相江進之介、謀る(前編)

「小四郎」


 高木作左衛門は稽古場から退がろうとしていた大楠おおぐす小四郎を呼び止めた。

 はい、と静かに返事をした彼は慌てるふうもなく、落ち着いた所作で作左衛門の前に正座した。


「今日はよく晴れたな。見よ、小四郎。庭に何が見える」


 演武所(道場)の稽古場は南向きが広縁になっており庭が一望できた。庭と言っても庭園造りになっているわけではない。泉水や石灯籠はないし奇岩が設えてあるでもない。草木が無造作(そう見える)に生えているだけの庭だ。

 小四郎と呼ばれた青年は表情を変えなかったが、一瞬視線を落としてから背後を振り返り庭を眺めた。


「いつもと変わりはございませぬ。梅の木と椿、紫陽花、庭のぐるりを生垣が囲んでおります。造り込んだ庭にはない素朴な美しさのあるお庭かと存じます」

「そうか、そうだな。では稽古場はどうだ」

 

 今度は小四郎の顔に困惑が浮かんだ。困惑の中に僅かなみもあるようだ。


「床の間に掛け軸と花差しに花が活けてございます。こちらもいつもと変わらぬ様式の美しさを感じまする」

「うむ、そうだな。そうには違いない。…引き留めて悪かった。もう良いぞ」


 小四郎は低頭して立ち上がると稽古場にもう一度頭を下げてその場を辞した。


 演武所の外に出ると小四郎は首を捻りながら師範とのやり取りを思い返していた。このやり取りは今日が初めてではない。もう四回目なのだ。高木師範は忘れた頃になると同じ質問をしてくる。意図がわからない。師範はいつもそうだな、と言うだけで何も語らない。


 ――下手な禅問答みたいじゃないか。


 小四郎はそう思った。禅問答なら問いがあり答えを求めるものだろう。しかしこのやり取りには問いがない。いったいこれが剣術と何の関係があるのだ。

 師範はけてしまっているのではないか。小四郎はそう危ぶみ始めていた。


 ――筆頭の腕前の自分に、いまだ免許状が下されないのはそのせいかもしれない。


* * * 


 相江あいえ佐代さよはお膳に箸を置くと、座ったまま体ごと進之介の方へ向いた。


「旦那様、思いに耽るか食事をするか、どちらかになさいませ。いま手に持っているのはご飯茶碗です。いくら端から啜っても飲めません」

 

 相江進之介ははっとして茶碗から口を離すと、バツが悪そうな苦笑いを浮かべて佐代を見た。


「悩んでるように見えちゃったかい? 実はね、佐代」


 進之介に悪びれる様子はない。どうやら声を掛けられるのを待っていたようだ。佐代はまんまと引っ掛かった、と悔やんだがそれはおくびにも出さない。


「お話しは後でお伺いします。いまは食事をしっかりなさいませ。うわの空ではせっかくの食事も身につきません」

「聞いてくれるのかい? ありがとう。それなら食事に集中しよう。時に私には焼き魚はつかないのかい?」

「すでにお召し上がりになりましたけど。覚えていないようですね」

「そんなまさか。いくら私だって食べたことを覚えてないなんて。…本当かい?」


 情けなさそうな顔をして落胆する進之介に、佐代は少しだけ顔を背けてくすりと笑った。



 食事の後、場所を進之介の居間に変えて進之介と佐代は向き合っていた。

 散らかった部屋だ。藩の過去の裁きや政策などを記録した書物、論語、孟子などの書物、書きかけの覚書、が文机といわず床といわず散乱している。

 以前、見かねた佐代が整頓したら、進之介はぷぅとふくれて恨みごとを言ったものだ。散らかって見えるだろうが私の頭の中ではどこに何があるかが整理されている。整頓したら混乱するじゃないか、と。以来、佐代はこの部屋への出入りを制限されていた。


「つまり父が依怙贔屓をしてるかもしくは惚けているのではないかと、に苦情を申し立ててきた、そういうことですか」

 

 佐代が屹となって進之介を睨んだ。佐代が進之介をと呼ぶ時は、結婚前の幼なじみの時代に戻った時だ。


「い、いや、苦情を申し立てるとかそんな大袈裟なことじゃなく、愚痴をこぼしに来たと言うか。ほら、私と大楠幸之進とは知らぬ仲でもないだろ? だからさ…」

「であればなおさらタチが悪い。幸之進どのはあなたがいまだに引き摺っているに付け込んで、父親が筆頭家老で妻が高木作左衛門の娘であるあなたに何とかしてくれと、姑息にも無理強いをしてるのです」


 相江進之介と高木佐代の二人が結婚に至るには少し変わった行く立てがある。

 父親同士が旧知の仲であるため二人は幼馴染みの関係にあった。それがやがて自然と互いに恋愛感情を抱く関係に変わっていったのだが、特に進之介は佐代を妻に迎えるという明確な未来を描いていたのだった。

 未来のために日々励み続け周囲の評価も安定してきたその時、進之介は突然に佐代に縁談が持ち上がっているという確定情報を家老である父親から聞かされた。

 凶報に気が動転した進之介は矢も盾もたまらずに走り出し、佐代の実家に文字どおり乱入して佐代との結婚を申し入れたのであった。およそ武士にあるまじき行動である。そしてその縁談の相手というのが大楠幸之進だったのである。

 縁談話はかようにして未然に防がれたのだったが、進之介としては己の乱暴な振る舞いもあって幸之進に対してはいくぶんかの引け目を感じているというわけだ。


「疑念があるのなら直接父に言えばいいのです。そもそも何で幸之進殿が? 小四郎殿ご自身が来られればいい」

「いや、小四郎は知らぬことなのかもしれない。幸之進が弟の話を聞いて義憤にかられて…」

「義憤?」

「あ、違う、じゃ、邪推でした」

「あなたには父が依怙贔屓をするような人間に見えるのですか?」

「いえ、それとは正反対なお方だと」

「耄碌した老人だと?」

「敵わないと思うほどにお元気で」


 佐代はゆっくりと頷いて前のめりだった背筋を正した。


「小四郎殿に免許状が下されないのには正当な理由があるはずです」

「その理由とは?」

「存じません」

「……。じゃあ義父ちち上にお伺いに」

「そんなこと父が喋るわけないじゃありませんか、本人にも言わないのに。父は本人が自ら気付くのを待っているのだと思います」

「それはそうでしょう。それはそうでしょうと思いますが、このまま放っておくのもどうだろう。なにしろ大楠幸之進ですからね相手は。放蕩無頼の不良侍だから何をしでかすかわからないし、彼が騒げば納まるものも納まらなくなる危険が」

「見に参りましょう」

「見にってなにを? 幸之進を?」

「幸之進殿を見に行ってどうなるのです。道場に、小四郎殿を、です」

「道場…。稽古を見ただけでわかるかなぁ。私は剣術に自信がないから」

「ここにいて考えていてもわからないことです。見てわかるかどうかなど見てから判断すればよいでしょう?」


* * *


 進之介は目を丸くした。なるほど、百聞は一見に如かずだ。

 大楠小四郎の腕は抜きん出ていた。進之介は剣術が不得手であったがにも、道場内に敵なしの歴然とした差があるのは明らかであった。であるのに小四郎の次席の者へはすでに免許状を下されたと聞く。これでは確かに師範の贔屓や眼力に疑いの目を向けるのもまたむべなるかなと進之介は思ったのだったが、佐代の感想は違うようであった。佐代はわかった気がする、と言ったのだ。おそらくそうに違いない、と。


「どういうこと?」


 進之介にはさっぱりわからない。


「目です。対峙している時の小四郎どのの目」

「目? …目はよくわからないけど、彼は全戦全勝じゃないか。しかも圧倒的な伎倆ぎりょうの差がある」

「確かにそうです。でもそれがいけなかったのかもしれません」

 

 家に戻り進之介の居間で詳しく佐代の考えを聞いた進之介だったが、それは納得できるようで出来ないような見解であった。戸惑いの中にいる進之介に、さらに提案された佐代の解決策が彼を引かせる。実際、その荒唐無稽とも思える作戦に、進之介は背を仰け反らしてしまうのだった。

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