異世界渡りは重罪でした

紫都川 縁

第1話 空き教室

 自分以外の全ては常に硝子の向こうにある。


 窓やスマートフォンの画面に限らず、自他を視覚で認識する多くの生き物は眼球の中の小さな硝子ごしに世界を見ているのだ。


 そう考えれば僕が休日の空き教室の窓から見た校庭の景色も、スマートフォンの画面越しに読み進めている物語の世界も大差はないのかもしれない。

 どちらも硝子を通して見たものを脳内で映像として構築し、認識している。


 けれど現実の世界は、僕の意思を無視して僕を認識する。

 誰かの目に映ってしまう。


 読書の休憩がてら窓から校庭を見下ろしていたら、こちらを見上げた誰かと目が合ってしまった。僕は反射的に体をひっこめた。

 休日の朝から部活動に励むような高校生の日常は明るく希望に満ちて充実しているに違いない。

 たまたま目が合っただけの虫みたいな僕の存在なんて、なかったことにしてほしかった。


 校庭の方からホイッスルの音と部員に集合をかける声が聞こえてくる。

 廊下側から聞こえていた吹奏楽部の演奏もいつの間にか止んで、女子たちの声が小さく聞こえた。

 スマートフォンで正午を確認する。

 誰もいない教室の廊下側に寄せられた椅子と机の陰に座り、汚さないように読んでいた文庫本を机の上に置いて、持ってきた三ツ矢サイダーのペットボトルを開封する。温くなったサイダーを一口飲んで、メロンパンにかじりつく。


「……面倒くさいな」


 メロンパンをサイダーで流し込み、梅雨の晴れ間の空を窓越しに眺めて僕はつぶやいた。


 鍵をかけ忘れられていたこの空き教室は僕にとってのオアシスだった。

 また新しい場所を探さなくてはならないかもしれないと思うと、ため息が出る。


 僕がの学校に転校してきたのは半年ほど前、高二の学年末だ。

 両親が亡くなって祖父母と生活することになり、春休みの少し前に引っ越した。

 両親の死がちょっとした事件になったことで前の学校であらぬ噂をたてられ、僕はいわゆるいじめにあっていた。

 平均より低い身長、運動も得意ではなく、明るい性格でもない。

 友達もおらず、子どもの頃からいじめにはあいやすかったこともあり、僕はずっと、とにかく目立たないようにしてきた。


 人生は繰り返しだ。

 三年のクラス発表があって間もない頃、前の学校でのことがどこからか調べられた。

 父が母を殺して自殺するという、それなりにセンセーショナルな事件。

 引き取られた祖父母宅から通学していたが、ささやかだったいじめがそこから激しくなり、この私立高校に転入したこと。

 生きた人間からは逃げられても、インターネットの情報網からは逃げられなかった。

 また、入学試験はあったものの祖父の伝でこの学校に入れたことは表に出ていない。

 そうした祖父の力からも逃げられはしないのだ。


 自分の領域が守れるならば、長いものには巻かれた方が楽だ。

 クラスで浮いた存在になっても焦ることなく僕はひとりになれる場所を探した。

 厳しい祖父母の家も教室も落ち着かない。

 部活に興味はなく、世間体が悪いからとアルバイトも祖父母に禁止されていた。しかし小遣いも多くはない。

 ひとりで静かに読書ができる場所を探した僕は、薄い埃が床を覆う、誰も来ないこの場所を見つけた。

 ほんの二ヶ月ほどの間に放課後も、どこかの部活がやっていれば校舎に入れる休日も入り浸った。


 だから、こちらに向かってくる足音が死神の迎えのように感じられた。

 音を立てないようにメロンパンを鞄の上に置く。サイダーのキャップを閉めて、スマートフォンが消音になっていることを確認する。

 足音が教室前方の入口前で止まり、誰かの手が戸を開けようと力を込めて揺する。

 内側から僕が鍵をかけたので開きはしない。


 どうか、立ち去ってくれ。

 昼食が済んだら僕は出ていくから。また別の居場所を探すから。


 僕の祈りが届いたように音が静まり、磨りガラスの窓に映っていた影も離れてくれた。

 そりゃそうだろう。校舎の端っこの人気ない教室、鍵がかかっているのが当たり前だ。

 中で誰かが息を潜めて読書を楽しみメロンパンを食べているなんて、普通は思うはずがない。

 少し緊張の緩んだ僕はサイダーのキャップを開けて口をつけた。

 その瞬間、戸の方から何か小さな音がした。僕は思わず振り返る。


 誰かが鍵を開けようと鍵穴に何かを刺してしているらしい。

 炭酸が気道に入ってむせそうになる。

 手で必死に喉と口を抑えている間に鍵は開いてしまった。


 先生なら怒られるだけだ。祖父母にも連絡されるかもしれないが、それも怒られるだけだ。

 厄介なのは生徒だった場合だ。僕の噂に尾ひれがついて、新しい場所を探すことの難易度が上がってしまうだろう。

 息を潜めるか先に謝ってしまうか迷う僕を尻目に扉は開かれ、彼は入ってきた。


「すみません、すぐ出ていきます!」

「あ、やっぱり天橋あまはしだ」


 静かに戸を閉めて僕の前に立ったのはクラスメイトだった。

 部活のユニフォーム姿の彼は、廊下を一瞥してからしゃがんだ。


宇上うがみだよ。同じクラスの、宇上うがみ陽人はると

 昼飯、これで足りるの?」


 僕は咄嗟に言葉が出ず、目を見開いて彼をじろじろ見てしまった。

 彼は不躾な視線に不快そうにするどころか爽やかに笑う。


「天橋?」


 充実した世界を生きる彼の笑顔で、埃っぽく蒸した教室の空気すら浄化される気がした。



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