59 幕間狂言 後編
「美濃の一色義龍どのと、海道の今川義元どのに加え、海路の水軍という陣立て……」
駿河。
善得寺。
武田信玄はうめいた。
実に壮大な作戦である。
河越夜戦を最高潮とする『双頭の蛇』を成し得た今川義元ならでは、といえた。
「それで」
北条氏康は片目をつぶりながら、先をうながした。
おれたちに一体、何をやらせやがるつもりなんだ、とその目が言っていた。
「ふむ」
義元はまず、扇の先端で美濃を指した。
「まず信玄どの、武田は信濃を持っている。その信濃の隣……美濃への後詰めを頼みたい。信濃での」
「そんなのでいいのか」
それでは事実上、武田は現状維持のまま待機と言ったところである。
「うむ」
義元は意味ありげにうなずいてから、にやりと笑った。
「信玄どのは油断ならぬお方にて……下手に戦場に来られても困る。ゆえに、信濃で後詰めにと申すのじゃ。下手に……予の尾張入りの最中に、甲斐から駿河に来られてもたまらぬから、の」
「……フン」
河越夜戦の前哨戦、河東一乱にて、信玄は義元の要請により出陣したが、戦意に乏しく、時には甲斐に帰ってしまうという真似までしていた。
ただしこの時、信玄は甲相駿三国同盟の構想を抱いており、そのために動いていた、という理由があるが。
「信玄どの、おぬしが海が欲しいと言っている話も、予は聞いておるぞ。分かったな」
「……
信玄もまた、今川義元の三河や美濃での活動中に、南進を模索していたことがある。山国である甲斐や信濃にとって、塩が取れる海は、欲望というより必要による征服対象だった。そしてそれは、雪斎の遺訓により油断せず調べを怠らなかった義元に知られていた。
「南無……」
芝居がかって雪斎への経を唱え始めた信玄を冷めた目で見ていた氏康に、義元は「次に」と声をかけた。
その扇の先端は、今は海を指していた。
「氏康どの……お手前には水軍を出してもらいたい」
「おいまさか」
「そのまさかよ……聞きしに勝る北条水軍、出してもらおう。何、決行は雨の季節。船を進めてもらうだけで良い……尾張に圧力をかけるだけじゃ」
氏康もうめいた。
北条水軍を出させれば、海の守りが手薄になる分、陸の兵を出して警戒にあたらせなければならない。
つまり、そうすることによって、今川としては、北条が河東へ向ける兵を、その余裕を減殺したのだ。
そして義元の企図はそれだけでなく、さらにとんでもないことを言い出した。
「それでその水軍……むろん今川も水軍を出す。そしてその大将は、
「氏真どの!? 嫡子ではないか! ……いや、今は当主か」
これは信玄の発言であるが、言ってから彼は気がついた。
だからこそ、信玄は信濃の美濃国境地帯に行けと言っているのだ。
今川は駿河をがら空きにするぐらいに
そして驚いたのは氏康も同様である。
今川氏真。
今川義元の嫡子であり、義元が家督を譲っているため、正式には今川家の当主である。
その当主を今川が「出す」と言っている以上。
「この北条氏康にも出陣しろということか……水軍を率いて」
「そのとおりよ」
そうすることにより、北条は完全に封じられることになるだろう。河東を望むなど、夢のまた夢である。
*
「それで――」
武田信玄は、今川義元の尾張侵攻作戦「双頭の蛇」それ自体は壮大と認めたが、そこから先はどうなるか、ということを考えていた。
北条氏康が手に持つ、美濃、尾張、海道の――
「尾張の織田? ……だったか、それを倒したあと、今川どの……おぬしはどうするつもりだ」
「つもりとは」
「とぼけるな。その……三河ですら、元々の土豪の、松平元康とやらに
単に征服して、そのあとを考えていないようでは、支配者とはいえない。
現に、武田信玄は征服地である信濃の支配に腐心しているし、北条氏康も手に入れた関東の治政に心を砕いていた。
支配したそのあとを確固たるものにして、利益を上げないようでは、支配者として失格である。
さらに言えば、その利益に期待するからこそ、家臣や同盟相手は協力するのだ。
逆に言えば、そのあとのことを何も考えていないようでは、家臣や同盟相手の協力は得られない。
「……ああ、そのことか」
義元は造作もないといいたげに、扇をひらひらとさせた。
「実はの、尾張の守護の守護代の、そのまた下の……小守護代だか守護又代とかいう、坂井大膳という者を、飼っておる」
尾張守護又代・坂井大膳は、清州城城盗りのどさくさにまぎれて脱走し、今では今川家の庇護下にいるという。
「それではいささか弱いのではないか」
実効支配、実務面ということでは、なるほど坂井大膳は適任かもしれない。
だがそれは、守護なり守護代なりといった後ろ盾、
「……あれか、例の今川那古野どの、だったか。義元どのの弟御の今川氏豊かその係累でも担ぐ気か」
これは氏康の発言である。
義元の頬がぴくりと動いた。
北条には、風魔という忍びの者たちがいる。
そやつらにでも、調べさせたのか。
義元が強い視線を向けたが、どこ吹く風の氏康である。
「……ふ」
義元が軽く笑いを洩らすと、やがてそれは哄笑と化した。
「面白い! 実に面白い! やはり貴殿らは面白い! 大名同士というのは……こうでなくてはな、こうでなくては面白くない!」
同盟しているというのに、油断はできぬ。
そういう、背中合わせのぎりぎりの、ひりつくようなやり取り。
義元はそういうやり取りが好きであった。
「ははは……だが分かった。隠しごとはよそう。同盟しているからではない。油断できぬ貴殿らだからこそ、敢えて明かす。開陳する。それゆえ……」
そこで、義元は地図のある一点にその一文字を書いた。
その一文字を、信玄と氏康は何のことかと思ったが、それぞれの忍びからもたらされた「ある情報」に行き当たった。
そして驚倒する信玄と氏康を前に、義元は言葉を繋いだ。
「それゆえ……従えよ、貴殿ら。尾張をものにすれば……美濃はすでに自家薬籠中であるしのう?」
ではの、と言って、義元は立ち上がり、去って行った。
信玄と氏康もやがて立ち上がり、互いに目礼して、善得寺を後にした。
……あとに残された地図には、その一点――尾張には、こう記されていた。
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