後宮に降る雨

在原小与

第1話 雨の後宮

 ――その日、雨が泣いた。


 今にも悲鳴を上げそうな嘆きの雫は、宮廷の西に位置する庭にも舞い落ちる。


 血のような赤梅が見事に咲き誇り、怪し気な美しさを見せるその庭の中央……。

 そこにある朱の橋の上で向かい合っている男女を、容赦なく雨が濡らしていた。

 女の細腕を掴み、じっと見つめる男の齢は二十ほど。


 歳の割に大人びた、落ちついた雰囲気を纏っているのは、遠くない未来、その肩に背負う重圧を感じてか。それとも、目の前にいる女を欲して、力を手に入れようと必死にもがいた証か。


 男が纏っている絹で織られた衣は、闇に溶け込むような漆黒。袖口と裾には金の刺繍が施されている。

 見るからに仕立ての良い上等な衣を身に付けている男は、数年後には、この黄犀国こうさいこくの皇帝となることが決まっていた。


 そんな男の手から逃げようともがいている女の眉間には、皺が寄っている。

 女は切れ長の涼やかな瞳を不愉快そうに吊り上げ、愛らしい唇を噛み締めながら、男を全身で拒絶していた。


 女は整った顔立ちと品のある佇まいとは裏腹に、粗末な衣を身に付けている。

 下働きを思わせる、出涸らしすら取れなくなった茶葉のようなごわごわとした衣は、雨で濡れる度に大きな染みを作り出す。


「いい加減、離して下さらない? もう私は必要ないはずよ。約束は果たしたわ」


 苛立ったように言い捨てると、女はため息を吐いた。

 雪のように凍てつく女のその声は、男が未来の皇帝陛下だとわかっているはずなのに、まるで気にしていない様子。傍に人がいたならば「不敬」だと叱責され罰を受けても仕方がない。


 それでも男は眉一つ動かさず動じなかった。


「行くな……。傍にいろ」


 対する男は、女の失礼な態度にも表情一つ変えない。それどころか、女が自分を見ているとわかると、どこか嬉しそうにも見える。


恵心けいしん……。無理なのよ、私は暁雨ぎょううの妹なの。同じ家から皇帝の傍に二人はいられない。それに、私はあなたを愛していない……。なによりも、私は自由が欲しい」


「愛していなくても良い。俺は夏雨かうと一緒に過ごしたい」


 夏雨の拒絶に恵心は何度も「それでも良い」と口にする。

 その度に、夏雨の表情は強張っていった。


「無理よ。私は暁雨を裏切れない。双子だもの……。それに、あなたは私を愛していない。あなたが欲しいのは、私のこの力でしょう? 私は、私を心から愛してくれる人と生きていきたい」


 そう言うと、恵心の顔が初めて歪んだ。途端に、掴まれている手に力がこもり、夏雨は痛みから顔を顰める。


「……誰にも渡さない。夏雨も、力も、それは俺のものだ」


 夏雨が痛みから何度も「手を離して」と懇願するが、怒りで我を忘れている恵心は気づかない。


「どうして、わかってくれないの」


 夏雨は何度も説得を試みる。

 自分は禁忌とされる双子の妹。それに、黄犀国の四大貴族、南方、朱家しゅけから二人も後宮に入ると、勢力図が変わってしまう。

 それは、いらぬ争いが起こるということ。


 四大貴族は平等であり続けなければならない。そう、古くから言われ続けている。

 なによりも、朱家からは夏雨の双子の姉、暁雨が恵心の側妃になることが決まっていた。

 なのに、恵心はさらに夏雨をも求める。


「……相変わらず自分勝手な人ね。そんな振る舞いが大嫌いよ」


 夏雨は声を震わせ、恵心を真っ直ぐに見つめた。


「夏雨……」


 懇願するように夏雨の頬に手を伸ばす恵心の瞳に、初めて切なさが混じるのを夏雨は感じた。

 だが、その想いに答える気はないと、夏雨は大きく息を吸い込んだ。そして、捕らわれていない手に気を練り上げる。


「……ごめんなさい。もう、自由にさせて」


 空が夏雨に呼応するように、さらに雨脚が強まった。

 お互いの声も掻き消される豪雨は視界をも奪う。その刹那、夏雨は力を行使した。


「――夏雨!」


 恵心の足元に溜まっていた水の滴は、その足に絡まり身体の自由を奪っていく。徐々に全身へと這い上がっていく気持ち悪さに、恵心の顔が強張っていく。


「……元気で。この国を導いて。正しい方向へと」


 ただの雨が浮き上がり、意思を持ったように舞い踊る。それは水の檻となり恵心の身体を拘束する。離された腕をさすりながら、夏雨は美しい笑みを浮かべた。



「さようなら、恵心」


 最後のその言葉に、恵心は必死に引き止める声をあげるが、雨音と共に、夏雨は姿を消した。

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