頭を押す。


「お忙しい時間帯にすみません。手早く済ませますので。この周辺で最近変わったことはありませんでしたか? 些細なことでも何でも良いのですが」

「変わったこと、ですか? うーん特にありませんけど……」

「不審なものを見聞きしたことも?」

「ええ、普段と変わりないですよ。逆にこうやって聞き込みをされているってことは何かあったってことですか?」

「そうですね、単刀直入に聞いてしまいましょうか。あかりさんはぴよぴよ仮面という言葉は聞いたことがありますか?」


 彼の問いに、私の心臓は一瞬大きく跳ね上がった。一ノ瀬さんが調べているのがまさかその件だったとは。だけどこうやって私に聞いてくるということは、まだ正体がバレたわけではなさそうだ。気持ちを鎮める為に大きく深呼吸をして冷たい空気を脳に巡らせる。


(落ち着くのよ、あかり。逆にこれはチャンスよ。彼がどうしてそのことを知ったのか情報源を聞いておいた方が良いもの)


 そう思い直した私は、むりやり笑顔を貼り付けて一ノ瀬さんに向き直った。


「いえ、全く聞いたことがありませんけども……最近流行りのアニメかなんかですか?」

「詳しいことはお話できないのですが、どうやらぴよぴよ仮面と名乗る人物が、家主の許可なく住居に立ち入ったという件で通報を受けています。あかりさんの勤務される小学校の児童が証言しておりましたので、あなたにも話を聞いてみたいと思いまして」

「そうだったんですか。いえ、子供達からも話は聞いたことがありませんよ。逆にどのお宅から通報があったのですか? あの、変な意味ではなくて、えーと、私からも生徒にお話を聞いてみようかと思うのですが」

「そうですね、まぁこれは貴女にも関係があることかもしれません。ぴよぴよ仮面の名前は、先日逮捕した塚本の証言から出ています」


(うわっあいつか!!)


 一ノ瀬さんから答えを聞き、私は内心で机に突っ伏した。正太郎くんから通報するとお母さんが暴力を受けてしまうという彼の訴えを聞いて、わざと目の前に姿を現したのがいけなかったのか。いや、生徒を守るためにしたことなのだから後悔はない。だけど、一ノ瀬さんに怪盗の存在を知られてしまったのは私にとってかなり不利な事実だった。これは今まで以上に警戒をしなくてはいけない。

 内心で焦っている私をよそに、一ノ瀬さんはパラパラと手帳をめくる。


「ぴよぴよ仮面という人物は若い女性らしいですね。年齢は不詳。外見的特徴は控えますが、ぴよぴよ仮面というのは通称ではなく本人の名乗りだそうです。実際にぴよぴよ仮面を目撃したのは塚本と正太郎くんの二名のみ。ですが、正太郎くん曰く、小学校内ではぴよぴよ仮面の噂が」

「あ、あの、もうそれくらいで……カンベンシテクダサイ」


 真面目な一ノ瀬さんに真顔でぴよぴよと何回も言われるとなんだかこちらが恥ずかしくなってくる。小さい子供にも親しんでもらいやすいように浅雛から取った名前なのだが、こんなことになるならもっと格好いい名前をつけておくべきだった。

 慌てて彼の話を遮った私は、話題を変えようとヘラリと笑う。


「お、お話できることが少くて申し訳ありません。あっそういえば今日のおかずは一ノ瀬さんの好きなお煮しめにしたんですよ。よかったら食べて行きませんか?」

「いえ、ありがたいお言葉ですが、やはり勤務中ですのでご飯は頂けません。もうこれで失礼させていただきますので」

「だめですよ! 一ノ瀬さん、多分この後もお仕事されるつもりですよね? そんなことをしていたら、いつか本当に倒れちゃいますよ。私、心配です」

「ハハ、参りましたね。そんなに可愛いことを言われたら、聞かないわけにはいかなくなるじゃないですか」


 言いながら一ノ瀬さんが微かに目を細めた。精悍な目が射抜くように真っ直ぐ見つめてくる。でもなんだかその視線がいつもより柔らかいような気がして、私の胸がドキリと鳴った。

 思わず固まってしまった私を見て、一ノ瀬さんがフッと笑みをこぼす。


「あまり不用意にそういうことを言わないでください――思わず勘違いしてしまいそうになる」

「えっ……」


 何を言われたのか瞬時にはわからなかった。低い声が耳朶を震わせ、一拍遅れて意味を理解したと同時に胸がカッと熱くなる。


(わ、私また変なこと言っちゃったの!? いやそれよりも、か、勘違いしそうになるって……)


 ともすると好意があると捉えられる言葉に、私の頭はパニックで混乱していた。きっと何かの勘違いだと自分に言い聞かせるも、ドキドキと高鳴る心臓の音がうるさくて頭がうまく動いてくれない。

 この場にいるのが落ち着かなくなった私は、思わず両手をついて立ち上がった。


「い、今ご飯の支度しますね! そこで座って待っててください!」


 一ノ瀬さんの視線を避けるように腰をあげる。だが、立ち上がろうと足に力を入れた瞬間、私の右足がロングスカートの裾を思い切り踏んづけた。


「えっきゃあ!!」


 裾を踏んでいたことに気が付かなかった私の体が前のめりに倒れていく。だが、私の顔が床にたたきつけられることはなかった。

 硬い床の代わりに全身を包むのは力強い腕の感触。ハッと顔をあげると、一ノ瀬さんの顔が至近距離にあった。咄嗟に一ノ瀬さんが抱きとめてくれたのだろう。まるで正面から抱きついたかのように――私の体は彼の胸にすっぽりと収まっていた。


「あかりさん、大丈夫ですか」

「ごごごごごめんなさい! 私ったらと、とんでもないことを!!」


 慌てて身を起こすと、一ノ瀬さんも私の体から手を離す。すっと離れていく腕の感触と共にふわりと石鹸の香りがしたような気がした。

 

「怪我が無いなら何よりです。自分も少し長居をしすぎたようですね。そろそろ失礼させていただこうかと」

「あ、そうですよね。ごめんなさい、私も引き止めてしまって」


 恥ずかしさを隠すように一ノ瀬さんから視線をそらす。そのまま彼と目を合わせないようにして私はパタパタと台所へ向かった。


 結局その日は、おかずだけ持ち帰ってもらうことになった。タッパーに入れたお煮しめは、一度隣の自宅に持ち帰ってからまた出勤するらしい。礼儀正しくお礼を言って去っていく彼の背中を私はぼんやりと見送った。


 今はどうやって一ノ瀬さんの目を避けながら怪盗業を続けるか考えなきゃいけないのに。



 頭の中をぐるぐると巡るのは、先程抱かれた時の力強い腕の感触だった。


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