少し間をおいて、俺は再び携帯を手に取った。

 少し間をおいて、俺は再び携帯を手に取った。


 先ほど送信した〈おめでとう〉に対する千歳からの反応はなかった。


 俺は来るかどうかわからない返信を待たず、連絡先から『千歳皐月』の名前を探し出し、躊躇う前に電話をかけた。


 こんなことをする意味なんてないのかもしれない。


 何もせずに終えることが、本当はお互いにとって良かったのかもしれない。


 ただ、それでも電話は繋がった。




『――先輩……どうして』


「ち、千歳か? あっ、いや別にどうというわけじゃないんだけど」


 電話口から聞こえた彼女の第一声に俺は焦った。声のトーンも台詞もどこか切実なものに思えて、俺はかけるべき言葉を見失いそうになった。


 だけど一言、これだけはなぜか自然と言うことができた。


「千歳の声が聞きたかった」


『ふっ、なんですか、それ?』


 電話の向こうから吐息と一緒に笑い声が漏れる。


 かなり恥ずかしいことを口にしてしまったと自覚したが、繋がったものが途切れないように俺は言葉を継いだ。


「なんていうか元気かなって思って」


『元気ですよ。先輩、どうかしたんですか?』


「どうかしちゃったのかもな」


『何認めちゃってるんですか。変ですよ? 熱でもあるんじゃないですか?』


「おでこに手を当てた感じで言うとないから平気だ」


『一応確認はするんですね』


 ところどころでくすっと笑いながら、千歳はなんでもない会話に付き合ってくれた。


 ずっとこんなふうに話しているのも悪くはない。楽しいと感じているのはきっと嘘ではなくて、心の底から沸き上がる素直な気持ちだった。


 でも、この電話はいずれ切れる。繋がっている時間はとても短い。


 それを知っているから、与えられた時間で確かめなくてはならない。


「千歳、一つお願いがあるんだけど」


『……なんですか、先輩?』


 改まった物言いに、千歳のほうも若干緊張気味に言葉を返してきた。


 俺は深呼吸して覚悟を決め、電話の向こうに問いを投げかけた。


「追試に受かった感想を聞かせてくれ。もちろん本音でな」


『……』


 真っ先に返ってきたのは沈黙だった。残念ながら表情は見えないので、驚いたのか混乱しているのかあるいは呆れているのか判別がつかなかった。


 けれど黙ったままの時間が過ぎていくごとに、そこに〈おめでとう〉では足りなかった何かがあるのだという確信は強くなっていった。


 待っていると、ちょっとずつ彼女の心の声が漏れ始めた。


『嬉しかったのは間違いありません。先輩に対して感謝しているのも』


「そうか」


『伝わってなかったのならすみません』


「いいんだ。別に謝ることじゃない」


 優しく言葉を交わしていく。慎重に途切れないように。


『先輩が知りたい感想って、多分こういうんじゃないですよね』


「話したくないことは無理に言わなくていいよ。頼んでおいてあれだけど、嘘をつかれるのはやっぱり嫌だから」


 嘘のない言葉がほしい。ただそれだけなのだから。


『先輩、聞いてくれますか?』


「なんだ?」


 短く問い返すと、耳元で千歳の声が静かに響いた。


『今、わたしは学校の校庭にいます』


「今って、こんな時間にか?」


 時刻は夜の九時を回っていた。追試の返却があったとはいえ、そんな時間まで学校に用があったとは思えない。


『独り言だと思って聞いてください』


 千歳はこちらの疑問を意に介さず、遺言を残すみたいに語り始めた。


『今夜、わたしは敵と戦います。最強の敵です。勝てる見込みはありません。だけどもう逃げるわけにはいかないんです。だからここで決着をつけます』


 聞こえるのは声だけだったが、夏の夜の風が吹き抜ける校庭にぽつんと立つ千歳の姿が浮かんできた。


 その表情が儚く笑った気がした。


『全力で戦って……それで負けます』


 想像した光景を前に、俺は返事はおろか相槌すら打てなかった。


『……先輩』


 耳元で告げられる言葉はそれでも止まらない。


『わたしのこと、気にかけてくれてありがとうございます。最後の話し相手が先輩で良かったです。やっぱり敵について話せるのは先輩だけですから』


 目の前の離れた場所から最後の声が届く。


『さようなら、先輩』




 繋がっていた電話が切れた。


 中途半端に伸ばした手と喉まで出かかった声はどちらも千歳には届かなかった。


 魔法が切れたように、俺は元からいる自分の部屋の中に戻ってきたことを感じた。


 足元にあるのは、翌日の荷物を詰め込んだ鞄。これを背負って明日から登校する。


 現実の日々を生きるために。


 これで問題はないはずだ。大変だろうけどその先には道がある。


 逆に言うと、それ以外の道は今は見えない。


 でも、もし目に映らない道が存在するならば。


 誰にも気づかれないような他の道を選ぶ権利がまだ残っているならば。


 俺はそこに踏み込む勇気があるだろうか。


 静まり返った部屋の隅に目を向ける。そこには『千歳に言われて見つけておいたもの』が、行き場もなく立てかけられていた。


 詳しい状況は何一つわからない。


 俺が何をするべきかは定まっていないし、千歳の言っていることをちゃんと理解することもできていない。


 だけど、俺は彼女のことをいつでも信じている。


 だったら行くしかないじゃないか。


 最強の敵とやらに敗北しようとしているヒロイン――千歳皐月のもとへ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る