ネンリンデカI 願いの叶う袋

東 風天 あずまふーてん

第1話 奇妙な本との出会い

 いずれにしても、人間にとって、子供の時期は大人しだいである。


 だが、その大人も、子供の時期があってこそ大人になるから、もっぱら、子供の時期にどのような経験をしてきたかによって、そうした大人になったので、もう手遅れである。


 たまたま、不遇な環境に育つならば、それをはねのけようと力のある大人になるかもしれないが、よしんば、恵まれた家庭に育っても、努力しなければ堕落した大人になる。


 そもそも、机の上の勉強が嫌いなばかりか、およそ授業ではぼんやりしているのにもかかわらず、何かの影響をきっかけにして、特定の分野にいちじるしく興味をもって力を発揮する少年少女たちが、まぎれもなく存在する。


 そこへもってきて、実際に、大人顔負けのを知識や技能を発揮するのを見せられると、正直なところ、おどろくしかないのである。


 さしあたって、スポーツ界では、学校教育が始まる前に、競技人生のスタートをいち早く切った少年少女が、並外れた偉業を成し遂げる例を数多く見ることは常々あって、かねがね、先人の言にも『後世畏る可し』とあるにもかかわらず、ありきたりの大人の先入観で、しょせん子供はそんなものだろうと未来の若芽を摘んでしまってはならないのだ。


 してみれば、少年とはいえども、とりわけその思考や記憶の能力は、あたかも真っ白い紙に、いきなり絵を描くように、どんどん鮮明に描き込まれるように伸びていくにちがいない。


 この書の主人公で、海辺の町に住む、小学五年生の香原木俊介も、その例に漏れず、小学校の授業の教材にはあまり関心はないのだが、そこではあまり触れることのない古代のエジプト文明にとりわけ関心を持った。


 ファラオの名前とその業績を記憶したり、ピラミッドの形状やその所在地を分類したり、多神教であったエジプトの神々の名前や性質まで言えるようになったりしていた。


 それだけにいつの日か、憧れのエジプトの地を訪れて、ぜひとも本物のピラミッドの頂上に立って四方を見渡し、あたかもファラオになった気分を味わってみたいと思ったり、ひいてはツタンカーメン王の黄金のマスクを間近かで見て、死者が赴く冥界を、黄金の光で照らしてみてみたいなどともっぱら空想をひろげるのだった。


 ついでに言っておくと、俊介がこうして古代エジプトに興味を持ったのは、おそらく父親の影響にちがいなかった。


 というのは、父親の富夫は中学・高校時代の社会科の教員の影響で、考古学に興味を見出し、山に行って勝手に地層を掘ってみたり、方々の遺跡発掘に参加したりして、いずれは大学で研究をしたいと考古学に情熱を燃やしていたが、海産物会社を経営していた先代が強く反対して、心ならずも会社の後を継いで社長としての仕事をする羽目に陥ってしまった。


 そのためそれ以来、考古学者の夢は断ち切られてしまったが、もっぱら本業の傍ら、考古学は趣味として継続し、かつて自分で掘り出した遺物や考古学関連の専門書や写真集、雑誌、小説などを自らの書斎にずらりと並べて、しげしげと背表紙を眺めては古代のロマンに浸りながら、目の前の稼業に励む生活を送っていたのである。


 そうした父親のもとに、香原木家の長男として生まれた俊介は、いつ頃からかわからないが、ときおり父親の書斎に出入りしては、そういった書籍を引っ張り出してはページをめくって、謎めいた古代の世界に興味を持つようになった。


 とくに古代エジプトの写真集に載っていたギザの三大ピラミッドやルクソール神殿、アブ・シンベル大神殿やオベリスクなどの各種建造物のほかに、とりわけミイラに代表される死後の世界観などにすっかり魅せられたようで、どれを取って見ても、本当のところ俊介の幼い心には、底知れぬ恐ろしい世界として焼き付いたが、怖いもの知らずという言葉があるように、まさしく怖くても覗いてみたいという好奇心を働かせていたのだ。


 それどころかその一方で、いたって教育や科学の発達していない何千年も昔に、何をもとにこのような奇抜で奇怪な文物を創り出すことができたのか、俊介にはからきし信じ難いものに思われた。


 そんなとき、俊介はいつものように古代文明を特集したテレビ番組を見る機会があって、その番組では、古代文明の発祥について、途方もない想像がされていることにおどろいた。


 ナレーターが言うには、これほど怪物的なエジプト文明の威光や繁栄を創り出した人間たちは、実のところは一つの生命体を成していて、たまたま宇宙の何処からか地球にやって来て、この地上でいっとき人間の集団を産み出し、それらの奇才に満ちた人間たちの集団が、独自なる文明を創造したのだと説明するものだった。


 そうして、やがて並外れた才能を出尽くした人間の集団は、文明がピークを迎えると、こうなるともう衰退を始めていくのだが、言うなれば生命体として消滅するわけではないので、おそらく今度は、この広い宇宙の彼方此方にある他所の世界に移動して、またぞろ同様の文明を打ち立てながら宇宙を転輪するに違いないと考え、もしかすると、ふたたび現代の地球上に回帰して、新たな文明を築くことがあるかもしれないと結論付けている。


 少年の俊介は期待感もあって、ひょっとするとそんなこともあるかもしれないと、奇怪な理論をむしろ素直に信じて、そうした空想がにべもなく頭の中で渦巻くと、それらがひいては夢や希望へと昇華していって幼い胸がときめくのを感じた。


 そんなわけで、もはやすっかり古代文明の虜になった俊介は、学校の勉強はさておいて、折をみては父親の本棚から、何冊かを引き抜いては自分の部屋に持っていって読み耽るのがひそかな楽しみになっていた。


 なにしろ、こうして得た知識は、仲間とおこなうオンラインの対戦ゲーム(古代都市で主人公が様々な遺物をアイテムとして手に入れながら怪獣や怪人を倒して進むゲーム)に、ものの見事に活用できることもあって、当然なことながら俊介の遊びの世界を充実させることになったようだ。


 いずれにせよ、時間がたつにつれ、俊介がまだ読んでいない本が少なくなっていく中で、「袋物語」というやけに風変わりな題名のついた本が目に止まった。


 おまけに著者は、ピーター・レックス卿という百年も前のイギリスの考古学者である。


 俊介は、ページをパラパラとめくると、ふと次のような文章を見つけた。


 そこには次のように記されている。


『砂漠の民は砂漠の砂粒から産まれた。砂漠の一粒一粒の砂は遥かに長い歳月をかけて、一人一人の人間へと生まれ変わるのだ』と。


 そもそも人間の出生というものは、当然のことながら母親の胎内から産まれるものなのだ。


 だが、この本にある人が砂漠の砂粒から産まれたという不気味な表現に触れて、俊介がこれまで空想した創造的な生命体は、灼熱の砂漠の砂でさえ生命を持った生き物に変身させるのだという本の表現が、心に大きく怪奇な疑問を産み出していた。


《まるで人間は、この惑星の地面から、まさしく植物のように生まれたみたいじゃないか》


 そう思った俊介は、何か驚くことがほかにも書いてあるのではないかと、つぶさにページをめくると、見るからにひときわ奇妙な物体の挿し絵を発見した。


 その物体の表面には古代エジプトの象形文字がびっしり描かれ、全体は台形を逆さまにしたような形をしている。


《何だ?これは?》


 よく見ると挿絵の説明には『願いの叶う袋、ゴバ』と短いタイトルがついているのが分かる。


 とにかく周辺の文章に説明がないものかと探して読むと『パピルスに、願いを書いて、ゴバに入れた者は、ただちにその願いが叶う』と書いてある文章を見つけた。


《願いが叶う?ゴバとは何?もっと読んでみるか》


 俊介は、その不気味な挿絵にまぎれもなく引き込まれた。


 けっこう難しい漢字も多いなと感じながら(もっとも、国語の授業をまじめに受けていればそんなことは無いのだろうが)読み進むのに苦労したが、それでも数日間かけて、しまいまで読み終えるにいたった。


 本当のところ随所に描かれた挿し絵がなければ、文章を理解できず、最後まで読み通せなかったかもしれない。


 俊介はこうした話はいったいぜんたい、作り話なのか、それともことによると真実の話なのか、ただちに判断がつかなかった。


 いずれにせよ、めったにある話ではないので、ついでに読者にもこの奇妙な物語のあらすじを紹介しておこうと思う。

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