1-on-1 #2

 時間を確認。言われた時間通り。

 部屋の番号を確認。昨日と同じ、235会議室で間違いない。

 意を決して部屋の中をちらりと覗くと、果たして父さんの姿があった。

 昨日と同じようにドアを開けると、父さんと目が合う。酷くうるさい心臓を宥めながら、父さんの向かいの椅子に座った。

「……」

「…………」

 次に流れたのは、昨日と同じ沈黙。でも、その姿は幾分か小さくなっているように感じた。

 昨日と同じように、僕から口火を切ろうとしたとき。

「昨日は、すまなかった」

 沈黙を破ったのは、父さんだった。

 紡がれたのは、謝罪の言葉。

「ううん、いいよ。気にしてない」

 少しでも話しやすくなればいいな、と思って笑顔を作る。父さんは昨日気を使わないでくれと言っていたけれど、これくらいは許してほしい。

 それでも、その言葉は、思っていたよりもすんなりと出た。

「小市を覚えているか? 桜桃小市」

「うん、道香のお父さんだよね。実は今回もちょっとお世話になったんだ」

「そうなのか。あいつ、一言も言わなかったな」

 父さんが苦い顔になる。一方の僕は、友人に向けたであろう軽い悪態を聞いて、今度は作るまでもなく苦笑いが出た。

「……昨晩、酷くあいつに怒られたんだ。あいつがあそこまで怒ったのは、初めてだった」

「昨晩、電話を貰ったよ。友達の代わりにまず謝らせてほしい、すまない、って」

「そう、か。あいつにまで謝らせてしまったか」

 そして、父さんの口からも小市さんに怒られた、という話が出てくる。昨晩電話で聞いていたから驚きこそしないけど、その後の返事はちょっと意外だった。

 できるだけ重くしないように軽く伝えたけど、友人に電話越しとはいえ頭を下げさせたというのは父さん的にもショックだったらしい。見てわかるくらいに肩を落としていた。

「そこで言われたんだ、お前が何を考えているかも話さずに一方的に拒絶するなんて何事だ、と。だから、お前の質問には答えようと思う」

「ありがとう、父さん」

「何が聞きたい?」

「じゃあ――」

 僕が今父さんから一番聞きたいこと。三か月間考えつづけた挙句、結局シンプルなものに落ち着いていた。

「父さんがアメリカに来てから、何を考えて、どう思って、何をして過ごしてきたのか。聞かせて欲しい」

 詰問にならないように気を付けながら、その質問を口にする。それを聞いた父さんは、大きくため息をついた。

「本当はな、もっと帰るつもりだったんだ。年に何度もは難しいかもしれないが、一、二回くらいは」

 思い出したのは、アメリカに旅立った時の父さんの言葉。父さんが帰ってこようと思っていたのは、やっぱり正しかったんだ。

「だが、渡った先で待っていたのは激務だった。俺は新しいプロセッサの論理設計を主任技術者として任された。自分の開発チームを持って、研究や生産チームと話をしながらまとめ上げていく仕事だ。だが論理設計の泥沼にハマって、幾つも性能シミュレーション段階で却下されるような日々だった。新しい設計をして性能は上がっても、コストと信頼性が目標に達しない」

 今になって、ようやく父さんが何をしていたのかがはっきりと分かった。僕たちがこの半年間苦しんできたものの総括を、僕と同じようにやっていたのだ。

 もちろん、僕たちはコストや信頼性をそこまで気にしなくてもいい。JCRAの予算は十二分とは言えなくても十分くらいにはあったし、良品率も大会で使う分が取れれば最悪なんとかなる。信頼性だって大会の間壊れなければいい。

 でも、世の中にチップを出すということはその二つも天秤に掛けなくてはいけない。値段が高すぎたら誰も買ってくれないし、買ったパソコンが一か月で壊れてしまっては困る。

 皿が三つも四つもある天秤を正確に釣り合わせろというようなものだ。

「もちろん、職場自体は休めと言ってくれる。だけど、俺は天に甘えていたんだ。天が居るから家族は大丈夫だと、職場に通い詰めた。時々電話やメールをしたときにも、頑張れって応援された」

 そこまで父さんが頑張れたのは、やっぱり母さんの応援が大きかったんだ。これも、あのパソコンの中のメールを見て僕が思った通り。

 母さんは、調子がいい日を選んで電話しているようだった。調子が悪い日は、メールで誤魔化して。

 そして、そのメールはどれも、父さんへの応援で溢れていた。

「二年近く経って、ようやくそれがモノになった。Skylakeと名付けたのは、支えてくれた天の名前をどうしても残したかったから。そういう名前の湖を見つけた時は、本当に信じてもいない神に感謝したよ」

 母さんから聞いた、Skylakeという名前。やっぱりそれは、母さんの名前から取ったものだった。地名や山、湖の名前から取るのだというルールがある中での、父さんの精一杯だったに違いない。

「本当は、俺の仕事がひと段落したら一度帰ろうと決心していたんだ。天の体調は当然心配だったし、弘治のことも気になった」

 でも、と。父さんは、今まで見た中で一番大きなため息をついた。

「だけど、いつまで経ってもひと段落はしなかった。設計はほぼ終わっているのに、その製造に使うプロセスがいつまでも固まらない。試作どころか物理設計にすら入れない状況で、プロセスの仕様変更を受けて何度も設計をやり直すことになった。忘れもしない、2013年の初冬だ」

2013年の、初冬。

「その時期、って……」

「ああ、天が最後の入院をしている時期だ。長い入院になることは知っていたし、とっとと片付けて日本に帰ろうと思っていたんだ」

 それから父さんは、どこか遠いところを見つめた。

「一回、十月ごろかな。一度放り投げて帰ろうとしたんだ、日本に。そしたら天に怒られちゃってな」

 それがきっと、最後のチャンスだったんだろう。でも、帰ってきたら自分の調子が良くないことが分かってしまう。

 ……それを見たら、誰だって日本に残ると言うに違いない。そんな自分を重荷にしてほしくなかったんだ、母さんは。

 この時はまだ、顔色も悪くなかった気がする。あと二か月で命の灯が消えてしまうとは、自分でも思っていなかったんだろう。

「だから、最後までやりきってから日本に戻ろうと思った。天に、きみの名前から取ったチップが世に出るんだ、支えてくれてありがとう、と伝えるつもりだった」

 それが出来たら、どんなによかっただろう。母さんも、きっと喜んだに違いない。

「でも――それは、叶わなかった。弘治も知っての通り、母さんはそのあとすぐに逝ってしまったから。連絡を貰って家を飛び出したけど、ポートランドからの直行便には間に合わなかった」

「そういう、ことだったんだね」

 父さんの顔は悲痛そうに歪む。この後悔を誰にも言えず、ずっと抱えて過ごしてきたのかもしれない。

 母さんが亡くなるまでの全てが、まずは繋がった。アメリカから日本への直行便は一杯あるけど、一つの空港からは一日に一本くらいあれば良い方だった。今回の遠征の準備をしていて知ったことだ。

 だから、父さんが通夜に来れなかったのも無理はない。

 全ては、運命のいたずら。誰も恨むことが出来ないのは……辛い。

「天を見送った後、全然実感が湧かない中で俺は一枚の手紙を早瀬さんから貰った。そこに書いてあったのは、やっぱり……応援だった。自分がいなくなっても投げ出すなと。諦めるな、って」

 やっぱり、母さんの手紙の内容は僕宛てのものとよく似ていたんだろう。頑張れ、諦めるな、私を理由にしないで進め。そんな、明るくまっすぐな母さんのメッセージ。

「そこで、投げ出してきてしまった仕事を思い出したんだ。天の名前のチップ。これを世に送り出すことが、母さんの生きていた証になる。弔いになると思った」

「だから、あの時……すぐに、アメリカに帰ったんだね」

「ああ。でも、こう言っても信じてもらえないかもしれないが……あのチップが世に出たら、会社をやめて日本に戻ってこようと思っていたんだ。試作品が出てきてその修正だけはして、完全な状態で送り出す準備ができたら」

「そう、だったんだ」

 ずっと帰ってこないつもりだった、というわけではなかったんだ。あの時、僕がわがままを言えばなんとか引きとめられていたのかもしれない。

 でも、当時の僕はそうするには大人になりすぎていた。母さんがいなくなったから、自分がなんとかしなくちゃいけないと思ってしまう。

 結果、全てが終わって。

 母さんがこの世にいない寂しさには、僕は勝てなかった。ただ、それだけだ。

「でも……それさえも、叶わなかった」

 父さんは、いよいよ目じりに涙が溜まり始めていた。

「なんとか最初の試作まではこぎつけた。チップ自体の性能も、消費電力とのバランスも、当時としては悪くなかった。でも、遅すぎたんだ」

「遅すぎた……?」

「試作は、実際に製品が出る一年近く前に最初のチップが出来る。でも結局Skylakeの試作が出来たのは2014年の秋だ。それから実際にパソコンの設計をいろんな会社がして、出荷するとなると2015年の末。ライバルのAMTがその頃には新しいチップを出すという情報もあって、そこで出すには……性能が、少なくとも十パーセント足りないと言われた」

 父さんが設計を始めて、まともにまとまったのが2013年ごろ。遅れたのは一年だ。

 でも半導体業界の一年の向上幅が凄いのは、勉強していても、ニュースを見ていてもわかる。その一年が……命取りになってしまったんだろう。

「一割クロックを伸ばせば、その十パーセントの性能は取り戻せる。でも、Skylakeをなんとか仕上げた時期のプロセスはまだ不十分だった。どんなにV-Fカーブを調整しても、クロックが上がると消費電力が急増する特性が残っていたんだ」

 僕たちのチップ開発でも見たことがある現象だ。焼損させてしまった記憶も、あの臭いも脳裏に焼き付いている。

「その一割、400MHzのクロックアップで、消費電力は設計電力の上限をやすやすと超えた。つまりは今のソケットのままだと動かすことができない」

 その声は、何かに許しを乞うように細くなっていた。

「俺の作ったSkylakeは、役員会でキャンセルが決まった。なんとか世に出そうとしたけど、全て通らなかった」

 心が、痛かった。

 弔いだからといって、性能が十分じゃないチップを世の中に出荷する訳にはいかない。売れなければ会社は傾いてしまうし、お客さんが離れてしまうかもしれない。

 理性では理解できる。会社としては正しい。

 でも、父さんがそれに掛けた想いを考えると……やるせなかった。

「結局、Skylakeの次世代として準備されていたBlue Lakeを前倒しして出すことになった。俺が作った設計を元に、イスラエルのチームがさらに性能が出るよう修正したチップだ。でも、それはもう、俺が作ったチップじゃない。プロジェクト名も被らせるわけにはいかないから、もう多分二度と俺がSkylakeという名前のチップに携わることはない」

 そう言って、父さんは目を伏せる。

「そこで……心が、折れちまったんだ。惰性のままで仕事を続けて、気付いたらもう六年以上が経ってた」

 そのシンプルな言葉だけで済まされるほど、僕は単純じゃなかった。

 十分すぎるくらいのお金をその間も送ってくれたのは、確かにありがたい。

 でも、僕という子供自体を育ててくれたのは、蒼であり、早瀬の家であり、悠や宏といった友達だ。

 一言文句でも言ってやろう。そんな怒りにも似た感情は無いわけじゃない。

 でも。

「そっ、か」

 口には、できなかった。

 どこか寂しげな口調からは、今でも消えない後悔を抱えているのが伝わってくる。苦しい思いをしてきたのは、今までの話でわかった。

 そんな父さんを責め立てることなんて……できない。

 だから。

「父さんに、見せたいものがあるんだ」

 リュックを開けると、少し古びたパソコンを取り出す。ACアダプタを差し込むと、電源を入れた。

「それは、何だ?」

「母さんが使ってたパソコン。ずっと物はあったんだけど、パスワードがわからなくって」

 そう言ってから、母さんが手紙の裏に残していたパスワードを打ち込む。

 ガリガリというハードディスクの音が数秒してから、ようやくデスクトップの画面が表示された。ハードディスクは、アメリカまでの長旅も無事耐えてくれたようだ。

「でも、この間ふとパスワードが書いてある手紙を見つけてさ」

 自動でメーラーが立ち上がる。お目当てのメールは、消えることなく下書きフォルダに入っていた。

「母さんが、最期に書きかけたメールがここにあるんだ」

 そのメールを開く。表示された本文は、やっぱり僕と父さんのことを案ずるもの。

「母さんの具合は、急に悪くなったみたいでさ。母さんが亡くなった日にようやく具合がいつもより悪いな、って実感したみたい」

「そうだった、のか」

「だからだと思うんだけど、送信までできなかった……書きかけのメールが残ってたんだ。母さんが死んでしまう、数時間前の」

「何が……書いてあったんだ?」

「これは、僕が伝えるよりも父さんに直接読んで欲しいから……はい」

 画面に母さんのメールを表示したまま、父さんに渡した。

 さっと読んでしまえば、数秒で読み終わってしまうだろうメール。

「十二月、六日……午前十一時……本当、に……」

 父さんはそう言ったきり、言葉は発さなかった。

 それでも、あの短い書きかけのメールを読んでいるのは。そして何度も読み返しているのはわかる。

 体感時間で数分くらいだろうか。父さんは、顔を上げると虚空を見据えた。

 その目じりからは、こらえていたのだろう一筋の涙が流れるのが見えて。

「……少し、時間をくれないか」

「わかった」

 きっと今は、心が折れた後に風化してしまった色々な思い出と、記憶と向き合っているのだろう。それには、時間が必要だ。

 言いたいことはもう少しだけ残っているけど、今は……とりあえず、絶対に伝えたかった言葉を渡せただけで良しとしよう。

「このパソコン、借りてもいいか?」

「もちろん。パスワードは……スカイレーク、あっと、0805だよ、一応書いておくね」

 本来パスワードを書いておくのはセキュリティー的に褒められたものじゃないけど、インターネットにももう繋がっていない故人のパソコンだ。今更これを知られたところで悪さをする人はいないだろう。

 そのパスワードには、父さんが果たせなかった夢の名前が入っている。そうするようにお願いしたわけではないだろう。

 そのことに気付いたからか、父さんはもう一滴、涙を頬に走らせた。

「……もう時間だ。そろそろ戻りなさい」

「わかった」

 あと十分で午後のイベントの集合時間だ。さすがにこれに遅れるのはまずい。

 最終日までにもう一回話せるといいんだけど……今は、やっぱりやめておこう。

 立ち上がると、ドアへと向かう。

「弘治」

 その途中で、父さんに呼び止められた。

「ありがとう」

 次に掛けられた言葉は、感謝の言葉。

 それが聞けただけで、僕がここに来た理由の半分は果たせた気がした。

「『またね』、父さん」

 その言葉にどう返しても、なんだか押し付けがましくなってしまう気がする。

 だから、僕は自然と出た笑顔を父さんに見せてから、再会を願う別れの言葉だけを残してドアを開けた。

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