弟
三角海域
弟
あっけないな。
親父が死んだとき、まっさきに浮かんだそんな感情に、俺は驚きと恐ろしさを感じていた。
悲しみというものが、湧いてこなかった。
「大丈夫?」
そう声をかけてきた妻は、どうやら、悲しみで放心していると思ったらしく、心配そうにこちらを見ていた。
俺は、どう返していいかわからず、曖昧に微笑んだ。
通夜を終え、俺は外で一人煙草を吸っていた。
慌ただしく動いていたので、それらが落ち着いたことで、何かしらの感情の動きがあるかもしれないと思ったが、悲しみは相変わらず湧いてこず、また、あっけないな、というどこか他人めいた感情ももう湧いてはこなかった。
じゃあ、この妙な心の重みはなんなのか。
「大丈夫?」
妻が隣に立ち、親父が死んだ時と同じ言葉を俺に投げかける。
「ああ。いろいろありがとう」
今度は、ちゃんと言葉が出てくる。だが、自分が発したその言葉は、妙にむなしく感じられた。
「本当にいいの? 私も一緒に残っても……」
通夜の後、家族は一晩会場に残ることも出来た。最近は任意であるらしく、無理に残らなくてもいいのだというが、俺は残ることにした。
「平気だよ。それに、なんだか一人でいたい気分なんだ。ごめんな、わがまま言って」
妻は首を横に振り、そっと俺の肩に手を置き、通夜の会場へ戻っていった。
空を見上げ、大きく煙草の煙を吸い込む。
むせかえり、ちかちかとした視界に、誰かの後ろ姿が見えた。
親父?
いや、違う。
そうか、俺は、あいつに会いたいんだな。
家を出て行った、あいつに。
俺の、弟に。
「雅人さん、結局来なかったね」
「ああ。気まぐれな奴だから」
雅人。俺の弟は、高校卒業と共に家を出て行った。
いつも遠くを見ているようで、一緒にいても、どこかその存在を遠くに感じていたが、本当に遠くへ行くとは思わなかった。
今でも、俺とだけはメールでやり取りしており、時々ではあるが互いのことを報告しあっていた。雅人は、三か月連絡をよこさない時もあれば、一週間ごとに連絡をよこすこともある。メールでもその気まぐれさは変わらない。大体はこちらの質問に答えてくれたが、どこにいるのかという質問にだけはいつも答えなかった。
親父が体調を崩した時も、そろそろ危ないという時も、亡くなった時も、通夜の日取りが決まった時も、俺はそれを雅人に報告していたが、返信はなかった。
時々、俺は雅人とのやりとりを思い出す。
「兄貴は、どっかいきたいとかないの?」
「どっかって?」
「どこでもいいよ。アメリカでも、隣町のゲーセンでも」
「差がありすぎるだろ」
「場所っていうか、兄貴が何処に行きたいかが大切なんだよ」
「なんだそれ」
哲学的というか、直感的というか。とにかく、考えてるんだか考えてないんだか、よくわからない奴だった。
そんな雅人は、真面目な親父からしてみれば、不良のように感じられたのかもしれない。
親父はいつも、先のことを考えろと言っていた。
雅人はいつも、人には今しかないと言っていた。
俺はどちらも正しく思えた。
どちらの側でもない。中途半端な立ち位置。
良い息子であり、良い兄貴でありたかった。
「じゃあ、明日、朝一で来るから」
妻の声が、俺を今に引き戻す。
「ありがとう。ゆっくり休んで」
「そっちこそ」
妻を見送り、俺は会場に用意された宿泊用の部屋に向かう。
椅子に腰掛けると、疲れが一気に体にまとわりついてきた。
葬式の準備が忙しかったからとか、そういうことではないと思う。
俺は、どこに行きたいんだろうな、雅人。
目を閉じると、少しずつ意識が遠のいていった。
目が覚めると、もう夜中の二時を過ぎていた。
着替えて、シャワーを浴びないと。そう思い、重い体を持ち上げ、ネクタイを外した時だった。
携帯に、通知マークがついていた。
それは、雅人からの連絡だった。
〈泊まり?〉
一言、そう書かれていた。
まるで、俺が一人で会場に残ることを知っていたかのように。いや、それは考えすぎか?
〈返信遅くなって悪い。会場に泊ってる〉
もう返ってこないかと思ったが、すぐにメッセージが飛んでくる。
〈いまさ、会場のすぐ近くのコンビニにいるんだけど、会わない?〉
深夜のコンビニの光を背にして立つ雅人は、あの頃とほとんど変わっていないように見えた。
「久しぶり」
「ああ、久しぶり」
「親父、亡くなったんだよね?」
「ああ」
「そっか。変わらずだった? 俺が出て行った後も」
「ああ。お前はちゃんとしろって言われ続けてきた。けど、歳とったらだいぶ丸くなった」
「あの親父が? へえ。じゃあ、俺ももう少し歳とったら、落ちつくのかな」
「無理だろ」
「だよね」
俺たちは笑い合う。あの頃と、変わらずに。
「兄貴、老けたね」
「そりゃ、何十年ぶりに会えばな」
「文面だけだと、あんまし変わってないように見えたから」
「そんなことないよ。お前は変わんないな」
「そう? 白髪も増えたよ」
「その程度だろ」
「かもね」
「この後どうするんだ。告別式に出る気はないんだろ? 親父の顔だけでも見ていくか?」
「いや、帰るよ。久しぶりに兄貴に会いに来たってだけだから」
どこに? と訊きかけたが、やめた。答えないのはわかっている。それなのに、どうして、訊こうと思ったんだろうか。
「そうか。じゃあ、また。ちゃんと連絡よこせよ」
「わかった。兄貴も、体に気を付けて」
「お前こそ」
雅人に背を向け、俺は会場へと戻る。コンビニの明かりが遠ざかると、体の重みが少しずつぶり返してきた。
「兄貴」
雅人の声が響く。
振り返ると、光を背に、雅人が笑っている。
「俺はさ、兄貴が死んだら、泣くよ」
それだけ言い、雅人は背を向け、夜の闇の中へ消えていった。
俺はしばらくその場に立ち尽くし、それから大きく息を吐き出した。
戻ろう。
歩き始めると、夜はそこまで闇に包まれていないことに気が付いた。
そして、体にまとわりついていた重みも、もうなくなっていた。
弟 三角海域 @sankakukaiiki
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