ラブ・ブック

中下

ラブ・ブック

 菅稚貝かんちがいは、ある日、古本屋(と言っても、読者が想像しているような木造で、歴史あるような建物ではなく、巨大なコンクリート製のいかにも商業的な建物である。古本だけでなく楽器や洋服、果てはスノーボードまで売っている始末だ)で本を買った。『特別編 日本古典文学史』という物である。その名の通り、古来より続く日本古典の作品を扱った作品である。

 なぜ彼が3,500円の高い本を買うか。もちろん古典に興味があるからだが、それだけではなかった。彼は本来立ち読みだけする予定だったのだ。

 現に彼は5分前まで立ち読みをしていた。巨大な空間に、整然と、何万冊もの本が棚に並ぶ、異様な場所で、彼だけでなく他にも幾人か同じように立ち読みをしている。灰色の天井は、白色の蛍光灯に照らされて、余計その暗鬱あんうつな色を晒す羽目になっていた。

 菅は、その本を読みながら、当然ページをめくる。すると、1枚のかわいらしい紙が出てきた。ピンクの下地に、ハートやリボンなどのイラストが描かれている。紙は折られており、中を開くと女の子らしい丸みを帯びた文字が書かれていた。どうやら、手紙らしい。その内容はこうだ。

「この本を読んだあなた。私はあなたを愛しています。なぜって、こんな難しいマニアックな本をわざわざ古本屋まで来て読むのなんて、私と趣味が合うに決まっているからです。私は、今まで多くの人とお話をしてきました。しかし、こういう趣味を持った人に会えた試しがありません。そのせいで誰とも話せることがなくなり、恋愛も未経験です。そこであなた、この本を通して文通をしましょう。ある種の遠距離恋愛です。あなたにその気があるのなら、お返事を書いた手紙を挟んで、またこの店に売ってください。中に手紙だけ入れて買わないんじゃ、怪しまれますからね。文通してみて良い感じであれば、そのうちお会いすることも視野に入れておいてください。よろしくお願いします」

 菅はこの手紙を読み、降って湧いたチャンスだと思った。というのも、彼も同じくモテないたちだったのだ。彼はこの手紙の差出人に、酷く同情した。彼自身も、この手紙に書いてあるような人間だった。

 日頃日本古典を読んで、唯一話が合うのは学校の国語の先生。友人などおらず、もちろん恋人もいない。

 しかし、神は彼をお見捨てになられていなかった!そのうえ、彼に千載一遇せんざいいちぐうのチャンスをお与えなさった!

 このチャンスを逃す訳には行かず、単調な電子音の響くレジへ急ぎ向かった。

「3,500円になります」

「磯貝 店長」というネームプレートを提げた中年のレジ員が、しゃがれた声で言った。あまりにしゃがれてたので、「3,500円」が「ザンゼンゴギャグゲン」と聞こえるほどであった。その声を聞くと、磯貝の不衛生そうな薄汚れた手が、『特別編 日本古典文学史』…つまり、菅にとっての『ラブ・ブック』に触れるたび、なんだか、恋をバカにされている気がして、彼は虫酸の走る思いをした。

 アパートの自室に帰り、彼はすぐに返事の手紙を書いた。自分も同じような境遇にいたこと、同じく恋愛未経験なこと、古典の良さが分かる女性を知れて嬉しいこと、自分の身分、何もかも書いた…。

「初めまして。菅稚貝といいます。私は今19歳で、西帝東大学1年生です。

 あなたのような女性を知ることが出来て、非常に光栄です。私も日本古典が大好きなのですが、周りには理解してもらえず、あげく「今は文芸の時代じゃない」と言われ、古典評論家の夢を諦めるよう説得される始末です。

 私はこの趣味を誇りに思いたい。せいぜいテストの点で自慢する以外、特に自慢できないこの趣味を、誇りに思いたい。日本を生きる一日本人いちにほんじんとしてそう思うのです。

 さて、私も恋愛は未経験で、何をすれば良いかとか、全く分かりません。手紙なんかもやったことは無く、自分でも、よくもここまで書けたなあという具合です。まあ、せいぜい上手くやりましょう。2人で、この非日常という恋を独占しましょう」

 返事の手紙が挟まれた本を売る時、磯貝に何かを疑うような目で見られたが、それは当然の反応だった。なにせ、買って1週間もしないうちに返品するのだ。怪しまないはずが無いだろう。菅は、1人で納得した。

 それから3日、1人の男が『ラブ・ブック』を買いに来た。もちろん、菅である。が、彼はたった1週間とちょっとで見違えるほど若々しくなっていた。少し前までボサボサの髪に無精髭ぶしょうひげが生え、黄色く汚れたシャツを着ていたのに、今やパリッと整った白いシャツを着、髪は美しく整っている。

 本のスペースの1番右手の奥、そこに例の本がある。整然と並んだ本の中に、1冊だけ輝いて見えた。あれだ。

『ラブ・ブック』の中を見ると、返事の手紙に使った紙とは、明らかに違うものが入っている。つまり、向こうから返事が来た。値段を見ると、4,000円。

「ちぇっ、値上がりしやがったな。あの野郎」

 彼は心の中で悪態をつく。しかし買う以外の選択肢は無かった。この初恋を、絶対に逃すわけにはいかない。19歳にして初めての恋。どんな女も、彼にとってはただの肉塊だった。どいつもこいつもバカみたいに騒がしく、突然その辺で踊ったり、彼は今まで見たほとんどの女を軽蔑、あるいは嘲笑していた。しかし、突然理想の女が、彼の前に現れた。この女なら、突然踊ったり、騒いだりしなさそうだ。そして、何より美しいだろう。彼は舞い上がっていた。

「4,000円になりまあす」

 新しく入ったバイトなのか、随分楽しそうな声、そして顔で店員は読み上げていた。この先、何度この声と、例のしゃがれた声を聞くことになるのだろう。菅は想像していた。できるだけ長く続いて欲しい。普通の恋…つまり、会って色々話すという恋の形も当然良いだろう。だけど、この特殊な恋を、『ラブ・ブック』を介した恋を、続けてみたいのだ。一種の娯楽であった。『ラブ・ブック』は、ビニル袋にすっぽりと包まれ、今、菅に支配された。

 自動ドアを急いで通り抜け、ビニル袋片手に走り帰る男の後ろ姿を見ながら、磯貝とバイトの男は、ニンマリとほくそ笑んでいた。

「磯貝さん。案外、上手くいくもんですね」

「ああ。やっぱり、ああいうタイプの男はよく使える。学校や職場じゃ理解されずに1人で周りを恨むんだ。理解しない周りが悪いってな。その結果当然1人になる。恋もできない。たかが500円とは言え、収入は収入だ。最初は売価1,000円だったこの本が、今じゃ4,000円にまでなった。この先も、ごっそり奪い取ってやるさ」

 そう言いながら、彼はレジカウンターの下の引き出しから、いかにも女の子な紙…ピンクの下地に、ハートやリボンなどのイラストが描かれた紙を取り出し、バイトに向かってわざとらしく見せつけ、ニヤリと笑った。

「全く、あくどい商売ですね」

「何を言ってる、向こうの責任だろうに。買っては売り買っては売り買っては売り…なんて行為、今回はうちが仕掛けている事だが、普通、店にとっちゃ迷惑極まりないだろう。ちゃんと考えれば分かるはずだ」

「なるほど、自業自得ってことですね」

「ああ。そういう事だ」

 そう言って2人は再び業務に戻った。日常が始まる。菅にとっての非日常は、結局彼らにとっては単なる日常に過ぎなかった。

 その事を菅が知るのは、少し先のお話。当分は、少なくとも本が6,000円になっても、彼は文通を続けるだろう。

 古本屋の灰色の天井は、いつもと変わらない暗鬱な顔をしていた。

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ラブ・ブック 中下 @nakatayama

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