第十三部 策謀の国
71 甲斐の虎
苗木城主、
さて、その直廉は、つまり遠山氏は東美濃という地理的な関係上、さまざまな大名と手を組んでいた。
斎藤道三しかり、一色義龍しかり、そして武田信玄である。
どこから攻められても困るので、現状、一色義龍と武田信玄、その両方に属している状態にある。
その信玄の使いと称する男が先日、苗木城に現れた。
「拙僧は一徳斎と申す」
幸綱はこの目で国譲り状を見たと言って、その内容を――斎藤道三が織田信長に美濃国を譲っていたことを直廉に信じさせた。
「直廉どの、これは好機でござるぞ」
「こ、好機とは」
いつの間にかにじり寄って来ていた幸綱に、直廉は引き気味に答える。
「実は駿河の今川義元、尾張へ攻め入るつもりでござる」
「そ、それは知っている」
東美濃は三河に接している。自然と、そういううわさも入ってきている。
「……いつ攻めるかは知ってござるか」
「いやそれは」
そんなことを知ることができれば、誰も苦労はしない。
この東美濃とて、その今川の攻めの余波を食らうだろう。
それに備えたい。
現に、稲葉山城の一色義龍は躍起になって、尾張を攻めるためだ、兵を出せ米を送れ
その負担はあまりに大きく、直廉は武田との関係を言い立てて、それらの要求を先延ばしにしてきたが、それも限界にきている。
「いつまで待たせるのか。そも、武田は今川さまの同盟国ではないか。もうその言い訳は聞き飽きた。早くしろ」
この前など、日根野弘就を使いにして、そのように言って来た、否、強要して来た。
これはもう言うとおりにするしかないかと悲歎に暮れていたところに、幸綱が来たわけである。
「好機というのはでござるな、直廉どの……いっそ、言われたとおり、兵を出しなされ」
「え」
「それで、尾張に向かうのでござる。単独で」
「ええ!?」
幸綱は説明する。
実は、今川はあと数日で出陣するつもりである。
武田はそれを知っている。同盟国ゆえに。
幸綱は、その機に、兵を集めろとも言った。
そして出陣するのだ、尾張に。
言われたとおり、「名目」は一色義龍の尖兵として。
「これなら一色義龍も文句を言えまい……という寸法でござる」
「い、いや、聞こえは良うござるが」
その場合、のこのこと尾張へ入った遠山直廉はどうなるか。
織田信長に、得意の鉄砲隊で殲滅されてしまうかもしれない。
「そこはそれ……実はでござる」
幸綱は武田と織田の密約を話した。
だから、織田は遠山直廉を受け入れる、と。
しかし直廉の悩みは尽きない。
「尾張の方はそれなら……でも、空となった苗木城は」
「ご安心めされ。菩提山の竹中半兵衛どのが味方です」
「え!? あの今孔明が!?」
「さよう……そしてわが主・武田信玄も、そういう……悪だくみは好きでござってな」
そしていくつかの打ち合わせをしたのちに、遠山直廉は五百騎あまりの兵を集め、尾張へと向かったわけである。
*
今川義元率いる大軍は、三河に入った。
その数、四万五千と伝えられているが、おそらく陸側の戦力としては、二万五千から三万ではなかったかと思われる。
さて、三河に入ると、早速に松平元康が迎えに馳せ参じた。
「お屋形さま、ついに尾張入りでござるな……ようやっと」
「元康よ、そちにも三河の平定で苦労をかけたな。だがそれも、もうすぐ報われる」
このとき義元は、尾張に攻め入ったあと、三河をすべて元康に任せるつもりで発言しており、元康もそのつもりで礼を言うのだが、あとでこの会話を振り返って、何とも言えない気分になった。
元康は、白馬にまたがる義元の隣に馬を進める。
「しかし……こうして私が尾張に攻め入ることになろうとは、感慨深いことです」
三河の松平は、尾張の織田に押される側であり、今川の後ろ盾がなくば、もう滅びていたかもしれない。
「尾張といえば」
義元は元康の方を見た。
「そなた、尾張の織田に送られた時……その織田信長と面識は無かったのか?」
「ございます」
松平元康は、その幼少の頃、今川へ人質として送られるところを、送り役に裏切られ、逆に織田に送られてしまったという過去を持つ。
その後、太原雪斎の活躍により、改めて今川へ送られることになったが。
「……ただそれも、一回か二回のこと。人質である私と、あまり会うのもどうかと思ったのでしょう」
「……そうか」
「しかし、そのわずかな出会いでですが、私を励ますためか、唄を唄ってくれました」
おおっぴらに励ませば、織田家の家臣たちが眉をひそめるかもしれない。
そしてそれは、元康(当時は竹千代)への扱いにつながるかもしれない。
そう思ったらしい信長は、ある唄を唄うにとどめ、それ以上会うことは無かった。
「その唄は?」
「はい」
元康は信長と出会って以来、苦境の自分を励ましてくれた唄を唄った。
――死のふは
「おお」
「どうかなさいましたか」
「いや……師もその唄を好んでおった」
うむうむと義元はつぶやき、そして信長を討つことにためらいはないか、と聞いた。
元康の心情に思いやったのである。
だが元康は首を振った。
「大事ありませぬ。これも戦国のならい。それこそ、のちの世の語り草となる戦いをしてみせましょう」
「そうか」
そこへ津々木蔵人が後方から駆けよって来た。
「お屋形さま! 東美濃に動きが! 苗木城の遠山直廉、五百の兵を集め、尾張へ向かったとの
「東美濃……だと」
義元は上目遣いになって中空をにらむ。
東美濃とは、武田信玄か。
彼奴自身は動かざること山の如しだが、それは自身だけのこと、というわけか。
「いかがいたしましょうか」
これは元康である。
東美濃ならば、三河から手を伸ばせる。
あたかも、
「……いや」
義元は考える。
ここで今川は、うかつに東美濃に手を出せない。
そもそも、落城寸前の大高城を救うために、今川は進軍しているのだ。
その主力として期待しているのが、松平元康という名将に率いられた三河の精兵である。
その元康の松平軍を東美濃に向けていては、大高城を盗られる。
今川の他の将を大高城あるいは東美濃に向かわせても良いが、まず土地鑑に疎い。
津々木蔵人ならば大高城あたりの土地鑑はあるだろうが、最近今川軍に加わったばかりの若僧に、誰か従うだろうか。
「おのれ……信玄」
義元には、信玄の仏像めいた顔が、皮肉げな笑みを浮かべているのが見える思いだった。
「しかし……それなら一色だ。美濃の一色義龍」
同じ美濃の義龍なら、全軍でなくとも一軍を苗木城に向かわせれば良い。
「よし! 元康、一色に使いを送れ! 東美濃に兵を送れと」
「しかしそれでは……武田とあからさまに」
いくさになるのではないか、と元康は危惧する。
ここで蔵人の物言いが入った。
「松平どの、お屋形さまのお考えに背く気か」
「けして、さような……そも、貴殿は何者か? 見ない顔だが」
「かまえるな、かまえるな……よせよせ、元康、予の言葉が足りなかった。蔵人、お前も余計な気を回すな」
義元が元康に「これなるは、尾張衆をまとめる津々木蔵人よ」と言い、蔵人に目配せすると、蔵人は不服そうだが頭を下げた。
「……話を戻そう。義龍が一軍を苗木城に向かわせる……すると、苗木城を奪われると知って、その遠山直廉とやら、泡を食って美濃に戻らざるを得ぬ」
「しかし、それでは……」
「あわてるな、元康」
そこで義元はしたり顔で笑った。
「信玄めには書状を出そう……お父上は息災なり、とな」
「……それは」
信玄の父・武田信虎は、信玄の手により甲斐から駿河に追放された。
信玄が信虎から、甲斐の国を盗るために。
それは今川義元と太原雪斎の思惑通りであった。
義元と雪斎は、甲斐を手駒にするために、暴君の信虎より若い信玄を選んだのである。
ところが、信玄の器は予想外で、手駒どころか、北条をも巻き込んで、対等の同盟者と成った。
……これはこれで良いと義元と雪斎も判断した。
なぜなら、武田信虎という切り札を手中にしており、その信虎は、この時点において、まだ生きていたからである。
「今こそ、その武田信虎どのに役立ってもらおうではないか。これほどの大いくさ、手札は惜しまん。そうよのう、書状には、これ以上美濃には手を出すなとも記しておこう。たとえ東美濃の苗木城が落とされても、のう……。そしてもし、予の意向に背いたら……」
そこで義元は笑みを浮かべた。
その笑みは、元康や蔵人をぞっとさせるだけの迫力に満ちていた。
「お父上の世話をしてやっている予に対して、かように調子に乗ったこと、お仕置きしてもらわねばのう……お父上にな」
*
「……と、あの海道一の弓取りは考えておろう」
信濃。
急ごしらえの陣中にて、武田信玄は謀臣の山本勘助を相手に酒を飲んでいた。
念のため、いつでも甲斐に戻れるようにの急ごしらえの陣の中で。
「父上など戻ったところで……いや、こういう
「細工は
「
そこへちょうど今川義元からの書状が届き、信玄は一読したのちに、失笑しながら勘助にそれを手渡した。
「ご丁寧に……これ以上は美濃に手を出すなと書いておる……これ以上は、とな」
勘助は笑わなかったが、それでも得意げな表情をしていた。
「さよう……もうこれ以上やることはないくらいに、美濃には仕込んでおりますゆえに……」
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