第九話 煙水晶
槐の店に行くと、珍しく表の格子戸が開け放たれていた。
戸口には腕を組んだ少年が立っている。高校生くらいの年だろうか。視線は通り庭の方――家屋の中にあって、花梨のことに気づく様子はない。
ちょうど入り口を塞ぐように佇んでいたので、花梨は彼にどう声をかけようか迷った。店の客だろうか。それとも、音羽家の者か――
「こら。そんなところに突っ立ってるんじゃあない。お邪魔だろう」
すぐ側まで近づいたとき、中からそう声がかかった。少年はその言葉でようやく花梨のことに気づいたらしい。軽く頭を下げながら、無言で道をあける。
会釈を返しながら中に入った花梨は、その先の光景に唖然とした。
通り庭の一角。普段は閉め切られている左側の戸が開いている。その先にある部屋には槐と桜と、そしてひとりの見知らぬ老人がいた。
先ほど声をかけたのは、この老人だろう。
彼らはひとつの石を取り囲んでいる。木製の台だろうか。それに乗せられているのは、ひと抱えもある大きな石。
しかし、花梨が驚かされたのは、それを取り巻く背景の方だ。
通り庭から一段高い位置にあるその部屋は、板張りの床だった。壁には天井まで届くほどの棚が並べられていて、雑多に石だの箱だのが詰め込まれている。
それだけではない。それらの石は、箱は、棚からあふれて、その周辺にまで積み上げられていた。よく見ると、今にも崩れそうなところまである。場所によっては足の踏み場があるかさえあやしい。
ここに置かれているこれら全部が、もしかして――石、なのだろうか。
町屋なのだから、この部分は店に当たる部分のはず。しかし、これはどう見ても――倉庫だ。
――こんな風に、なっていたのか。
今まで花梨が見てきた店の印象と比べると、それはいかにも混沌としていた。花梨はあまりのことに言葉を失う。
そうしている間に、槐は老人に何やら花梨のことを話したらしい。老人は、ほう、と声を上げると、こう問いかけた。
「こんにちは。お嬢さん。石のことを学んでおられるとか。では、
花梨は、はっとして老人を見返した。すいせき。初めて聞く言葉だ。
「いいえ。申し訳ありません。不勉強なもので……」
「謝ることないよ。知らなくて当然。じいさんしかやってないような趣味なんだから」
その声は背後から聞こえてきた。花梨は思わず振り返る。
先ほど戸口ですれ違った少年が、肩をすくめてこちらを見ていた。しかし、彼は言いたいことだけ言うと、あとは興味を失ったのか、気のない素振りで表の通りの方へと視線を向ける。
素っ気ない態度に激高したのは、水石について問いかけた老人だ。
「何を言う。まったく。おまえは何もわかっておらん!」
老人は少年に向けてそんな言葉を投げかけた。しかし、当の少年はどこ吹く風。老人は収まりがつかないらしく、さらにこう続けた。
「明治の頃までは、石を愛でるといえば水石だ。昨今は外国産のアメシストなぞがもてはやされとるようだが、和室を飾るには当然、水石がふさわしい。素晴らしいこの国の文化だ。それを、単に年寄りの道楽のように言いよって」
老人の後ろでは、桜がどこか呆れたような表情を浮かべている。槐も軽く苦笑していた。
呆気にとられている花梨に、教えてくれたのは槐だ。
「水石というのは、室内で石を鑑賞する文化、と申しますか。その名の由来は諸説あるようですが、元は山水石、あるいは山水景石であったとも言われています。砂を敷いた水盤などに、石を置く。そうして風景に見立てたり、そのものの姿を楽しむ、といったところでしょうか」
老人は槐の言葉に、うんうんとうなずいている。そして、話の続きを引き継いだ。
「水石は床の間なんかに飾られる、言わば自然の芸術品ですわ。実際に中国から渡ってきて、後醍醐天皇の愛石ともなり、最後には徳川家のものとなった石が今も美術館に所蔵されとります。正真正銘の宝物というわけで。その石には固有の名もありましてね」
「確か……『夢の浮橋』でしたか」
そう言ったのは槐だ。
夢の浮橋。源氏物語――宇治十帖の最後の巻名と同じだった。何か関連があるのだろうか。
ともあれ、水石の話題に夢中だった老人は、ふと花梨のことを思い出すと、あらためて姿勢を正し、深々と頭を下げた。
「申し遅れました。私は
戸口にいた少年は、この老人の孫だったようだ。花梨はあらためて名を名乗る。宮古は先ほどまでの勢いを恥じたように、軽く照れ笑いを浮かべた。
「あんなことを言いましたが、今の若い人には水石なんぞ、なじみはないでしょうなあ。つまらん話をしてしまって申し訳ない」
「いいえ。そんなことないです。お話、興味深く聞かせていただきました」
花梨がそう言うと、宮古は気をよくしたらしい。それなら――と、宮古は目の前にある石を差し示した。
「水石言うんは、まあ、例えばこういう石を言います」
花梨は槐に招かれるままに通り庭から部屋へと上がった。そうして、床に置かれたその石に近づいていく。
それは台の上に乗せられた大きな石だった。よく見ると、石の表面には大きく白い花のような模様がある。それがつるりと磨かれていた。
花梨がひととおりその石をながめ終えた頃、見計らったように槐が口を開く。
「これは
宮古老人はうなずく。
「この手のものは、紋様石とか言われとります。花の模様だけでなく、風景とか――まあ、何かおもしろい模様であれば、水石として飾られますな。こちらは自然のままだけではなく、模様を出すために切ったり磨いたりもします」
宮古がそう言うと、次に槐がうなずいた。
「ひとことに水石と言っても、いろいろあるのです。他にも、自然のままの姿を楽しむものとして、山や海上の岩に見立てた石を――先ほど言ったとおり砂を敷いた水盤に置いて飾ったり。あとは、人や家の形に似ている石など――そういった奇石のたぐいもそうですね」
楽しげに話を聞いていた宮古は、そこで少し顔をしかめた。視線は、目の前の菊花石にある。
「しかし、最近の家には床の間どころか和室がない。そうでなくとも、置き場がない――と手放す方も多く。まあ、そういう訳で、僭越ながら水石の愛好家として、行きどころのない石を引き取ったり、逆に欲しいという方に譲ったりしとります。まあ、それで――」
宮古はそこで、視線をぐるりと周囲に巡らせた。
「今日はこの菊花石を、槐さんとこで預かってもらおうと思いましてな。こちらは最近うちで引き取ったもので、確かに立派なものなんですが、菊花石ならすでに愛着のものがありましてね。それで、代わりに――」
言葉を区切って、宮古は槐の方へと向き直る。どうやら、宮古にとってはここからが本題らしい。
「以前見せてもろた、
その言葉に槐は、ああ、と呟いた。
「あの梅花石ですか。かまいませんよ。そうですね。さて、どこにしまったかな……」
そう言った槐の視線は、混沌とした部屋の一角に向けられた。そこは箱がいくつも積み上げられていて、一見するだけでは何があるかわからない。
足を踏み出しかけた槐を、桜が押し止める。
「いいですよ。槐さん。僕が探します」
おそらく、その辺りにあるはず――と槐の記憶を確かめて、桜は築かれた山を崩し始めた。関係ないだろう箱も念のため軽く確認しながら、別の場所にまた積み上げていく。
花梨は、こそっと桜にたずねた。
「ここにあるのって、全部、石?」
「そうですよ。花梨さんも、ついにこの深淵をのぞいてしまいましたね」
「深淵……?」
淡々と作業を続ける桜の影から、花梨はそっと箱の中をのぞいてみた。中には箱いっぱいの石が詰まっている。何の石だろうか。
それにしても――例のあの部屋に並べられた石と比べると、こちらはかなり雑な扱いだ。あちらは特別な意思を持った存在だろうから、その差も仕方がないのかもしれないが。
「えっと……私も手伝おうか」
目当ての石が見つからないらしい桜の背中に、花梨はそう問いかけた。
「やめた方がいいですよ。かなり重いものもありますし。まあ、中に入っているのは石ですから」
桜は振り返らないまま、そう答える。それを聞いて、声を上げたのは宮古だ。
「おい、葵。葵!」
「聞こえてるよ。じいさん」
呼びかけに応えて、葵はしぶしぶこちらにやって来た。
「ほら。おまえも手伝わんかい。荷物持ちで来たんだからな」
「何だよ。ここに持ってくるだけじゃないのかよ」
そう言いながらも、葵は部屋に上がると桜を手伝い始めた。重そうな箱も手慣れた様子で運び、積み上がった箱を少しずつ下ろしていく。
「あの部屋の石、また増えるのか……」
と、誰にも聞こえないような小声で、呆れたように呟きながら。
「梅花石というのは――」
手持ちぶさたになった槐が、ふいに口を開いた。
「こちらも岩石なのですが、ウミユリの化石が含まれていて、その断面が梅の花のように見えることから、そう呼ばれます」
そんなことを話しているうちに、桜たちはようやくその――梅花石を見つけたらしい。古びた段ボール箱が皆の取り囲む中心に置かれる。
そこから出てきたのは、形としては菊花石によく似た石だった。しかし、大きさは菊花石よりひと回り小さい。そして何より、表面の模様が違っていた。
菊花石は表面の全体で大輪の花を咲かせているのに対して、梅花石は控えめに、三つ四つ小さな花を散らせている。おもしろいことに、枝振りのように見える白い筋も走っていた。
宮古はそれを満足そうにながめると、槐にあらためて交換の交渉を申し出る。槐はあっさりとそれを受け入れた。
梅花石は再び箱にしまわれ、葵がそれを抱え持つ。
「それでは」
――と、会話もそこそこに、宮古たちは店を去っていった。桜と花梨で見送ってから、表の格子戸が閉められる。
それにしても、まさかとは思うが、葵はあの石をずっと抱えていくのだろうか。そんな心配を察したのか、桜はこう言った。
「宮古さん、どこかで車を待たせてるって言ってましたよ。さすがにあれで帰るのは、葵くんがかわいそうですからね」
それなら安心だろう。花梨は納得して背後を振り返り――そして、目に入った店の惨状にあらためて言葉を失った。
槐はどうやら、宮古から受け取った菊花石をどこにしまうべきかを悩んでいるらしい。この状況では、どこに置こうが変わらないような気もする。
「やっぱり、少しくらいは整理しておくべきですよね……」
そう呟いたのは桜だ。花梨は、その言葉に何を返していいのかわからない。そのことに気づいた桜は、照れたように言い訳する。
「ここだけはもうずっとこうで、手のつけようがなかったんですよね。石はだんだん増えていくし。いつかは整理しないと、とは思っていたんですが」
「そのようなことを、もうずっと言っている気がするが」
と言ったのは、黒曜石だ。
「そんなこと言うなら手伝ってくださいよ。黒曜石さん」
桜は少しだけ、むっとして口を尖らせた。そうして、ため息をつくと、槐の元へと向かう。
水石のことも教えてもらったことだし、こうなったら乗りかかった船だ。花梨も何かしら手伝おうと、桜のあとを追った。
それから、しばらく経ったある日のこと。
花梨は槐の店の前で、何やらもめているらしい二人と鉢合わせた。ひとりは、高校生くらいの少女。もうひとりは――
「あれ。葵くん、だったよね。この前、おじいさんと一緒に来てた」
花梨がそう声をかけると、葵は困ったような表情で振り返った。少女の方は、はっとして花梨へと詰め寄る。
「お店の人ですか?」
それに答えたのは葵だ。
「違うよ。たぶん……お客さん」
花梨がうなずくと、少女はがっかりして肩を落とす。
事情がわからずに、花梨は首をかしげた。店に用があるのだろうか。それならばなぜ、こんなところで言い合いをしているのだろう。
奇妙には思ったが、沈黙してしまった二人をこのままにもしておけない。花梨はひとまずこう提案する。
「槐さんに用があるんだよね? 何があったかは知らないけど、店の前で話しているより、直接相談した方がいいよ。大丈夫。槐さんなら聞いてくれるから」
その言葉に、二人はそろって顔を見合わせた。しかし、その表情は対照的だ。
少女はどこかほっとした様子だが、葵の方は明らかに難色を示している。とはいえ、強く抵抗するつもりもないらしく、花梨に促されると諦めたように従った。
格子戸を開けて通り庭に入ると、さっそく桜が出迎えた。珍しい取り合わせだからだろうか。いぶかしげな顔で、こうたずねる。
「どうかしたんですか?」
二人は何も答えない。
葵はまだこの店を訪れることに――あるいはこの少女を槐に会わせることに、ためらいがあるらしい。少女は少女でここには初めて来たらしく、戸惑ったように周囲を見回していた。
仕方なく、花梨が桜に耳打ちする。
「よくわからないんだけど、槐さんに用があるみたい」
桜は、そうですか、と言って、あっさりとうなずいた。
「まあ、大丈夫だと思いますよ。葵くんなら、よく知ってますし」
桜は花梨に二人のことを託すと、槐に来客を告げるためひとりで奥へと行ってしまった。とりあえずは、彼らを通り庭の先にある座敷へと案内する。客である花梨がそうするのもおかしな話だが、少なくともこの二人よりは店の勝手を知っているだろう。
座敷には誰の姿もなかった。微妙な距離を置いて横並びに座った二人は、神妙な顔で槐が現れるのを待つ。ほどなくして姿を現した槐に、真っ先に頭を下げたのは葵だ。
「突然訪ねて、すみません」
槐は、かまいませんよ、と軽くうなずき返す。そうして二人の正面に座ると、居ずまいを正してから、あらためてこう切り出した。
「どんなご用でしょうか。おうかがいしましょう」
いまだ浮かない表情の葵は、となりの少女をちらりと見やってから話し出した。
「その、彼女……本当は祖父を訪ねてきたんですけど、祖父はしばらく遠方で……どうしてもって言うから、連れて来てしまって」
店に用があるのは、どうやら少女の方らしい。しかし、当の本人は皆の視線が集まると、途端にその表情を強張らせた。今更ながら怖気づいたのか、小声で葵に何かをたずねている。
「本当に、この店にあるの?」
「……そうだよ」
葵の返答を聞いた少女は、意を決したように大きく息を吸い込むと、槐の方へと身を乗り出した。
「あの、私。こちらにある、菊花石を返してもらいたいんです」
それを聞いて、すぐに反応したのは槐――ではなく、葵だ。
「返せ――って……だから、あれはちゃんとした取り引きでうちが買い取ったんだって。言ったはずだろ」
「わかってるって」
少女は葵にそう言い返してから、あらためて槐に向き直る。
「お金はちゃんと払います。だから、お願いします」
少女はそう言って、深々と頭を下げた。対する槐は、突然のことに唖然としている。
「……どういうことでしょうか」
やっとのことで、槐はそう口にする。少女は素早く顔を上げると、さらにこう続けた。
「あの菊花石。あれは私のおじいちゃんのものなんです。おじいちゃんが入院しているうちに、お母さんが勝手に売っちゃって。何でそんなことしたかわからないけど、あの石はおじいちゃんが一番大切にしていたものなんです。ですから、どうか……」
少女の必死の訴えにも、葵は大きくため息をつくばかり。そうして、ばつが悪そうな表情を浮かべながら、槐に向けてこう言った。
「すみません。わけのわからないことになって。この店は関係ないのに……」
葵の言葉にむっとしつつも、少女もいくらか声を落として、それに続く。
「私も……その、これは私のわがままだって、それはわかってるんです。でも、あの石をどうしても返してもらいたくて……」
「かまいませんよ」
槐はあっさりとそう答えた。思わず動きを止めた少女に、槐はうなずく。
「あなたにとって、その石は大事な石なのでしょう? でしたら、お返しすることはやぶさかではありません」
少女は拍子抜けしたように槐を見返した。しかし、葵の方はというと、この流れにどうにも納得がいかないらしい。顔をしかめると、少女に向かってこう言った。
「でもさ、そもそもなんで売ったのかもわからないのに、取り戻してどうするつもりなんだよ。母親が、また別のところに売るかもしれないだろ」
指摘にたじろぎつつも、少女は毅然として言い返す。
「お母さんにはちゃんと話すよ。それで、説得する」
その言葉に、葵は肩をすくめる。
「本当のところ、君のおじいさん自身が、今のうちにそれを譲っておこうと考えたのかもしれないじゃないか。それで、うちに売るように頼んだとか――」
それを聞いた少女の顔色が、さっと変わった。
「今のうちに、って……おじいちゃんがもうすぐ死ぬって言いたいの?」
その声音には、明らかに怒気が含まれていた。少女の変化にぎょっとして、葵は慌ててそれを否定する。
「違う。そういうわけじゃない。実際に、よくある話なんだよ。亡くなってから、故人のコレクションの処分に困るっていうのは。当人じゃないと、価値がわからないってこともある。だから、収集家が早いうちに、大事にしてくれるところへ譲ろうって考えるのは、そうおかしなことじゃない」
ちょうど、桜がお茶を持って部屋に入ったところだった。二人の諍いに、彼は思わず戸口で立ち止まる。そうして、槐と顔を見合わせた。
槐もまた、どう口を挟んでいいものか迷っているようだ。困ったような表情で、やりとりを見守っている。
そうしている間にも、少女はさらに葵へ突っかかった。
「そんなこと言って。じゃあ、あなたのおじいさんの持ってる石はどうなの?」
「それは関係ないだろ。それに、うちのは一応――姉が受け継ぐ気らしいから……」
「――お姉さん、いるんだね」
花梨は思わず、そう呟いた。姉という言葉に思わず反応してしまっただけだが――葵はこれ幸いと、話の流れを逸らす。
「姉っていうか……双子のね。正直、双子でどっちが上とか不毛だと思うんだけど、譲らなくて」
水を差されたことで、少女もようやく今の状況を思い出したらしい。途端にしゅんとして、うつむいてしまった。
「すみません。私……つい、周りが見えなくなっちゃって。宮古くんも、ごめん」
「いや。俺も言葉が悪かったよ」
どうにか言い争いはおさまったようだ。頃合いを見計らって、槐はこう提案する。
「そうですね……それではひとまず、その石をご覧になられてはいかがでしょう」
給仕をしていた桜が、何とも言えないような顔で槐を見ている。少しは整理したとはいえ、あの場所――表の方にある店の間は、まだ混沌としているのだろう。
とはいえ、少女はもちろん、葵にもその提案を拒否する理由はない。
桜の淹れたお茶でひと息ついてから、一同は席を立った。少女の求める菊花石の元へと。
「あの。本当にすみませんでした。彼女――突然うちを訪ねて来て。しかも、あの菊花石はどこにあるのかって。だけど、もうこちらも手放した後だったし、祖父はいないし――それで、ここに連れて来てしまったんです。でも……こんなことするべきじゃありませんでした。ご迷惑をおかけしました」
少女が桜について行った隙をついて、葵はあらためて槐に頭を下げた。
初めて会ったときは年相応の少年だと思ったが、話してみると、考えも言動も年の割にしっかりしている。それでいて、少女を追い返すこともできなかったあたり、優しくもあるのだろう。そのせいで板挟みになったことは、かわいそうではあるが。
悄然としている葵に、槐は苦笑する。
「そんなに気にしなくても、大丈夫ですよ。現に、菊花石はここにあるんですから」
「でも、あくまでもうちの取り引きですし、こちらで解決すべきことだったと思います。勝手なことして。このことを知ったら、祖父もきっと怒るでしょうし……」
葵の心配はそこにもあるようだ。先のことを思ってか、葵は重いため息をつく。
花梨たちが連れ立って通り庭に着く頃には、店への戸は開け放たれていた。
しかも、目当ての箱はすでに少女の前に置かれている。数日前に片づけたばかりのものだからか、さすがに積み上がった箱の中から発掘しなければならない、ということはなかったらしい。ただし、部屋のあちらこちらには、いまだに箱や石が散乱していた。
箱にしまわれていた石を、桜が取り出す。木製の台の上に乗った、磨かれた石。その表面には、大輪の白い菊の花が――
「あれ? 花がない……」
少女が呆然と呟いたとおり、菊花石の美しい模様は影も形もなかった。そこにあるのは、ただのっぺりと磨かれた暗灰色の岩石だけ。
「これ、本当にあの菊花石ですか?」
不安そうな表情で、少女がたずねる。
疑うのも無理はないだろう。とはいえ、一度しか見ていない花梨では、これが本当にあのときの石なのかどうかは自信が持てない。しかし、傍らで見ていた葵は、断言はしないながらもこう呟いた。
「確かにこんな形だったと思うけど……」
槐も桜も、箱に入れられた石があの日に受け取った菊花石であることは間違いないと言う。しかし、模様が消えていることについては、ふたりとも驚いているようだった。
少女はあらためて、その石に向き合う。そうして、まじまじとながめているうちに、何かを見つけたらしい。顔をしかめながらも、こう言った。
「そう、だね。この台の傷、見覚えがある。やっぱりこれ、あの菊花石だ」
石の形に合わせて作られたらしい台には、その石がちゃんと収まっていた。他の石と取り違えた、ということはないだろう。
戸惑いの中で、少女は誰にともなく問いかけた。
「でも、こんなことって、あるんですか?」
「――いや。こんなことが、そうそうあるわけがない。そうだろう? 槐」
問いかけに答えた声は、その石を取り囲んだ者たちのうちの、誰のものでもなかった。
部屋の奥。箱と石に埋もれた場所の暗がりに、誰かが座っている。明るい茶色の髪と、焦茶の着物に羽織。その者は、少し猫背気味の背をこちらに向けていた。
「えっと……店の人?」
少女がいぶかしげにたずねる。
「ええ。まあ……ある意味」
答えたのは桜だ。彼は表情を曇らせると、小声でさらにこう続ける。
「珍しいですね。
花梨が首をかしげると、それに気づいた桜はこう言った。
「いえ。煙水晶さん、ちょっと人嫌いで……」
背を向けていた人影――煙水晶は、その言葉が耳に入ったかのように、不機嫌そうな顔で振り向いた。
彼の手には
黙り込んでしまった皆を見渡して、煙水晶は口を開いた。
「菊花石の菊の花が枯れるなど、そうそうあることではない。だからこそ、そのことには意味がある。その石は、ものを言うことができない。それ故に、そういう形で訴えたのだろう。怨嗟か、嘆きか――どちらにせよ、それもまたどうせ、人の愚かな行いのため、といったところだろうが」
煙水晶はそう語る。
突然のことに、葵は、ぽかんと口を開けて固まった。しかし、菊花石のこととあってか、少女の方は果敢に問いかけていく。
「えっと、その……訴えてるって、何を? この石が心を持ってるってこと?」
煙水晶はその問いに、ゆるゆると首を横に振った。
「ただの石は、心など持たない。しかし、すべてのものに魂はある。魂には記憶が刻まれる。だから、夢を見る。私もただの石だった頃はそうだった。おまえもそうだったろう? 桜石」
唐突に話を振られて、桜は間の抜けた声を上げた。
「はあ……いや、それはともかく。何のために出てきたんですか。はっきり言ってくださいよ。煙水晶さん」
それを聞いて、煙水晶は一笑した。
「わからないかな。言葉を持たないそれに変わって、私がそれの願いを見てやろうと言うのだ。私の力があれば、それの見る夢をのぞき見ることができるからな」
煙水晶の視線は、少女へと向けられている。しかし、自分の理解を越えた話に、少女もまた、困ったような顔で口を閉ざしてしまった。その代わり、苦笑混じりに問いかけたのは、槐だ。
「いいのかな。煙水晶。君は夢をのぞくことが、あまり好きではなかったと思ったのだが」
煙水晶はむくれた顔で、煙管をふかす。
「何。私はそいつらのことなどは、どうでもいい。ただ、言葉を持たないその石のことが哀れでならないだけだ」
煙水晶はそう言うと、おもむろに立ち上がり、少女の眼前に立った。そして、あらためて問いかける。
「さて、どうする?
少女は呆然とした表情で煙水晶を見上げた。いまだ理解が追いつかないらしく、ただまたたきをくり返している。
「いくら何でも、いきなり過ぎなのでは。彼女、困ってますよ。どうします。槐さん」
呆れた様子の桜に、槐はうなずく。
「そうだね、ただ――」
槐はその先を言い淀むと、困惑する少女の傍らに立った。そうして、いつものように、こう話し始める。
「彼は煙水晶。英語名はスモーキークォーツ。鉱物名としては石英ですが、結晶した透明なものは、特に水晶と呼ばれます。煙水晶は、その変種。天然の放射線により、含まれる微量のアルミニウムイオンが変化したことで茶色くなるのです」
わけがわからないながらも、少女は槐を見返した。それに応えるように、槐はこう続ける。
「彼は夢を垣間見る力がある。もしも、この菊花石の夢を見ることができるなら、何か事情がわかるかもしれません」
「えっと、よくわからないんだけど……夢を見るって――そんなこと、できるんですか?」
疑わしげに声を上げたのは、葵だ。突然の混乱から覚めて、ようやく現実的な感覚が戻ってきたらしい。
どうやら、彼の方は煙水晶の言葉を信じてはいないようだ。それを察したのか、煙水晶は葵に冷たい視線を向ける。
「できるとも。ただし――」
煙水晶はそこで、煙管の雁首を少女の方へ向けた。差された少女は、思わず後ずさる。
「見るのは君ひとりだ。関係のない者にまで、夢をのぞき見させるつもりはない」
その場にいた皆の視線が、少女の元へ集まった。彼女は表情を強張らせたが、しばし考え込んだあと、ふいに大きく息をはく。
少女の視線が、今はその姿を変えてしまった菊花石の方へと向けられる。そこからあらためて煙水晶へと向き直ると、彼女は意を決したように、こう言った。
「わかりました。お願いします」
* * *
そう告げた途端、視界は煙で閉ざされた。
あるのは真っ白な空間ばかりで、その他には何も見えない。ここはもう、夢の中なのだろうか。驚きつつも、次に変化が起こるのを待つ。
とんでもない話に乗ってしまったが、実際のところ、どうなのだろう。夢を見る――それも石の――なんて、本当にできるのだろうか。
石は心を持たないのだと言う。しかし、なぜか夢は見るらしい。夢と心はどう違うのか。
不安が押し寄せてきた頃、ふと目の前に見知った人の姿が現れた――母だ。
母は祖父の菊花石を黙って見下ろしている。見られていることには気づいていない。というより、一方的にその光景が見えているだけのようだ。これが夢、なのだろうか。
もしかして、今見ているこれは母が菊花石を売ってしまったときの記憶かもしれない。母の表情からは、明らかに迷いか――あるいは、ためらいが読み取れた。
祖父は母にとっては義父に当たる。しかし、別に仲が悪かったわけでもない。と、少なくとも自分はそう思っていた。かといって、お金に困ったから石を売った、というわけではないだろう。
どうして母は、そんなことをしたのだろうか。そう思った瞬間、場面が変わった。次に現れたのは、五年前に病気のため亡くなった祖母の姿だ。
「私は、もうそろそろだめそうだねえ」
「そんなこと――」
と、傍らで顔をしかめているのは、やはり母だ。
重い病気が見つかった祖母は、病院で治療をしていたが、そのまま帰らぬ人となってしまった。しかし、今見ているのは、祖母がまだ元気だった頃の光景のようだ。
「あのね。私、ひとつだけ心残りがあるの」
「何ですか。お義母さん」
「おじいさんが大切にしている、菊花石があるでしょう」
菊花石の話だ。思わず耳をそばだてる。どうして母が菊花石を売ったのか。その理由が、この会話にあるのかもしれない――
「これは、私の勘なんだけどね。たぶんあれには、私の知らない、おじいさんの想い人との思い出があると思うの。だから、あの人に最後まで寄り添うことができるのが、あの菊花石になりそうなのが、何だか少し、悔しくて」
それは、思ってもみない祖母の告白だった。しかし、祖母はそう語ったことを少し後悔するかのように顔をしかめると、苦笑を浮べながらこう続ける。
「ごめんなさいね。気弱になってしまったわ。忘れてちょうだい。ちょっとした愚痴なの。あの人には、内緒よ」
その言葉を最後に、目の前の光景は煙にかき消えた。
祖父の菊花石の中にある、ひそかな思い出。それに対する祖母の考え。それを知ってしまった母の迷い。これが、母が菊花石を売ってしまった理由なのだろうか。
そう思っていると、また徐々に視界が開けてくる。
――何? これで終わりじゃないの?
見えてきたのは、小学生くらいのときの自分の姿。祖父とともに菊花石をのぞき込んでいる光景だった。
しかし、その場面はすぐに変わっていく。次に現れたのは、若い父と母の姿。まだ歩くことすら覚束ないほど小さな自分が、ぺたぺたと無邪気に菊花石を叩いている。
さらに場面が切り替わると、若い頃の祖母に向かって自慢げに菊花石の話をする――これも若い祖父の姿が見えた。かと思えば、祖母ではない、別の女の人と笑っている祖父の光景もある。初めて菊花石を見つけたらしい祖父が、その持ち主に頼み込んでいる姿も。
目まぐるしく流れていく、過ぎ去った光景。それが次々に目の前に現れては消えていく。この菊花石には、こんなにも多くの記憶が、歩みがあったのか。
――これが、菊花石の記憶。石の見る夢?
石に心はない、と先ほどの人は言っていた。でも、この記憶を見ていると、石はやはり祖父と離れたことが寂しいのではないか、とも思った。
しかし、祖母の気持ちも、わからないではない。それこそ、菊花石はずっと祖父の傍らに有ることができるけれど、祖母の命は――もう長くはなかった。その最後の思いを、母は汲んだのだ。
決して菊花石の存在を軽んじた訳ではない。むしろ祖父にとって大きな存在だったからこそ、置いてはおけなかった。
きっと祖母も寂しかったに違いない。そして、自分の運命を怨んでもいた。その気持ちだって、真実だ。
どうすればよかったんだろう。どうすれば、誰も悲しまずに済んだのか。
答えが出ないままに、夢は終わっていく――
* * *
花梨の目には、少女の身に特別な変化があったようには見えなかった。ただ、今の彼女の視点は定まっておらず、その表情はぼうっとしている。
しばらくしてから、少女は、はっとして目を見開いた。そうして、まるで夢から覚めたように、その目をしばたたかせている。
彼女の顔には寂しそうな、悲しそうな、何とも言えない表情が浮かんでいた。夢の中で、何を見たのだろうか。少女は考え込むように、うつむき黙ってしまう。
煙水晶は少女の目覚めを確認すると、大きくため息をついた。そして、不機嫌そうな顔でぶつぶつと呟き始める。
「まったく、これだから人は……菊花石が嘆くのも無理はない。自分勝手な考えで決めつけた挙げ句、無断で人のものを売り払うなど。しかも、よかれと思っての行動なのだから、余計にたちが悪い――」
「はい。そこまで」
と、話をさえぎったのは――
「石英? どうしてお前がここに!」
それまで気取っていた煙水晶が、ぎょっとして身を引いた。いつのまにか彼の背後に立っていたのは、どこからともなく姿を現した石英だ。
石英はやれやれといった様子で肩をすくめると、煙水晶にこう言った。
「どうして、じゃないよ。まったく。相変わらず陰気だな、煙くんは。同じ水晶として、恥ずかしいじゃないか。いいかげん、その、人を見下すような物言いはやめたまえ」
「何が同じ水晶だ。私をおまえと同じ括りにするな」
煙水晶がそう言い返すと、石英はこれ見よがしに顔をしかめる。
「僕の何が気に食わないか知らないけどね。水晶の中でもひねくれている方の君が、何を言ってるんだか。少しは紫くんを見習うといいよ。君たちは、足して二で割るくらいがちょうどいい」
「あんな道化に、見習うべきところなどあるものか」
「はいはい。まあ、何にせよ君の役目は終わりだよ。君も道化になる前に、退場しようじゃないか」
「言われなくとも!」
煙水晶はそう言うと、石英から逃れるように奥へと消えていった。それを見送ってから、石英はぽかんとしている少女に笑いかける。
「すまないね。彼は少し皮肉屋なのだよ。失礼な物言いを許してくれとは言わないが、あまり気にしないでくれたまえ」
そう言い残すと、石英はのんびりと煙水晶の後を追っていった。桜は呆れた顔になり、槐は軽く苦笑している。
「石英さんが言うのはどうかと思いますけど。まあ、煙水晶さんはひねくれてる方ですよね」
「どうだろうね。やはり、ねじれ水晶だからだろうか」
桜と槐は、そんな風にのん気に言葉を交わしている。
「何だったんだ……」
と、呆然と呟いたのは葵。それに対して、少女はきょとんとした表情だ。
「変な店員さんたちですね」
少女は彼らの存在を、そんな風に受け入れたらしい。石たちの存在を、変な店員のひとことで済ませてしまった少女に、むしろ葵の方が困惑している。ともあれ。
少女は大きく息をはくと、菊花石を見下ろした。そこにはやはり、花はない。
しかし、少女は槐に視線を転じると、あらためてこう言った。
「私、この石を買います。売ってもらってもいいですか?」
その言葉に、槐は軽く首をかしげた。
「先ほどもお話しましたが、こちらはあなたへお返ししますよ」
少女は首を横に振る。
「違うんです。ちゃんとお金も払いたいというか……私が、これを欲しいんです。何て言うか、その――説明が難しいなあ」
少女はそこで、困ったような表情になった。しかし、言葉を選ぶようにして、こう続ける。
「いろんな人が、この菊花石に、それぞれ違った思いを持っていることがわかったから。それをわかった上で、やっぱり私はこの石が欲しいんです。お母さんにも、おじいちゃんにも、ちゃんと話します」
それを聞いて、槐は納得したようにうなずいた。
「そうですか。あなたの思いはわかりました。こちらの石を、お売りしましょう」
それを聞いて、少女は満足そうな笑みを浮かべた。
取り引きが成立したらしいのを確認して、桜が石とその台を箱に納めていく。それを見ながら、少女は少しだけ心配そうに呟いた。
「でも、私、おじいちゃんが石を大事にしてるのは知ってるけど、どうやって世話してるのかは、知らないんですよね。水石ってどうやって扱えばいいんだろう?」
それに答えたのは葵だ。
「石なんだし、特別に必要な世話なんてないと思うけど。盆栽とかじゃないんだから」
花梨は自分が水石を知ったきっかけのできごとを思い出して、こう提案する。
「宮古さんに――葵くんのおじいさんに、聞いたらどうかな。この前も、いろいろな水石の話をされていたから。私も『夢の浮橋』の話とかを聞いて、少し調べたりしたんだ」
「『夢の浮橋』……?」
「美術館に収められている水石だって」
少女は、へえ、と感心したような声を上げると、その名前が気に入ったのか、何度か――夢の浮橋、とくり返し呟いた。
「まあ、水石のことを聞くなら、うちのじいさんか――姉にしてくれよ。俺は、そういうのは全然だから」
葵の言葉に、少女は軽く首をかしげる。
「全然、興味ないの?」
「そう。ただの荷物持ちとして、使われてるだけ」
話をしている間に、桜は菊花石の梱包を済ませたらしい。箱を抱えて、少女へと差し出す。
「それでは、こちらがご所望の菊花石です」
槐の言葉に、ありがとうございます、と元気よく返事をした少女だが、受け取った箱の重みに、途端に顔をしかめた。その目はちらりと葵の方へと向けられる。
「……まさか、俺に持てっていうんじゃないよな?」
思わず送った視線に、少女は照れたように笑っている。助け船を出したのは槐だ。
「宅配便で送りましょう」
その提案に、少女は、お願いします、とうなずいた。
* * *
祖父の退院を手伝うために病院に来ていた。
入院の理由は骨折だ。大した怪我ではない。祖父も今は普通に歩けるし、体は健康そのものだった。
しかし、それでも病院という場所が気弱にさせたのか、祖父は唐突にこんなことを呟く。
「わしも、もうそろそろかね」
「何言ってんの。怪我したのは、庭の木を自分で切ろうとしたからでしょ。無理し過ぎなんだって」
「いやいや。寄る年波には勝てんよ。昔だったら、こんなことで入院なんて、せんかったのに」
そんな会話に、母は後片づけをしながら苦笑している。
「しかし、そう考えるとやはり、家にある水石なんかは、人にやったりせんといかんなあ。今となっては稀少なものもあるし、おまえたちじゃあ、処分に困るだろう」
それを聞いた母は、はっとして手を止めた。母にはまだ、菊花石を買い戻したことについて話していない。何かを言われるより先に、急いでこう言う。
「あのね。おじいちゃん。あの菊花石、私にちょうだい。大切にするから」
驚いた表情を浮かべる母を、視線で制した。菊花石を売ったことは、母も話しにくかったのだろう。母はそのまま沈黙する。
「そうか。あの菊花石か――」
祖父はうなずくと、なぜかこんなことを言い出す。
「確か、今日は九月九日だな。
「重陽の節句?」
「菊の節句とも呼ばれている。日本では他の節句に比べてあまりなじみはないが、菊の花を愛でるなりして、健康や長寿を願うものだったんだよ」
――菊の花、か。
どうやら祖父は、菊花石からそのことを連想したらしい。
「だから、この日に菊花石をおまえに譲れるのは、いいことかもしれん。あれは、若いときに無理言って譲ってもらったものでな。大切にしてくれると嬉しいよ」
その言葉に、ほっとする。と同時に、自然と笑みが浮かんだ。
「うん、わかった。ありがとう。おじいちゃん」
母は複雑な表情で、そのやりとりを聞いている。売られたものを、買い取った、なんて話をしたらどんな顔をするだろう。
ただ、今はもう少しだけ、母をやきもきさせておくことにする。菊花石を探すのは、結構大変だったのだ。これくらいはきっと、許されるに違いない。
家に戻ると、ちょうどその菊花石の入った箱が届いていた。
自分の部屋まで運んで――さすがにそれくらいの移動なら問題ない――箱を開ける。花が消えてしまったそれをそう呼ぶのはどうなのだろう、と思いつつ――それでも、それは自分にとって間違いなく、祖父の菊花石だった。
――さて、どこに置こう。
室内を見渡すが、さすがに自分の部屋にこの菊花石は似合わない。とはいえ、すぐに家の和室に持って行くのも違う気がした。もう少し考えてみようと、とりあえず枕元のサイドテーブルに置いてみる。
石にあったはずの花の模様がないのは、少し寂しい。それでも、この石がそこにあるだけで、今は満足だった。
そして、その日の夜のこと――とても不思議な夢を見た。
夢の中での自分は、菊花石の上に立っている。奇妙なことだが――夢なのだから仕方がない。夢の中で歩く菊花石は小さな岩山みたいで、まるで自分が小さくなったかのようだった。
ふと、前方に人影を見つける。近づいてみると、それは美しい女の人だった。無表情で、どんな感情も読み取れない。でも、特に不快な感じはしなかった。
きれいな人だ。これも石の記憶だろうか。もしかしたらこの人は、かつて叶わなかった祖父の恋の相手なのかもしれない。それとも――
目の前に立つと、女の人は無言で何かを差し出した。それは、大輪の白い菊の花。驚きつつも、それに手を伸ばし――
そこで、夢から覚めた。
時刻はまだ夜。だけど、何かの予感がして、視線を枕元の菊花石に向けた。カーテンの隙間から差し込んだ月の光によって、白い部分がぼうっと浮かび上がる。石の中に咲いて見えるのは、白い大輪の菊の花。
――菊の花が、戻ってる。
ほっとして、目を閉じた。あの菊の花を、自分は確かに受け取ることができたらしい。
たとえ心はなくとも、この菊花石はきっと、これからも記憶を積み重ねていくのだろう。そして、その中には祖父の思い出もある。今となってはあの騒動も、この菊花石の中に刻まれた歴史のひとつだ。
たとえ人が去って行ったとしても、歩んできた道は消えたりしない。
悠久のものと儚いものをつなぐ、夢の浮橋。
自分はこの石にどんな記憶を残せるのだろう。できることなら、この石にとって、自分の存在がよい思い出になればいいと思う。
だから、傍らにあるその石に、こう願った。
どうか、よい夢を――と。
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