明晰夢
『いやよ!絶対、来年は
私が官吏に登用されれば、お母さん、もうあんな事しなくて良くなるんだから!』
凛とした黒髪の少女が声を張り上げている。
周りを見ると、家は質素という言葉すら遠いほどボロボロだ。土壁の一部が剥がれ、下の
(僕の村とは文化からして違うみたいだな)
2人は粗末な無地の
『私のことはいいのよ。ミンファが笑ってくれるだけで幸せだから』
『よくない! 全然よくない! 来年は絶対合格してみせるから。 お父さんが生きてた時のような生活に一緒に戻ろう』
バタンッ
母親が何かを言いかけた途端、薄い扉が荒く開けられる。
下卑た笑いを浮かべた男か入ってきた
『今日も頼むぞ。今すぐだ』
『今は娘と大事な話をしてまして、また後にしてもらえませんか?』
男は急に不機嫌そうな顔になる。
『お前のような年増を買ってやるだけ、ありがたいと思え!何なら娘の方でもいいぞ!』
嫌らしさが
『それだけは! 今すぐ、ご相手いたします』
ミンファと呼ばれる少女の目に
(本当に夢なのか?)
ミンファの感情が手に取るようにわかる。
むしろ自分の感情ではないかと錯覚するほどだ。
−−−−見えていた情景が霧散し、新しい情景へ変わる。
『お母さん、合格したよ! 私、官吏になれる!』
『おめ…でとう…』
先ほどは別人と言ってもいいほど
『お母さん、少し待ってて。支度金をもらったからお薬買ってくるね。<癒士>だって呼べる』
『薬より…。こんな服…じゃ当庁できない…でしょ』
『少しの我慢だよ! 流行病も薬があれば治るってわかってるんだから! 次のお給金まで待てばいいだけよ!』
『私…のことは…いいのよ。ミンファ…が笑…てくれるだけで…幸せ…だから』
『お母さんは待ってて!』
母親の言葉に取り合わず、ミンファは急いで薬を買いに出かける。
やっと幸せになれる。
昔の様に戻れる、という嬉しさでミンファの胸は張り裂けそうだった。
『売女の娘が官吏とは世も末だな』
『きっと、色目を使ったんだわ』
『父親のように不正に手を染めるのも時間の問題じゃな』
『田畑も与えられない様な重罪人の家が図々しい』
道行く途中、投げつけられる
(…この続きは見たくない)
ソリオンは初めて見るにも関わらず、そう思ってしまう。
町の薬屋で邪険にされながらも頼み込み、余り物の薬を売ってもらい、息を切らしながら帰る。
帰りの挨拶もせず、急いでドアを開けると同時に、母親へ声をかける。
『お母さん、早く飲んで!』
しかし母親からの返事はない。
『ねえ、お母さん。お母さん』
寝床まで近寄り、母親を揺さぶるが反応はない。
耳を母親の胸に当てるが、体へ血を巡らせるための鼓動が聞こえない。
頭が真っ白になる。
そこには冷たくなった母親の姿があった。
温もりはまだ少しだけ、本当に少しだけ残っていたが、
母親が先程まで生きていたという痕跡は、今にも消えてしまいそうだ。
『ねえ、お母さん。嘘でしょ? ねえ、やっと幸せになれるんだよ? お父さんの濡れ衣も晴らせるんだよ? また昔みたいに本当に笑える日来るんだよ? なんで?! ねえ、なんでよ??!!』
ミンファの目からは止めどなく涙が
(………)
ソリオンの胸に何とも形容し難い感情が流れ落ちていく。
−−−−再び、新しい情景が変わる。
少女だったミンファもすっかり
口の周りに濃い
『ミンファ先生、ありがとうございます』
若い女性が感謝を述べる。
『いえ、
ミンファは微笑で答える。
『そんな。村の者は皆感謝しております。 他の医者も薬師も
『それが仕事ですから』
『シェンレイ村長もミンファ先生へ、お詫びしたいと何度も言ってますよ』
『いえ、もう何度も謝ってもらいましたから』
ミンファは村に来た時のことを思い出す。
疫務官とは、未知の疾病が発生した際に、拡大を防ぎ、収める事を任された中級官吏である。
しかし、
疫病神そのものである。
未知の病や感染症を防ぐ手段と言っても、直ぐに治療法など見つからないことが
そのため取れる方法は、村単位での封鎖や患者の隔離となることが多い。
食糧や薬の備蓄には限度がある。そのため、村が外部との交易を封鎖されてしまえば、生活に
また、患者の隔離といえば聞こえは良いが、実際は手当もされずに町外れの
つまり、病に罹った者には死刑宣告に等しく、病に罹っていない者にとっても餓死を覚悟するものである。
ミンファが村へ来た時も、もちろん歓迎などはされなかった。
村の入り口で、病を患った家族を持つ村長が粗末な槍を持ち出してきたのだ。
この槍で
しかし、その時ミンファは
--皆を治してみせる、と。
『あの時はとても信じられませんでしたが、本当に治して下さるとは』
若い女性は、奇跡でも目の当たりにしたかの様に言う。
『私は疫務官でも変わり者ですからね。大半の疫務官は<癒士>や<活術士>ですが、私は<系譜>を持っていません』
『だから、あの様な方法を取られるのですね』
『ええ、40年近く自らを被験者として、辿り着いた方法です』
『なぜ、そこまでされるのですか? 助けていただいたことは感謝しかありませんが、最初は皆も
『そうですね。よく言われます。病に冒された方の血を飲むなど、狂っていると思われて仕方ありませんからね』
ミンファが行った治療法は信じられないものだった。
自らに感染させ、病原菌やウィルスに対する抗体を体内で作り出し、自らの血から生成した血清を投与する、というものだった。
『私、病が憎いんです』
笑顔でミンファは言う。
『母は流行り病で亡くなりました。母によく会いにきていた男に
『そんなことが…』
『だから、官吏になったときに誓ったんです。病をこの世から無くしてみせると。それが私が笑っていられる唯一の方法なんですよ』
『その…、それでもミンファ先生のお体は大丈夫なのですか?』
『ええ、魔力を使って免疫力を高めるために、あらゆる手を打っていますから。大半の病原菌は私の免疫力には勝てません。…やり方を教えても、真似できた人がいないことが残念ですが』
『魔力の微細な操作は、知識や経験にもとづく本人の感覚に依るものが多いですからね』
『そうですね』
ミンファは若い女性のお腹に聴診器の様なものを当てる。
『お腹の子は順調に育ってますね』
『ええ、この子の命も先生が救って下ったも同然です』
若い女性はお腹を
『昨日、主人と話したのですが、ミンファ先生からこの子に名前を与えてくださいませんか?』
『私には子どもはいませんから、子どもの名前など考えたことがありません』
『でも、先生が名付けてくれたら、この子も病気にならずに元気に育ちそうな気がします』
『名づけるくらいで病がなくなるなら、誰も苦労しません』
ミンファはやんわり断る。
『清潔な環境、十分な栄養、休息。そして、異変の兆候を見逃さないことが大事です』
『わかりました。でも、今すぐお返事を、とは言いません。この子が産まれるまで考えてみてください』
そう言うと、若い女性は深くお辞儀をして立ち去る。
女性が部屋を出ると、ミンファは項垂れるように机にうつ伏せる。
首筋には、汗が
ソリオンには、ミンファが感じている強い痛みが伝わっている。
(苦しそうだ…)
『感染症には勝てても、自分の細胞が変異する病気には勝てない…か』
ミンファば独りごちる。
日本の医学に照らして言えば骨腫瘍、つまり
全身の痛みを隠しながら、日々の診療に当たっていた。
『名前を与えるか…。
ミンファは一人、笑う。
『そうね。…病気にならないためにあげるなら、もっと価値のあるものがいいわ』
今まで先延ばしにていたことを、やるきっかけを得たと思う。
『どうせなら、私の人生の集大成をあげるわ』
そう言うと、静かに身の回りを整理整頓始める。整理と言っても、必要最小限の医療器具や実験器材があるだけだ。
丁寧に並べられた器具たちは、すぐ後任が来ても、そのまま使えるとすら思える。
ミンファは覚悟を決めたように、部屋の真ん中に立つ。
そして、
ミンファの凛とした中に、優しさが
(何が始まるんだ…)
魔法陣へ在らん限りの魔力を込める。
込められた魔力は、魔法陣の中心点へ限界まで凝縮されていく。
『クッ』
ミンファは苦悶の表情を浮かべる。
凝縮された過ぎた魔力が体を
それでもはやめることはない。
”ミンファ、苦しいのなら辞めてもいいのよ”
『決めたの。やめないわ』
”ミンファが笑ってくれるだけで幸せだから”
『お母さん、わかってる。私は笑い続けるために、やるの』
凝縮された尽くした魔力は、より大きな光となって放たれる。
次の瞬間、魔法陣の中心に集められた魔力がミンファの胸を貫く。
(え…?!)
ソリオンは何が起こったのか、わからなくなる。
パキィーーン
次の瞬間、魔力がミンファの体から溢れていく。
これまで魔力を感じることはあっても、目に見えたことはない。
だが、今ははっきり見える。
とても暖かい何かを魔力が包んでいるようだ。
溢れ出た魔力は、四方八方に飛び散り、壁や屋根をすり抜け、空へ舞い上がっていく。
『これで、皆も少しは笑っていられるかしらね』
ミンファはそのまま床に倒れ、動かなくなった。
−−−−
ソリオンの目が覚める。
家のベッドの上だ。
「今のは、何…?」
「キィ?」
イチが首をかしげている。
ソリオンは辺りを見回す。
まだ外は暗いが、白ばんだ
日の出前のようだ。
家の中は、特に変わった様子はない。
いつも通りの朝だ。
(苦しさを全く感じない!?)
先日までの苦しさが嘘のすっかり消えている。
「どうして…」
全く訳が分からないまま、ベッドから起き上がる。
ドアを開けて、部屋をでる。
部屋を出ると、居間のソファーで眠るシェーバとベビーベッドでスヤスヤと寝息を立てる妹イースの姿が見える。
ソリオンはシェーバの肩を優しく揺さぶる。
「母さん、こんな所で寝てると風邪引くよ」
ソリオンが声をかけると、シェーバが眠そうに目を擦りながら目を薄っすら開ける。
「…ソリオン?」
「うん。そうだよ。ちゃんとベッドで寝ないと駄目だよ」
一瞬、理解が追いつかない表情を浮かべたシェーバが、飛び跳ねる様に上半身を起こし、ソファーから落ちそうになる。
ソリオンは慌ててシェーバを支える。
「母さん、危ないよ」
「ソリオン! ソリオンなの?!」
「そうだよ、ずっと家にいたじゃないか」
「体は大丈夫なの!?」
「もうすっかり良くなったよ」
シェーバはソリオンを強く抱きしめて、笑いながら涙を流す。
その声を聞いた、ダトも急いで起きてきた。
「何が起きた!?」
「あなた! ソリオンが! ソリオンがぁ!」
ソリオンの困り果てた様な姿をみて、ダトも駆け寄る。
「ソリオン! 起きて大丈夫なのか?!」
「大丈夫だよ、父さん。目が覚めたらすっかり良くなってた」
ダトはソリオンの声を聞くと、
ソリオンを抱きしめるシェーバごと、大きな手で抱きしめる。
ダトの鼻を
「俺は…、俺はもう…。てっきり…。 テメロス様、ありがとうございます」
しばらく、両親に離してもらえなかったソリオンは、
明晰夢と病が消えたことが無関係とは思えず、謎の女性の生涯を思い返していた。
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