第八話 石墨

 あんなことをしてはいけなかった。

 高齢者向けの居住施設で働いている。手厚い介護を必要としている人もいるが、比較的自立している人が対象の施設だ。それでも終身の利用者が多いので、年を重ねれば認知症となる人もいる。

 担当となったその人も、そうだった。

 夫に先立たれ、ひとり息子の家族は遠方に住んでいるというその人は、どうしても京都の地を離れることを嫌がったのだという。生まれも育ちも京都だったせいもあるだろう。

 入居当初は、それこそ年の割には若々しく、とても明るく朗らかな人だった。しかし、認知症と診断されてからは、徐々に快活さが失われていく。何より、亡くなった夫の姿を探すことが多くなった。

「あの人は、どうしたのかしら」

 と、何の悪気なくたずねられるたびに、

「もう、亡くなったと聞いていますよ」

 と答えるのは心苦しい。しかし、そんなことは、この施設ではよくあることだ。

 彼女はよく、夫からもらったらしい手紙を読んでいた。ずいぶんと達筆だったらしく、職員の間でも話題になったほどだ。

 いよいよその人が塞ぎ込んできたとき、誰かがふいにこう言った。代わりに手紙を書いてあげたらどう? と――

 誰にともなく言ったようだったが、それは暗に自分へ向けられた言葉だと確信していた。幼い頃から書道を習い、段位を持っていたこともあって、文字を書く仕事を振られがちだったからだ。

 正直言って、嫌だった。亡くなった人の代わりに手紙を書くなんて。たとえそれが、その人のためになることだとしても。

 しかし、あの言葉が口にされるたびに、心は揺れ動く。あの人はどこ、という切実な問いかけ。それに答えるたびに、迷う。

 その時期ちょうど疲弊していたこともあって、結局は耐えきれずに手紙を書いてしまった。当たり障りのない内容だ。しかし、その人はたいそう喜んだ。そうして、ずるずるとなし崩し的に、何度か手紙を交わしてしまった。

 しかし、あんなことをしてはいけなかった――のだと思う。

 そのうち、その人は亡くなった。老衰だ。大往生だったと言える。しばらく経ち、その年のお盆。夏に祖霊を迎え祀る、という行事のその頃に。

 一通の手紙が届いた――死者から。


     *   *   *


 京都の夏は他所と比べても暑いのだと、よく聞く。何でも、盆地にあるために湿度が高いせいらしい。

 石である自分は人とは違う感覚なので、その辺りはよくわからない。まったくわからないということはないが、それでも京都の夏を耐えがたい暑さだと感じたことはなかった。

 ただ、日光は何となく苦手だ。太陽の光は自身の色を変えてしまうことがある。人として姿を借りた、この幻のような体ではそんな心配もないだろうが、どうしても気になるのだった。

 菫青石仮晶。あるいは桜石。それが本来の自分の姿だ。

 桜はいつもどおりの家事を終えて、槐の姿を探していた。おそらく、二階の自室で本でも読んでいるのだろう。

 音羽家の日常は平穏だ。特に大きな起伏もなく、静かな時が流れている――少なくとも表向きは。

 今、この家にいる人は、槐と椿だけ。残る住人は遠方に出たまま長らく帰ってきていないが、おそらくそろそろ顔を見せる時期だろう。どれだけ遠くにいても、お盆と年末年始には皆で集まるのがこの家のしきたりだ。

 音羽家の者たちの世話は、ほとんど桜だけが担っていた。他の石たちは、何もないときはだいたい眠ったようになっている。姿を見せることはあまりない。手伝ってもくれないが、そもそもこんなことをしている方が変わっているので、気にはならなかった。

 では、人の方はどうなのか、という話にはなるが、椿はいつもあの調子だし、不器用な槐に何かをやらせれば手間が増えるだけだ。ただ、桜自身はこの家から――というより本体である石から――離れることはできないので、外へのおつかいを頼むくらいはしている。何にせよ、文句を言われることもないのだから、けっこう気楽にやっていた。

 そう思うと、石の自分がずいぶん人らしくなってしまったものだ、と奇妙な感慨を抱いたりもする。しかし、もうあれから――自分がこうして意識を得てから百年は経つのだから、それも仕方ないかと納得してもいた。

 部屋をのぞくと案の定、槐は無心で書物に向かっていた。槐の曾祖父――ちがやの手記を読んでいるのだろう。

 ひと息つくための冷たいお茶を淹れてから、桜はあらためて槐のところへ向かった。槐は放っておくと根を詰めすぎるところがある。家事より何より、桜にとってはそれがもっとも気がかりだ。

 とはいえ、近頃は音羽家の過去に端を発したと思われるできごとが、立て続けに起こってもいる。槐としても、そのことは気になるのだろう。だとすれば、茅が残したものを頼りにするのも仕方がない。音羽家に伝わっていた呪術とやらを実際に用いた者となると、桜の知る限り、身近には茅くらいしか思い当たる者がいなかった。

 しかし、あの茅があのときのことをくわしく書き残したりしているだろうか、と桜はちょっと疑問に思っている。少なくとも桜は知らないし、彼に筆まめな印象もない。

 桜は手記をのぞき込むようにして槐に近づいた。槐が気づく様子はない。視界に入った手記は、思いのほか達筆な字で書かれている。しかし、何が書かれているのか、とっさにはわからなかった。桜は読み書きが少し苦手だ。

 手記を読むことは諦めて、湯のみを机の上に置く。そこでようやく、槐は桜のことに気がついたようだ。振り返り、ありがとうと言うと、槐は置かれた湯のみに手を伸ばす。

 そのままお茶を飲む槐を見て、桜はふと奇妙な感覚にとらわれた。そこに湯のみがある、という事実が唐突におかしなことのように思われたからだ。

 この湯のみは、自分がここまで持って来なければ、ここにはないはずのもの。当然のことだ。しかし、だとすれば、これはいったい、どういう力によるものなのだろう――

 それとも、これこそが呪術なのだろうか。そもそもの話、自分のような存在がどうして現実に対して物理的に干渉できているのか――その理由もよくわかっていない。

 それこそ、音羽家の中でなら自分たちは姿を現したり消したりすることも自由自在だ。というより、それくらいの距離ならば本体の石を離れて行動ができる、と言った方が正確か。それは他の石も条件は同じ。

 ただし、桜のような石たちと黒曜石たちとでは、今となっては明確に力の差がある。桜や他の石たちは、ちょっとした特技や能力がいくつかあるくらいで、それ以外は――それこそお茶を淹れたりなど、普通に人がするようなことしかできない。しかし、黒曜石たちの力はそれとは違う、特別な力だった。

 この頃は、その力の差に歯がゆい思いをすることもある。しかし、それでも桜は、また強い力を得たいとは考えなかった。むしろ、これが自身にとっては相応の力なのだろうとさえ思っている。おかげでずいぶんと日常になじみ過ぎてしまったが。

 いつかのとき、槐は自分たちの存在を陰陽師の式神にたとえていた。仮に自分の存在が式神のようなものだとしたら、今の主人は槐だろう。だとすれば、今の自分がやらなければならないことは、槐の助けになることだけ――

「おや。もうこんな時間か」

 ふとした槐の呟きに、桜は、はっとして物思いから覚めた。いつのまにやら、考え込んでしまっていたらしい。

 槐がもうこんな時間か、などと言うものだから少しぎょっとしたが、時刻はまだ昼前。いつから手記を読んでいたのだろう。桜は呆れて、こう返す。

「槐さん、集中すると時間を忘れるんですから。あまり、そればかりにかまけていてもいけませんよ」

 桜の言葉に、槐は苦笑する。

「そうだね。書かれている内容が、おもしろかったので、つい」

 その言葉に、桜は思わず顔をしかめた。おもしろい――のか。桜は意外に思う。

 手記に書いてあるのは、茅が石たちと出会った頃のことだろう。あの頃のことを桜も思い返してみたが、おもしろいという感想にはいまいち実感が得られなかった。

 とはいえ、茅が書いたであろう手記の内容は、桜もすべてを知っているわけではない。他の石の目覚めの方が早かったし、あのときは気軽に経緯を聞けるような状況でもなかった。桜が茅に出会うまでの間に、そんなにおもしろいできごとがあったのだろうか。

「茅さんの書いたものですよね? それ。おもしろい……ですか? まあ、茅さんなら、あのときのことを、おもしろおかしく書いていたとも――らしいな、と思えなくもないですけど」

 槐は苦笑する。

「そういったおもしろさ、ではないと思うよ。そうだね――曾祖父の苦労を、ひ孫の私がおもしろい、などと思うのは、さすがに不遜かな」

 桜は虚をつかれて、しばし目をしばたたかせた。

 確かに、当事者ならともかく、そうでない者からすれば、茅の波乱万丈な日々は読みものとしておもしろいのかもしれない。そんなひ孫の感想を、もしも茅が聞いたならどう思うだろうか。おそらくは――

「茅さんは気にしないですよ。きっと」

 桜は軽く肩をすくめながら、そう答えた。

 それこそ、苦笑くらいはするかもしれないが、どちらかと言うと、笑い飛ばしてしまう方がそれらしい。その言葉には、槐の方が苦笑いを浮かべている。

「――とにかく、石を用いた呪術について、少しでも何かわからないかと思ったんだけどね。この術を行う者は、そう多くはないだろうし」

 石に眠る自我を呼び起こし、使役する術。あるいは、石を用いて害をなす術。

 どうだろうか。確かにそんな者が身近にあちこち居られてはたまらないが、かといって、自分たちはその呪術のすべてを知っているわけではない。こういったことにくわしそうな者とも――あえて深く関わりを持ったことはなかった。

 しかし、それを扱う者が近くにいることは確かだろう。槐の向かっている机の上に乗った二つの化石――石燕と異常巻きアンモナイトが、そのことを思い出させる。

「やっぱり、何か関係があるんでしょうか。花梨さんのお姉さんについても、手がかりはほとんどないですし」

 鷹山花梨。この店に迷い込んできた客人だ。京都の大学に通っているが、今は夏休みらしく、お盆の時期は帰省するとのことだった。

 彼女は行方不明の姉を探すために京都に来たようだが、今のところあまり進展はなさそうだ。そう簡単に解決する問題でもない。しばらくは故郷でゆっくり過ごすのも悪くないだろう。

「なずなさんの調子が戻れば、何かわかるかもしれないですけど」

「……無理強いはできないからね」

 思わず口をついて出た桜の呟きに、槐は軽く首を横に振る。

 田上なずなは、槐と同年代の女性だ。

 なずなは昔、この家に住んでいた。結婚して家を出たが、今でも交流はある。とある理由で店には寄りつかなくなってしまったが、特に音羽家の者と不仲というわけではない。

 なずなは音羽家と血のつながりはなかった。しかし、続柄としては槐の妹に当たる。彼女は、槐の父であるさかきの養女として音羽家に入ったからだ。立場としては、椿と似ている。

 彼女もまた、なかなかに変わった経歴と能力の持ち主だ。協力できるかはわからないが、一応、花梨にも引き合わせてあった。

 何にせよ、音羽家はその見た目の平穏さに反して、いろいろと秘密が多い。だからこそ、怪異などに悩める人たちの力になることができるのだが――

「花梨さん、気落ちしてないといいですけど。春に京都までやって来て、お姉さんを探し回って。それで成果がないとなると、今頃ってちょっとがっくりしちゃうような時期ですよね」

「そうだね。でも、彼女は聡明だから、ちゃんと状況を理解できる人だと思うよ。黒曜石もいる」

 桜は花梨が初めてこの店を訪れたときのことを思い出す。そういえば、彼女は見える人だった。ただ、本人に自覚はなかったようだが。

 この家の住民でない者に応対するとき、桜は不用意に姿を現さないようにしている。自分が本来、人と関わるべきではない存在だということを自覚しているからだ。さすがに、店の客に給仕をするときは、そうもいかないが。

 そもそも、ここを店だと思って訪れるものは、人から話を聞いたか、あるいは紹介されて、ということがほとんどだ。商売気がないので広告だの宣伝だのも打っていない。

 しかし、この店にはたまに、どこからともなく迷い込んでくる客がいた。それは単に道に迷ったから、という理由ではない。彼女たちは皆、この家に伝わるあるものに呼ばれてくる。

 花梨はおそらくそれだろうと、桜は思っていた。そういう者は、始めから桜のことが見えることが多い。

 しかし、そうして来た者に、呼ばれたという自覚はなかった。少なくとも、自分の意志以外の何かの影響を受けているという自覚は。しかし、呼ばれてくる者は例外なく何らかの悩みを抱えている。それはときに、危険な怪異に関することだったりもした。

 不審な者であれば、本来なら碧玉が侵入を許さないのだが、その場合は例外だ。とはいえ、あくまでもその者自体に害がないと判断される場合に限られるが。

 そうでなくとも、この店は普段から危険から遠ざけられている。翡翠がいれば悪いものにいち早く気づいてくれるし、石英だって――何かが起こる予兆があるならば、教えてはくれるだろう。それこそ、よくわからない理由で黙ったりしない限りは。

 そのときふと、桜の意識に働きかけるものがあった。これは、おそらく――

「槐さん。誰か来たみたいですよ。たぶん。お客さまです」

 お盆を抱えて、桜は槐にそう告げる。それを聞いて、槐は手記を閉じた。

「とりあえず、先に様子を見てきますね」

 そう言って、桜は部屋を出て行く。お盆を片づけて、通り庭の方へ向かった。さて、今度の客は、石を求めて来た客か、それとも怪異に悩めるものか。

 しかし、この日店を訪れた客は、そのどちらとも言い難かった。


 その客は、桜がその場に着いたときにはすでに、表の戸から通り庭へと足を踏み入れていた。

 そうして勝手に入り込んだ挙げ句、無遠慮にきょろきょろと周囲を見回していたのは若い男だ。年の頃は二十代半ばくらいだろうか。桜はその男性に何となく軽薄そうな印象を抱いたが、そもそも誠実な人間はこんな風にずかずかと人の家に入ったりはしないだろうから、それも仕方がないだろう。

 坪庭の方から様子をうかがっていると、ふいに相手と目が合った――と思ったが、それはどうやら気のせいだったらしく、男の視線は桜を捉えることなく素通していく。どうやら、見えざるものが見えるような客ではないようだ。

 ともあれ、槐にはすでに客の来訪を告げているのだから、こうしてただ観察しているわけにもいかない。桜はそう思って、相手が視線を逸らした隙に、男にも姿が見えるようにしておいた。そこから男の方へと歩み寄り、声をかける。

「何か、ご用ですか?」

 声をかけられて、男はようやく桜のことに気づいたようだ。そして、軽い調子でこうたずねた。

「あ、どうも。ここ、お店か何かで?」

 そういえば、花梨が初めてここを訪れたときも、こんなやりとりをした気がする。しかし、何だろう。桜はその男に対しては強く違和感を抱いた。

 おそらく、この客はあれに呼ばれて来たわけではないだろう。しかし、それでいてここが店であることも知らないようだ。

 とはいえ、そうして不明の場所に訪れたにしては妙に堂々としているし、突然の訪問を悪びれてもいない。何となくちぐはぐだ。それとも、珍しく本当の迷い人だろうか。

 あらためて、このまま通していいものか桜は判断に迷う。何かに困っているわけでもなく、石が目当ての客でもないなら、追い返してしまってもいいような気がした。そうしたとしても、槐は何も言わないだろう。

 しかし、桜がそんなことを考えているうちに、当の槐がその場に来てしまった。

「どうかしたかな?」

 そう言って顔を出した槐に、男はここぞとばかりに近づいていく。桜と槐では、どう見ても槐の方が家主に見えるだろう。それは実際にそうなのだが。

 桜のことは目もくれず槐の前に歩み寄ると、男は名刺らしきものを取り出した。それを差し出しながら、こう名乗る。

「どうも。私は延坂のべさか空木うつぎと申します。フリーでライターをしています」

 フリーのライター? では、営業か何かだったのか。さっさと追い返せばよかった、と桜は軽く後悔する。

 何の記事を書いているのかは知らないが、店の取材なら槐はきっと許可しない。案の定、槐は珍しく渋い顔になって、こう言った。

「申し訳ありませんが、うちはそういったことはお断りしています。そもそも、ここは一般の方に向けた店ではありませんから」

「一見さんお断りってやつでした? それは失敬。しかし、それならそれで、どうしてそういう商売をされているのか、知りたいですね。後学のために」

 はっきり断ったのに、空木と名乗った男はそう言って食い下がった。槐は困ったような表情になって、苦笑する。

「そういうわけではないのですが。取り扱っているものも個人の収集品ですし、お売りするのも、知り合いの場合がほとんどなのです」

 その言葉に、空木は、へえ、と感心したような声を上げた。

「おもしろいですね。それ。お話だけでも聞かせていただけませんか。いえ。私もまだまだものを知らないもので。まあ、ここの店主さんもお若いようですが、でしたらなおさら、いろいろとご教授いただきたいですね。少しのお時間でかまいません。不都合になれば、すぐにでも退散します」

 空木の勢いに、槐は若干気圧されている。逡巡の末に、槐はこう答えた。

「そうですね……お話だけでしたら」

 相手の押しの強さに、どこか雲行きがあやしいと思っていたら、槐は案の定折れてしまった。槐は案外、こういうことには弱い方だ。桜は呆れて、ひそかにため息をついた。

 槐が空木を座敷の方へと案内するので、桜は給仕のために台所へ向かった。あの男には、作り置きの麦茶でいいか。そう思ってグラスにお茶をそそいでから、すぐに座敷へと向かう。あの男が相手では、槐だけだと少し心配だ。

「で、こちらのお店は何を取り扱っていらっしゃるんです?」

 桜が座敷に入ったちょうどそのとき、すっかりくつろいだ様子の空木が、槐にそうたずねた。槐は簡単に、石です、とだけ答える。空木はその言葉にはぴんとこなかったのか、はあ、と気の抜けた返事をした。

 麦茶の入ったグラスを置いて、桜は槐の傍らに控える。そうして落ち着いてから、そういえばこの人はあの部屋には案内しなかったのか、と今さらながらに思った。

 自分たちの本体が並べられた、あの洋間。槐はあの部屋の石たちを人に見せるのが、案外好きらしい。別に見せびらかすわけではないだろうが、人目に全くふれないのはもったいない――と以前に言っていたことがある。客が来ればここぞとばかりにあの部屋に通すのは、そんな思いもあるようだ。

 とはいえ、今回はさすがにそんな気にはなれないのか、槐は席を立つ様子もない。この男が相手では、いつものようにいかないらしく、槐はどうにも対応に苦心しているようだ。

 対して空木の方はというと、初めて訪れた場所であるはずなのに、物怖じする気配もなかった。

「しかし、宣伝どころか、表に看板も出しておられない辺り、ほんとうに好事家向け、といったところですかね。下世話で申し訳ないですが、それで利益の方は?」

「……他に生計たつきはありますので」

「へえ。実は資産家とか? こちらの仕事は、趣味の延長ってやつですか。なるほど、道理で。見るからに、悠々自適って感じですよね」

 相手も相手だが、槐も少ししゃべり過ぎではないだろうか。桜は冷や冷やしながらやりとりを聞いている。

 槐はそれから、店ではどういうものを扱っているか、どういう客が来るか、そういったことを語った。これは当然、石と、それを求めて訪れる客のことだ。さすがに特別な石のことは話さない。

 しばらくしてからようやく満足したのか、空木は突然、そろそろおいとまを、と言い出した。その言葉に、槐は心なしか、ほっとしている。

 しかし、そうして去るかに思われたその男は、間際になって、思い出したように口を開いた。

「あ、最後にひとつ」

「……何でしょう」

「これは、どこでも聞いていることなんですよ。ですから、他意はありません。実際のところ、どういったところに頼ればいいか、まったく見当もつかないもので。手当たり次第、聞いて回っているわけです。もし、ですよ。もし、何か知っているなら、情報をいただけるとありがたいと思いまして」

 そうして長い前置きの末、空木が口にしたのは、こんな問いかけだった。

「呪いについて、くわしいところをご存じではないですか?」

 槐は虚をつかれて、思わず桜と顔を見合わせた。まさか、呪いという言葉がこの男から発されるとは思わなかったのだろう。それは桜も同じだ。

「どうですか。噂とか、どんなささいなことでもいいんですが」

 戸惑う槐に、空木はさらにそう詰め寄った。

「失礼ですが、それをたずねるには、相手を間違っておられるのではないでしょうか」

 槐がどうにかしてそう答えると、空木は興味深そうに身を乗り出す。

「では、どういう相手に聞けばいいと思います? こちらは、それすらわからなくてね」

 空木にそう言われて、槐は珍しく自信なさげに答えた。

「さあ……しかし、そういったことを研究されている方もいらっしゃるでしょう。本当にくわしく知りたいというのでしたら、そういう方に当たるのが筋かと」

 槐はとぼけることにしたようだ。しかし、それもやむを得まい。よく知りもしない相手に、私たちは呪いというものを知っています、なんて言うわけにもいかないだろう。

 空木は訳知り顔で、こう返す。

「ああ。わかりますよ。民俗学とかですかね。その分野では、学問としてそういうことを取り上げることもあるとか。しかし、こちらが知りたいのは、文化的に、とかそういうのではなく、呪いそのものについてなんです。それはどういうものなのか。どうすれば呪われるのか、あるいは、どうすれば逃れられるのか。実践的な内容と申しますか」

 その言葉に、槐は考え込むように押し黙った。空木はこう続ける。

「うさんくさい連中なら、多少は知っていますよ? しかし当然、そんなやからは及びでない。こちらも冗談や軽い気持ちで言っているわけではなく、それなりに切実なんでね。呪いについてくわしくて、信頼できるところを探しているんです」

「……何か、困っていらっしゃるんですか? その――呪いによって」

 思わずといった風に、槐はそうたずねた。

「まあ、そうですね」

 と、空木はあっさりと答える。

 風向きが変わったことを、空木も察したらしい。彼は槐の次の言葉を待ち構えた。

 どこまで踏み込み、どこまで話すのか。おそらく、いろいろと考えを巡らせたのだろう。ひと息ついてから、槐はおもむろに口を開く。

「呪いといっても、千差万別ありますので、申し訳ございませんが、それがどういった呪いかわからなければ、それを理解できるか否かは返答しかねます」

 槐の言葉に、空木は目を見開いた。この言い方だと、一部とはいえ、そういうものに通じていることを認めたようなものだ。とはいえ、空木はその言葉を鵜呑みにするつもりはないらしい。一瞬だけ、疑わしげな表情を浮かべる。

「じゃあ、それがわかれば、あなたには対処できるんですか?」

「具体的なことがわからなければ、何とも」

 それを聞いた空木は、へえ、と呟きながら、軽く笑みを浮かべる。

 その表情を見た桜は、空木が呪いについて、さらに問い詰めるものだと思っていた。しかし、彼はそうですかと言っただけで、あっさりと引き下がる。

 そして彼は、宣言したとおりに、ここから去るため立ち上がった。

「ありがとうございます。貴重な話をいただきました。いやあ。ここに来てよかった」

 最後にそれだけ言い残して、空木は足早に去っていく。見送るような余韻すらない。空いたグラスを片づけながら、桜は呆然として呟いた。

「何だったんでしょうね。あの人……」

 槐もまた、言い様のない違和感を抱いたようだ。無言のまま、何やら考え込んでいる。

「碧玉さんが通したなら、変な人ではないと思ったんですけど」

「いや。僕が通せと言ったんだよ」

「って、石英さん?」

 石英は唐突に姿を現すと、さっきまで空木がいた場所を、そして彼が去った方を見やってから、ふむ、とうなった。そして、誰にともなく呟く。

「しかし、まだつかめないな……まあ、これで縁はできたのだから、もう少し別のものが見えてくるだろう」

 それだけ言って、石英は消えてしまう。桜は呆れて顔をしかめた。

「何なんですか。もう」

 ともあれ、このできごとが石英の奇行と関わっていたなら、いくつか納得もいく。少なくとも桜はそう思った。ただ、こんなことは、そう何度もあっては困るのだが。

 しかし、その思いに反して、奇妙な訪問はこれで終わりとはいかなかった。




「お困りのことは、どういったことでしょうか」

 目の前に座ったその人に、槐はひとまずそうたずねた。

 座敷に通されたのは、年の頃三十くらいの女。真夏の暑さのせいか、それとも悩みのせいか、若干やつれて見えるので、もしかしたらその印象よりは若いのかもしれない。

 槐に相対したその女は、終始不安そうな表情で、しばらくは辺りに視線を巡らせていた。よほど気を張り詰めているらしい。見ているこちらまで緊張してくるほどだ。

 女はそのうち落ち着いたのか、槐を真っ直ぐに見据えると、頑なに閉じていた口を開いた。

「……手紙が届くんです」

 女はどうにか、それだけ答える。それ以上の説明はない。槐は困ったような表情を浮かべた。

「手紙、ですか。具体的には?」

「送られてくるはずのない人から、届くのです」

「――いつから?」

「ちょうど、お盆に入った時期からです」

 槐の問いに、女は淡々と答えていく。槐もまた、それに応えるように、探り探り問いを重ねていた。

「それでは、送られてくるはずのない人、とは?」

「もう亡くなってしまった方――死者です」

 女はそう言うと、それ以上は必要ないだろうと言わんばかりに、口を引き結んだ。槐は珍しく、困惑の表情を隠そうともしていない。

 ――こちらで、怪奇現象についてご相談にのっていただけるとうかがって来ました。

 それが、この人が店を訪れた理由だ。

 この時点で、明らかに石が目当ての客ではない。そもそも客と呼んでいいものかも迷う。ここはあくまでも石を扱う店なのだから。

 確かに、この店では怪異に関する悩みのある者を迎え、結果的に力になるということはある。それでも、ここがどんな場所か知りもしないで、怪奇現象について相談にのって欲しい――なんてことを言って訪れる人はそういなかった。

 あれに呼ばれて迷い込んできた客とも違うだろう。これに関しては確かなしるしのようなものはないのだが、今までの経験からして、少なくとも桜はそう確信している。

 ともあれ、そういう理由で桜は当初、この人を客として迎えることをためらった。直前に変な男を招き入れてしまったという後悔もある。

 ただ、この人が怪異に困っていることは確かなようだし、それをわかっていて拒むことも気が引けた。そうして迷っているうちに、結局は槐が相談を受けることを決めてしまったのだ。

 これでは空木のときと同じだ。桜は複雑な心境で二人の会話を見守ることになった。

 問答の末にお互い黙り込んだ二人は、しばし無言で向かい合う。この客に対しては、槐も普段より慎重に言葉を選んでいる風ではあった。この店をどこで知ったのか。そういったことすら、女にはたずねていない。

 沈黙のあと、次に口を開いたのは槐の方だ。女の表情をうかがいながら、神妙な調子でこうたずねる。

「あなたは、その方に手紙を書かれたのですか?」

 女はその問いに息をのんだ。そこにあったのは、何かを怖がっているような、ひどく悔いているような――そんな表情だ。

「書きました……」

 女は大きく息をつくと、観念したようにそう答えた。そこで再び、黙り込んでしまう。

 どういう経緯でこの場所に至ったかは知らないが、助けを求めに来た割に、この人は店のことを信頼しきれていないようだ。

 こういう客は難しい。石を貸しても、ちゃんと返してくれるかわからないし、そもそも問題を解決できるかも不透明だ。嘘や隠していることがあれば、こちらも判断を誤るかもしれない。

 槐は少し考え込むと、ふいに、しばしお待ちください、と言って席を立った。おそらくは、あの部屋に向かったのだろう。どの石を持ち出すつもりなのだろうか――

 戻ってきた槐が手にしていたのは、鈍色の輝きを持つ石だった。

石墨せきぼくです」

 槐はそう言って、その石を女に差し出した。

「黒鉛とも呼びます。鉛筆の芯の原料となる鉱物です」

「……え、鉛筆の芯?」

 女の顔に、いぶかしげな表情が浮かぶ。それでも差し出されるままに、女はその石を受け取った。

「石墨は炭素のみからなる元素鉱物。これはダイヤモンドも同様ですが、構造が違っている。こういう関係を同質異象どうしついぞうと言います。ダイヤモンドの方が密な配列で、傷つきにくさにおいてもっとも強いのに対し、石墨はその逆。しかし、この石はそれ故に、文字などを書くことができる。英語名のグラファイトは書くという意味のギリシャ語から名づけられました」

 槐は淡々とした調子でそう語った。この人にその説明が必要なようには思えないが――槐はある意味、いつもの調子を取り戻したようだ。ただし、相手の方はわけもわからず、ぽかんとしている。

「こちらが、そういう怪奇現象に対して、ご利益のある、ということでしょうか?」

 意味がわからないなりに、女はそう理解したらしい。答えを聞かないままに、続けてこうたずねる。

「それで、その、お代金は……?」

「いりません。ただし、すべてが終わったあとは、これを必ず返しに来ていただきたい」

 槐は少し厳しめの口調で、はっきりとそう言った。こういう言い方は珍しい。とはいえ、相手がこちらを信用していないのだから、こちらも相手を信用できないのは仕方がないだろう。

「……わかりました」

 釈然としないようではあるが、女はそう了承した。この人はこの人で、藁にもすがる思いなのかもしれない。多少の不条理に、目をつぶるほどには。

 石墨を手に女が去ったあと、まったく手をつけられていないグラスをかたづけながら、桜は呟いた。

「なんだか、最近は変なお客さんが続きますね」

 聞いているのかいないのか、槐は心ここにあらずの様子で、坪庭をじっとながめている。不安になって、桜はこう続けた。

「さっきの人、誰からここの話を聞いたのか、たずねなくてよかったんですか? もしかして、空木って人が何か言いふらしたりしてるんじゃ……」

 言葉にしてしまうと、実際にそうなのではないかという気がしてくる。確か、フリーのライターだとか言っていた。この店のことが、妙な形で広まらないといいが――

 それでもやはり、槐は答えない。物思いに沈んだまま、それからしばらくは、ずっと浮かない表情だった。


     *   *   *


 家に帰ると、手紙が届いていた。

 手紙といっても、封筒に入れられているわけでもなく、郵便で届けられたわけでもない。それは一枚の便箋につづられ、三つ折りにたたまれた簡単なものだった。

 その手紙は、家の郵便受けにいつのまにか届いている。それが死者からの手紙だ。これで八通目だったか。もはやこの存在自体には、慣れたものになっていた。

 何が書かれているかは読んでみないとわからないが、どんな風に書かれているかは見なくてもわかる。手紙を交わし始めたときにはすでにあの人の握力は弱っていて、震えたような文字しか書けなかった。そうしてひたむきに書かれた文字で、短い文章はつづられている。

 死者の代わりに出した手紙への返事だから、当然それは、亡くなったあの人の夫へ向けたものだった。

 なぜこの手紙がここに届くのだろう。亡くなったその先で、あの人は待っていた夫とは出会えなかったのだろうか。自分が手紙を送ったことで、彼女を引き止めてしまったとでもいうのか。そんなことを考えるたびに、恐ろしさに身がすくんだ。

 とにかく、こういったことを解決できる、と聞いた店に行って、それに対処できる――かどうかはまだわからないが――お守りは借りてきている。そう思って、手紙を読むことはせずに、受け取った石とともに座卓の上に置いておいた。なるべく気にしないようにしよう。そう思ったからだ。

 しかし、この日はそれで終わりとはならなかった。

 とにかく、部屋にこもった熱気を逃がそうと、閉めきっていた戸を開けようとした、そのとき。べしゃり、と、どこかで音がした。

 何が起こったかわからなくて、思わず動きを止める。音の出どころを探すが、すぐには見つからない。気のせいだったか――と思い直した瞬間、すぐ近くで同じような音が聞こえた。

 音のした方へと目を転じる。それが何なのか――わかってからも、ただ呆然とすることしかできなかった。

 墨だ。壁に黒い墨がぶちまけられている。いや、違う。これは、もしかして。

 ――文字だ。

 そのことに気づいた途端、頭が真っ白になる。どうして、こんなところに突然、墨で書かれたような文字が――

 べしゃりべしゃりと、次々と音がする。そんな、まさか――そう考えているうちにも、墨が形作る文字は文章になっていく。そのうちに、それが何であるかを確信した。これはきっと、死者からの――

 あまりの恐ろしさに、慌てて近くにあったブランケットを引き被った。それでも、文字がつづられる音が止まる気配はない。耳を塞ぎながら、無意識のうちに呟く。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 こんなはずではなかった。あくまでも自分は、あの人のことを思って、そうしただけ。まさか、こんなことになるなんて。

 あまりのことに、震えながら考える。自分は何を間違ってしまったのだろうか。これからいったい、どうすれば――

 音は止まらない。

「そんなつもりじゃなかったんです。そうすれば、喜んでもらえると思ったから! 騙すつもりはなかった! どうか、許して……」

 確かに、あの人は手紙を喜んだ。しかし、それは本当にあの人のためだったのだろうか。そんなことを、ふと思う。

 ――いや。そうじゃない。

 ただ、嫌だった。自分の夫が死んだことすら忘れてしまったあの人の、無邪気な問いに答えるのが。何度も何度もくり返し。本当のことを言えば、傷つける。哀れで、疎ましくて、だから自分は、それから逃れるために――

「わかってる。わかってるんです。あの手紙は全部……私の、利己心エゴだった――!」

「なるほど。軽い気持ちでそのようなことをしたのなら、苦言を呈していたところなのだが」

 ふいに、そんな声がした――墨をぶちまけるような音に混じって。音はまだ続いていたが、声は不思議と真っ直ぐにこの耳に届いた。

 状況が理解できずに、混乱する。これは一体、誰の声なのか。

「どうやら悔いているようだから、これ以上、わかりきったことは言うまい」

 視線を巡らせているうちに、男の姿を見つけた。あの石と手紙を置いた座卓の前。すっと背筋を伸ばし、全く隙のない姿勢で正座をしている。

 その男は、目の前の手紙を――そして、今もまだ、音を立てて増えていく文字を追いながら、こう言った。

「これは、間違いなくあなたへ宛てた言葉だ。あなたが送ったから、返ってきたもの」

 そんなことはわかっている。わかっているが、どうしようもなかった。憤りのあまり、思わず声を上げる。

「どうすればいいの。これが、私に宛てた言葉って――まさか、これに返事をしろとでも?」

 いぶかしみながらも、そう問いかけた。男はそんなこちらの様子を冷ややかに見ながら、こう返す。

「いや。そんなことをしても意味はない。しかし、届けられる言葉を、このままにしておくわけにもいかない。だから――」

 その言葉とともに、男は軽く右腕を上げた。よく見ると、その手には筆が握られている。

「だから、これはすべて――私が返そう」

 ――返す? どうやって?

 そう思う間もなく、男はその筆で何かを書き始めた。突然のことで呆気にとられてしまったが、そのうち、あの音が止んでいることに気づく。

 しかし、男が文字を書くことを止めた途端、さっきの音が鳴り始めた。それを見て、男はまた何かを書き出す。そのくり返し。

 やり取りをしているということだろうか。頭から被ったブランケットの影から、その行動を見守る。何度それが続いただろう。男はふいに、筆を置いた。それからは一切、墨の音はしなくなる。

 這い出して、辺りを見回した。墨の文字は――どこにもない。部屋の壁にも天井にも、どこにも。

 筆を置いた男の手には、一枚の紙があった。それをながめなから、男はおもむろに口を開く。

「相手を哀れんだこと、それによって行動したこと――それ自体は間違ってはいない。あなたが間違ったのは、ただひとつ」

 男は手元の手紙から目を離すと、鋭い視線をこちらに向けた。

「安易に、見返りを求めたことだ」

 見返り? そんなものを求めただろうか。考え込んでいるうちに、男は続ける。

「手紙を送るなら、あなたの言葉でなくてはいけなかった。死者の代わりではなく」

「でも……そんなことしたって、何の意味があるっていうの。あの人が欲しかった手紙は、亡くなったあの人の――」

 言い訳のようにそう言うと、咎めるような目でにらまれた。思わず、口をつぐむ。

「それがいけないと言っている。利己心エゴなのだろう? ならばやはり、死者の代わりに手紙など書くべきではなかった。それだけだ」

「そう、ね……そうかもしれない」

 気が抜けたように、そう呟く。

 確かに、夫からの手紙なら、あの人は喜ぶだろうと、そう思った。自分が手紙を書いたところで、何の意味もない。だからこそ、そうした――そうしてしまった。

「ごめんなさい」

 自然と、その言葉が口をついて出た。

 誰のためだろうと自分のためだろうと、こんなことをしてはいけなかった。きっと、そういうことなのだろう。

 男はそれを聞いて、うなずいた。そして、手にしていた手紙を、こちらに差し出す。

「これで終わりだ。ただ、ひとつ忠告しておこう。このことは誰にも語らぬことだ。店のこと、石のこと――もちろん、手紙のことも。さもなくば、再び手紙が届くことになる。望まぬ者からの手紙が」

 男はそう言うと、跡形もなく姿を消した。座卓の上には、石がひとつ置かれているだけ。

 これで、終わり。そう言って差し出された手紙は、間違いなくあの人の筆致で書かれたものだった。そうして、そこに書かれていたのは――

 ――私の名前だ。ならばこれは、私に宛てた手紙なのだろう。


 お手紙とてもうれしかった。ありがとう。


 たどたどしい文字で、そうあった。これは本当に、あの人からの手紙だろうか。自分に都合のいいように現れた、幻なのでは――

 いや、もういい。男の言うとおり、これで終わりにしよう。そして、もう過分なことは求めない。そう、心に決めた。


     *   *   *


「無事に返してもらえて、よかったですね。石墨さん。僕も、ほっとしましたよ」

 女が店を去ったあと、桜はそう話しかけた。槐の目の前にあるその石に。

 託されたときと変わらない姿で石墨は座卓の上に置かれている。槐があの人に渡したときには返しに来てくれるかどうかすら不安だったのだが、どうやらそれは杞憂だったようだ。

 約束どおり、あの人は石墨を持って再び店を訪れた。怪奇現象とやらも、無事に解決したらしい。

「僕はまた、石英さんや黄玉さんの力を借りて探し回らないといけないかと、心配してました」

 桜がそう続けると、それに応えるように石墨は姿を現した。

 石墨は所作に隙のない、黒髪で細身の青年だ。彼の姿は、いつ見ても恐ろしく姿勢がいい。着流し姿は少し槐と似ているが、冷たい印象を受けるその顔立ちは全く似てはいなかった。

 涼しげな表情で、石墨は言う。

「悪い人物ではなかったように思う。そう用心する必要もなかったかもしれない」

 それを聞いて、槐もようやく安堵したようだ。肩の荷を下ろしたように、軽く笑みを浮かべている。

「そうか……すまないね。嫌な役を押しつけたかと思って、申し訳なく思っていたのだけれど」

 その言葉に、桜がけげんな表情を浮かべると、槐は苦笑してこう続けた。

「空木さん……だったかな。あのとき、彼に呪いのことを話したのは、私も少しうかつだったかと思ってね。石墨に、今回は釘を刺してもらうよう頼んだんだ。嘘で脅すようなことは、したくなかったんだが……」

 あのとき浮かない顔をしていたのは、それが理由か。桜は納得した。

「何を言ったんですか? 石墨さん」

「私の存在、この店のこと――あるいは、起こったことを他に話せば、また手紙が届くようになるだろう、と――まあ、ありもしないことだか」

 そんな風に、口止めをした訳か。あれだけ手紙に怯えていたのだから、あの人はこれで、店のことを誰かに話すことはないだろう。

「ところで結局、手紙って何だったんです?」

 あの人は、死者から手紙が送られてくる、というようなことを言っていた。そんなことが、本当にあるのだろうか。

言霊ことだまだ」

 石墨はそう答えた。

「言霊? 言葉には霊力があって、言ったことが本当になる、とかいうあれですか」

 石墨はうなずく。

「そうだ。言葉には力がある。それでいて、書くという行為は呪術的な意味も持っている。あの者は、己が本来してはいけないことをしている、ということを自覚していた。だからこそ、送られた言葉は返り、自身を苛んだのだろう」

「それって結局、自分で自分を呪ったようなものってことですか?」

 ほとんど表情を変えずに、石墨はそれに答えた。

「そうだな。言葉は使い方次第で恐ろしいものとなる。口にした言葉自体が力を持つ、というだけではない。それはときに自身も思わぬ意味に解釈され、意図せぬ意味を与えられてしまう。そして、それはいずれ己に返ってくる」

 そこでようやく、石墨は少しだけ顔をしかめた。

「ましてや今回は、死者の代わりに手紙を書いたという。そのことが、悪い方へ作用してしまったのだろう」

「それが、あの人の後悔だったんですね」

 手紙を書いたのか、という槐の問いかけに、あの人は苦い顔をしていた。いけないことだとわかっていても、そうしてしまった。そのこともまた、彼女自身を苛んだという呪いの一端だったのかもしれない。

 石墨はそこで軽く首を横に振った。

「自身のしたことをずいぶんと悔いていたようだし、あの者は少なくとも、同じ過ちを犯したりはしないだろう。この件については、これ以上わずらわされることはあるまい」

 石墨はそう言って、姿を消した。

 すべての不安が払拭されたわけではないが、少なくとも今回の件は、これで決着したようだ。槐のみならず桜もまた、このことには、ほっと胸を撫で下ろした。


     *   *   *


「へえ。解決したのか。そりゃすごい」

 空木は思わずそう口にしてから、心の中で、しまった、と呟いた。ただし、表情には出ていない。それでも、相手はあからさまに嫌そうな表情を浮かべた。

「ちょっと待って。それ、どういうこと? 私、あなたが、あの店なら解決できるっていうから、相談に行ったんだけど?」

「できる、なんて言ってない。できるかも、と言ったんだ。それにしても、そうか。解決したのか……」

 とぼけたように、そう呟く。相手はいよいよ苛立ちの感情を隠さなくなったが、空木はそれを取り成そうとも思わなかった。

 特に流行ってもなさそうな古い喫茶店の店内。会話の相手は、高校のときの同級生だった。

 とはいえ、空木は同窓会だの何だのには縁がなかったので、実のところ今の彼女のことなどほとんど知らない。卒業してから全く会っていなかったのに、急に連絡があって久々に会った。そうして会うのは二度目だ。

 顔をしかめる女に、空木は冷めた視線を投げかける。

「そもそも、だ。どうしたって、怪奇現象だの幽霊だの相談相手に俺を選んだ? ライターとしていろいろと手を出しているとはいえ、そんな記事を書いた覚えはないんだが」

「それは、だって。あなたの家が――」

 そこまで言いと、相手はばつが悪そうな表情になって黙り込んだ。空木は鬼の首でも取ったかのように捲し立てる。

「あーはいはい。やっぱりね。たいして親しくもなかったのに連絡してきたと思ったら、それか。確か始めは――あなたがライターをやってるって聞いたから、そういうことにもくわしいかと思って、みたいなことおっしゃってましたけど。結局、そっちを当てにしてたってことね。まあ、そうだろうな」

 わざとらしく嫌みを言うと、さすがに相手も言い返す気力を失ったようだ。ただ、空木も、さすがにこれは言い過ぎたか、と思わなくもない。

 とはいえ、ここは空木としても、はっきりさせておきたいことではある。

 案の定、相手は怒りを通り越して呆れたようだ。ため息とともに、こんなことを言い出す。

「……あなた、まだ実家に反発しているの?」

 その問いかけに、空木は少し、むっとした。

「高校のときが一番ひどかっただけで、今はそうでもない。じゃなきゃ、京都にも戻ってないさ」

 そう言って、空木は早々に切り替えると、たった今聞いたことについて考え込んだ。とはいえ、たいしたことは話してもらっていない。例の件が解決した――と、その報告を受けただけ。

「それで、あの店――どんな感じだった?」

 あの店というのは、空木が偶然に見つけた店のことだ。石だかを売っていると言っていたが、現物を見せてはもらえなかったので、その辺りはよくわからない。

 ただ、店主は見るからに変わった人物で、呪いのことをたずねても、笑うことも怒ることも、呆れることもしなかった。これはかなり珍しい。

 そうして目星をつけていたところ、たまたま怪奇現象の相談など持ちかけてくるものだから、軽い気持ちですすめてしまった。まさかそれが当たりだなんて、空木も驚いているところだ。

「どんな方法だった? 大金を請求されたりはしなかったか? 他には――そうだな、変なものを買わされそうになったりとか」

 相手はうろんげな表情を浮かべながら、無言で空木を見返している。どうやら、ご機嫌はうるわしくないようだ。しかし、この流れなら当然か。

 問いに答えることもなく、女は大きくため息をつくと、財布から出したお金を、テーブルの端に置いてあった伝票の下へと滑り込ませた。そうして、そのまま立ち上がる。

「解決したことは確かだから、それについては感謝してる。けど、それ以上、くわしく話す義理はないわ」

 女はそう言い捨てると、空木に背を向けて、さっさと去って行ってしまった。それを見送ってから、空木は軽く伝票を持ち上げてみる。注文したものより少し多めのこれは、一応お礼のつもりだろうか。

 もうちょっと、うまく聞き出すべきだったな。そう思いながらも考えていることは、次に自分がどうすべきかということだ。

 あまりうまくもないコーヒーを飲みながら、空木はぼんやりと窓の外をながめた。

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