第1話

 桜井鈴音は自室を出ると、息を殺して玄関へ向かった。


 たたきに腰を下ろしてバックスキンのブーツにタイツの足をそっと入れ、時間を確認すると、音を立てないよう携帯をバッグに突っ込む。


 後はドアを開けて外に出てしまえばいい。


 しかし、気を抜く訳には行かない。最要注意人物がリビングにいるのだ。


 一つ深呼吸をしてから背後を振り返り、耳を澄ます。


 リビングからゲーム音楽が聞こえた。


 どうやら気付かれていないらしい。


 取り越し苦労だったかと苦笑いしながら、慎重にバッグを肩に掛け、ゆっくりとした動作でミニスカートの膝を伸ばした、その時だった。


「ちょおっと待ったあ!」


 廊下の突き当たりに位置するリビングのドアが、吹き飛ぶような勢いで開かれると、ドカドカと床板を踏み鳴らして、猛然と男が駆け寄って来た。


 四角い輪郭に、太い眉。


 ギョロリとした目と、引き結んだ口が無ければ、海苔弁、もしくは下駄と表現するに相応しい。


 しかし、この下駄顔の男こそが、桜井鈴音の十歳違いの実兄であり、彼女の頭痛のタネ、桜井圭一だった。


「な、なによ」


「何処へ行く、何処へ!」


 うろたえる鈴音に、圭一は広い肩を怒らせ、唾を飛ばしながら詰め寄った。


「何処って……もう、きたな……」


「男じゃないだろうな!」


「……」


 大当たりだった。


 これから、担任であり、密やかな恋人でもある都筑と会う約束をしているのだ。


 しかし、こんな事で引き下がる訳には行かない。今日は、年に一度っきりのクリスマスイヴなのだ。


「どうなんだ」


 繰り返す圭一に、鈴音はぷいっとそっぽを向いた。


「圭ちゃんには関係ないでしょ」


「な……なんだと?!」


 溺愛する妹の素っ気無い態度に激しい衝撃を受けた圭一は、顔色を変え、ますます目を剥くと身体を捻った。


「おい! おかーさんッ! おかーさーんッ! 鈴音が! 鈴音が不良になったぞォォォォォッ!」


 両手でメガホンを作り張り上げるそれは、まるで数キロ先に危険を知らせるかのような大声である。


 鈴音はがっくりと肩を落とした。


「お母さんなら、お父さんと温泉行ったよ」


「なにっ? 娘の一大事に温泉だと? なんと暢気な!」


「一大事じゃありません。大体、なんで不良なのよ……」


「当然だ! お兄ちゃんが何処へ行くのか聞いてるのに、行き先を言えないなんて不良だ! びっくりだ! ドンキーだ!」


「ヤンキーでしょ」


「そう、それだ! つまり極道の始まりだッ! 岩下志麻だッ! 覚悟しぃやぁぁぁぁッ!」


「も……声大きい……」


 高校生の妹に振り翳すとはとても思えない論法と大声に、とうとう鈴音は耳を押さえた。だが、限度を超えたシスコンである圭一の興奮は収まらない。


 それどころか、わなわなと震える指先を突きつけて語気を荒めて来た。


「それにだな! くっ、クリスマスに出かけるなんて、おおおお……男に決まってる! ふしだらなッ!」


「何決め付けてんのよ」


「決め付けも何も、上下揃いの下着がなによりの証拠だっ! そそそ……それは所謂勝負下着と言うやつだろうがっ!」


 と、突然桜井家が水を打ったように静かになり、ただでさえ寒い玄関がアラスカばりに凍りついた。


 大寒気団は、鈴音の真上に停滞中だ。


「着替え……覗いたわね……」


「あ、いや……」


「覗いたのねっ!」


「ち、違うッ! それは違うぞっ! スケベ心などは、欠片も……」


「そんな事わかってるわよ! でも、覗いたんでしょ!」


「断固として覗きではないッ!」


 妹の剣幕に、ここは開き直るしかないと踏んだのか、圭一はぶるぶると頭を振ると厚い胸を反らせた。


「いいか! あれは監視だっ! 兄として、妹の素行を監視したに過ぎん!」


「変態」


「ふがっ」


 たったの四文字であったが、それは猛烈なカウンターとなって圭一を襲った。


 ふらふらと大げさによろめき、壁にすがりつく。


 そんな兄に冷たい視線を投げかけると、鈴音は「じゃあね」と背中を向けた。


が。


「むわてぇい!」


 すばやくバッグを掴んだ圭一に、あっさりと引き戻された。


「おおおおお兄ちゃんは許さんぞッ! よく聞け! 大体、クリスマスと言うものはだな! 家族でチキンを食ったり、ケーキを食ったり、クラッカーをすぱこーんと鳴らして、ちょっぴり照れつつもジングルベルを歌ったり、『お兄ちゃん、これ、鈴音が一生懸命編んだセーターよ』、『おおう、嬉しいぞ鈴音! お兄ちゃん、棺桶に入るまで脱がないぜ!』なんて言う嬉し恥ずかしのプレゼント交換をだな!」


 クリスマスの定義と言うよりも、歪んだ自身の希望を語る兄に、鈴音は目を眇めたまま、溜息をついた。


「……て言うか、自分だって今日は合コンなんでしょ?」


「あっ……頭数が足りないから出てくれと言われてるだけだ! 誰が好き好んで合コンなど! お前がちゃんといい子にしてれば、ソッコー帰ってくるわ!」


「じゃあいいよ」


「なぬ?」


「いい子にしてないから、ゆっくりして彼女作って来て」


「なななななななな」


「いってきまーす」


「鈴音ぇぇぇッ!」


 兄の絶叫を背中に聞きつつ、鈴音は家を出た。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る