日に手を伸ばす
ムラサキハルカ
伸ばした手は……
校舎の外に出てすぐ、華は空へと手を伸ばす。細い指先は、一瞬だけ日と重なってから、何もないところを掻いた。
そんなものだ、と華は思う。
「なになに、虫でもいたの?」
横合いから覗きこんできた
「それ、なんでもなくない顔じゃん」
眉に皺を浮きあがらせる輝に、華は、どうでもいいじゃないですか、と告げてから歩きだす。
「待ってよ」
パタパタと追いかけてくる音を耳にしながら早足になる。その間も、目を細めて太陽を見上げた。
届きそうだけど、届かない。そんなものだ。
「お帰りなさい」
帰宅するとエプロンをかけた義母の
「たっだいまぁ~」
輝は元気よく返事をすると、フローリングの上に鞄を投げだして、すぐさま二階へと駆け上がっていく。
「せめて、手を洗いなさい」
声を張りあげる義母に、華は、ただいま戻りました、と頭を下げた。
「そんなに畏まらないで。もう家族なんだから」
寂しげな顔をする義母に、努力してみます、と答える。より顔が曇ったように見えたが、気付かないふりをした。
「あの娘はどう?」
問われた華は少しだけ考えてから、元気でしたよ、と答えた。
そうしてからクラスメートたちの真ん中で明るく笑顔を振りまく姿や、体育の授業内での高身長を活かしたダンクシュートを決めたこと、昼休みのあとの授業での暴睡などについて話した。喜怒哀楽をくるくると変えていく義母の表情に、やっぱり輝の母親だなという感想を持ちつつ、つまりはいつも通りです、と締めくくる。そう。昔から華が見てきた、いつも通りの輝だった。
「そっか。だったら、良かったわ」
小さく胸を撫で下ろす義母。
不安がる理由などないのにと華は思うものの、再婚したばかりとなれば、なにかと心配事も多くなるのだろう、と考え直す。なにより、華自身も全てを受けいれられたわけではないのだから……。
ノックが耳に入ってきたのは、華が数学の宿題を片付けている最中だった。どうぞ、と応えれば、失礼しまーす、と伸びのある声とともに、白い半袖のシャツと薄緑色のジーンズに着替えた輝が飛びこんでくる。
「ごめん、勉強中だった?」
輝の問いに華は、はい、と答える。
「そっか」
輝は後ろに長く括った薄茶色の髪を揺らしながら、学習机に肘を置く華に近付き、椅子の端に微かにできたスペースに座ろうとする。その動作に合わせて、華は尻を横に滑らして空間を作った。
「ありがと」
短く礼を口にしてから、輝は腰を下ろす。どうしたんですか? と尋ねる華に、
「漫画借りにきたんだけど……」
そこまで口にして言葉を止めた輝は、こぼれそうなくらい大きな目で華を見る。
「ここにいようかな」
言いながら、華の肩に頭を乗せてきた。
邪魔ですよ。素気無く応じつつも、輝の行動をとりたててとがめもせず、再び紙の上に並んだ数式との格闘を開始する。
「ねぇねぇ、なんかお話しようよぉ。お・は・な・し」
しきりにねだってくる輝に、また後で、と答えつつ、鉛筆を動かす。
「いいじゃん、ちょっとくらい。ほら、休憩入れないと、後がもたないよ」
ご心配なく。そこら辺は自分なりに考えてやっているので。手を止めずに答えると、輝が頬を、ぷくー、と声に出した。見えてはいないが頬を膨らましたらしい。
「今日の華はいじわるだなぁ~」
そうですか? と首を傾げる。華自身にはそういった自覚はない。
「そうだよぉ。いつものことだけど、今日はそれに輪をかけて冷たい」
冷たくしてるつもりはありませんが。少しだけ心外に思い言い返すと、輝は、だろうね、と華の髪を弄りはじめる。やめてくれませんかと頼んでも、もうちょっと、と曖昧な返事が返ってくるだけだった。
小さく溜め息を吐いたあと、華は輝のさせるままにして課題を続ける。隣にいる少女もまた黙ったまま、華の髪を編みはじめていた。
そんな時間が続き、華の数学との格闘がようやく終わりに差しかかったところで、
「ねぇ」
またもや唐突に声がさしはさまれた。
急に空気が変わったような気がして、なんですか、とおそるおそる応じる。
「うちら、これからも一緒だよね?」
からっとした言の葉からは、なぜだか不安が滲みでている気がした。そして、その理由を華はほぼほぼ理解している。
「ええ、おそらくは」
わかっていて、素直に答える。噓を吐くのは苦手だった。途端に横合いから髪をわしゃわしゃとされる。やめてください、と訴えても、輝の手は止まらず、
「このこのこの~」
楽しげな声が、どことなく部屋の中で虚ろに響いた。
八時少し過ぎ、華の父親が仕事から帰って来てすぐ、夕食になる。
「そんでねそんでね。華ってばね。ドリブルの途中ですっころんじゃって。うちがあわてて、駆けつけた時には、鼻がトナカイみたいになってさ」
からからとフォークにハンバーグを刺し掲げた輝は、情感たっぷりに本日の華の不名誉を語る。華は反論しようと思ったものの、ご飯がまだ頬の中にあったので、ゆっくりと飲み下そうとする。
「輝。口の中に食べ物を入れたまま喋らないの」
「まあまあ、光さん。元気があっていいじゃないですか」
顔を顰める義母に対して、父は大きな肩をおおらかに揺らす。
「さすが、おじさん。よっ、太っ腹ぁ!」
半ば腰を浮かしかけながら空いている方の手で指差す輝。アキラァ、と雷を落とそうとする義母を、華の父は、まぁまぁ、と諌めたあと、
「お父さんと呼んでくれてもいいんだよ」
新たに娘になった少女に不器用な笑みを向ける。
輝は少しだけ困ったような顔をしてから、フォークを持っていない方の手の人差し指で頬を掻き、
「もう少しだけ、時間をもらえないかなぁ」
控え目に否を示した。華の父は、そうか、と目を細めたあと、いつでも呼んでくれていいからね、と味噌汁を啜りはじめた。輝もまた、フォークに刺しっぱなしになっていたハンバーグを大口で齧りつき、食卓には義母が望んだ静けさがやってくる。その義母は実の娘に対して不本意と心配が混じったような視線を向けていた。
不意に華は、輝の頬に茶色く光る液体が付着しているのを目にする。
輝、ちょっと。キョトンとした顔を向けてくる少女についたデミグラスソースをティッシュで拭きとった。
「ありがと」
華は、どういたしまして、と口にしつつも、子供っぽいな、という感想を輝に対して持つ。もっとも、幼なじみのこうした気性は今にはじまったことではないし、できれば今後とも失われないで欲しいとも思っているのだけれど。
「はい、お礼」
直後に口の前に、切りとったハンバーグの欠片を差し出される。いいんですか? と聞き返すと、輝は首を大きく二度、縦に振ってみせた。
「だから、はい、あーん」
なんですかそれ。苦笑いしつつも、口を開ける。ゆっくりと唇と唇の間に差し込まれた肉をパクリ。直後にひき肉と、少しだけ冷えた肉汁の味が広がる。最近、ようやく馴染んできた味だった。
向かいから二つの視線を感じ振り向けば、義母と父が、微笑ましげにこちらを見ている。
私の顔になにかついてますか? 尋ねると、そうじゃないんだけど、義母は一度否定してから、
「やっぱり、仲がいいんだなって」
あらためて口にする。
それってじっと見るほどのことでしょうか。内心で義母の視線にそんな疑問を感じる華の肩に腕が回される。
「そうでしょそうでしょ! いやぁ、同じ家に住むようになってから、もっと仲良くなったような気がするよ。ねぇ、華」
自慢気な目を向けてくる輝。少しだけ腹がたったので、父母の方に視線を逸らしてから、そうでしょうか? と疑問系で応じた。
「そりゃないぜ、華ちゃん」
途端により強く抱きついてくる輝。食事中に遊ばない、と注意する義母や楽しげに微笑む父の姿を目にしつつ、痛いんですけど、と抗議をしたあと、再び幼なじみの少女と視線をかわす。いかにもわかっていますという表情に、気持ちが温かになった。
風呂から上がり髪を乾かし終えた華は、自室のベッドでぼんやりと寝転がっていたが、なんとはなしに寝付けずにいた。いっそ、起きあがってもう少し先の範囲の予習をするか読みかけの本でも読もうかと考えかけているおり、どことなく控えめなノックに思考を遮られる。
どうぞ、と短く口にした。時刻はとっくに二時をまわっている。心当たりは一人だけだった。
「こんばんわ~」
予想通り、紫色のジャージに着替えた輝が、室内に身を滑らせてくる。
こんな夜遅くに非常識ですよ。注意しつつも、悪い気はしていない。むしろ、ちょうど良かったとすら思っている。
「いやぁ。なんか、眠れなくてさ。華はどうしてるかなって」
奇遇ですね、と口にしそうになるのを直前で取りやめ、そうですか、と応じた。輝はベッドの端に腰かけ、そのままごろんと転がる。いつの間にか、少女の顔が華の目の前にあった。近い。
オレンジ色の豆電球に照らされた長い睫毛を見たりしながら、どこか気だるそうな笑みが気になる。
少し、疲れていますか? そう問いかけると、輝は、わかっちゃうかぁ、となぜだか嬉しそうにする。
「いやぁ。今日の夕食の時のおじさんのあれ」
ああ、と合点するように頷いた。おそらく、それは華が義母の光さんから感じている圧と似たようなものであろうことも。
輝は口の端をゆるめたまま、右腕で自らの両目を覆う。
「好意で言ってくれてるのはわかるんだけどね……まだまだ、そういう気にはなれないっていうか。いや、おじさんのことはけっこう好きなんだけど、それとこれとは別というかなんというか……」
輝が吐露する言葉には他意はなさそうだった。おそらく、夫婦というものに対して綺麗な印象持ったままここにいるのだろうと。
輝はまだいい、と華は思う。心の中には時折、義母に対して、余計なことをしてくれた、という薄っすらとした憎しみが揺らめく自分に比べれば……。
「いつかは呼べると、いいんだけどねぇ……」
気が遠くなりそうな調子で呟く輝の頬に華は手をかけ、呼ばなくても、いいんじゃないでしょうか、と語りかける。
「なんで? だって家族だよ」
大きな目を瞬かせる輝に、家族であるからといって必ずしもお父さんだとかお母さんだとか呼ぶ理由にはならないでしょう? と答えてから軽く輝を抱き寄せる。
「そうかなぁ?」
そうですよ。輝の好きなように呼べばいいんです。
「そういうものなのかなぁ?」
そういうものです。
「ところで、華さんや」
なんですか?
「ちょっと苦しいんですけど……」
そうですか? 姉妹ならこれくらい普通ですよ。応じつつも、痛いくらいに両腕に力が籠もっているのに気が付く。だからといって、眼前の少女に対しての戒めを解く気にはならない。
「いや、力、込めすぎでしょう。これじゃあ……」
そこまで口にしたところで、輝は言葉を止めたあと、軽く身を起こしどこかへと目を逸した。華が、抱きついている少女の視線の先を追えば、閉まった扉があった。
直後に輝はホッとしたように大きく息を吐きだしてから、どこか仕方がなさそうな苦笑いを浮かべる。
「華は昔からさびしがり屋だなぁ」
それはこっちの台詞です。強がるように答えながらも、実のところ華も自覚していた。できうるかぎり、この温もりを失いたくないと。今も、そしてこれからも。
ぽんぽんと頭を軽く撫でられる。大きな手だ、と思った。
「大丈夫」
輝は目を細めて言う。
「うちらは、ずっと一緒だから」
ええ、と小さく頷く。自らの声の震えを耳にした。
「大学に入ったら、ルームシェアして」
また、頷く。
「それで、就職して、お金を溜めてさ……どこか遠い町に庭付きの一軒家を買って一緒に住もう。いつまでもいつまでも一緒に暮らそう」
強く、頷く。そうしてから華は眼前にあるやや強張った輝の顔を見上げながら、内なる不安を振り払おうと試みた。
輝の口にした未来像は、華自身も望んでいるにもかかわらず、なぜだかしっかりとしたかたちを結ばないまま振りほどけていき、代わりに浮かんだのは太陽をつかめなかった自らの掌だった。
日に手を伸ばす ムラサキハルカ @harukamurasaki
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