第二章ー6 『久しぶりに』
⚫『久しぶりに』
「──ってことがあって」
その日の夜の教室。正太は菅原とのトラブルをいの一番に報告したのだが。
「ふうん。楽しそうなことやってるわね」
「全然楽しくねえよ!」
「その『夜』モードで挑発したから、問題が大きくなったんじゃない?」
「そんなはずない……」
と言いたいが、最後にケンカを売ったのは自分だった気もする。
本気の勉強を始めただけなのに、余計なイベントが発生しすぎではないか……。
「どのみち次の中間テストで五番以内に入るには、菅原君にも勝たないといけないでしょ? 彼はどれくらいの順位?」
「……『学年十番台で~』とか大声で自慢しているのを、聞いたことがある……かも」
「悠々飛び越えなければいけない壁、ということね」
そう言われると、己が挑んでいる壁の高さをまた感じさせられる。
「それより
「……ああ、そうか。迎えに行ってくるよ」
今日は、特別なイベントが控えている。
数日前、
「──夜の勉強帰りに警察に補導されるのが心配、か。勝手にしろ」
妙案がないか助けを求めたのに、ばっさり切り捨てられた。
「その程度のリスク、夜の教室に不法侵入している時点で覚悟はしてるはず。学校内はわたしがなんとかするけど、外は知らない。あ、監督責任問題だけはご免だから」
ここまではっきり線を引かれるといっそ
「……だから塾に通おうかと思っていて。自習室があれば、いいわけにも使えるかなと」
「ふうん。しかしそんな使い方ができる塾なんて、近くにある?」
「アテがあるんですよ。昔この学校にいた
唐突に、海老名の顔色が変わる。
「もしかして……南雲
「あ、知ってます?」
それもそうか。海老名は正太が一年生の頃も英語を担当していた。
「詳しく聞かせて」と前のめりになった海老名に対して、南雲と夜に出会った話をした。
話に一区切りがつくと、海老名はじっと考え込んでから、口を開いた。
「……塾に通うのはいいとして。塾側に黙って、夜の教室の
「あ、ありがとうございます?」
急にどうしたのだろう。態度がさっきと百八十度違う。
「ただし、一つだけ条件がある──」
二十時半の、国道沿い。
「おーっす、夕方ぶり!」
道路と歩道を隔てるガードパイプに腰かけていた少女が、ぴょんと飛び降りる。
特徴的なピンクブラウンの髪。太陽みたいに真っ赤なシュシュ。ショートパンツにざっくりラフで露出の多い
街灯と、飲食店の
「なんか悪いねー! 現地集合でもよかったんだけどねー」
南雲は太陽みたいに明るく笑う。
「でもまあ……ほら、入り方もあるし」
「おう、そうだそうだ! 教えてくださいよ~、センパイ!」
正太と南雲は夜道を歩き出す。
はっきり言って、動機が不明だ。聞いても『わからなくていい。あと、本人が来たくなければ無理する必要はないから』と言うだけで、詳細を教えてくれない。
「この道、懐かし~! 学校以外なんもないから、登下校ないと通らないよね」
南雲はただ道を歩いているだけなのに、テンションが高い。
学校をひさびさに訪れる卒業生みたいなノリである。
その横顔は、初めて会った時の明るくはつらつとしたものだ。
──
今日は話すのも難しいか……と思ったら、南雲はすぐ元気を取り戻した。
それならと正太も、絶対秘密と約束をした上で『夜の教室へ来てみないか』という話をしたのである。部外者に話して大丈夫かと思ったが、これも海老名の指示だ。
すると南雲は『夜の教室でこっそり勉強してる!? 超楽しそうなことやってるじゃん!?』とすぐに乗ってきた。
「こっから入ってんの? 意外と大胆~」
「でも見通しがよくて誰か来ればすぐわかるし、門の持ち手に足をかければ……」
正太が裏門からひらりと学校敷地内に侵入する。
「お~」と南雲が拍手する。なんか照れる。
続いて南雲もひょいと門を乗り越え、地面に着地する。
「ふへへ~、不法侵入~!」
学校に対して嫌なイメージを持っていないだろうか、というのは気にしていた。
しかし少なくとも表面上は、南雲は夜の学校を楽しんでいた。
三年一組の教室に入ると、クラッカーが鳴った。
それと同時に、電気が点灯して目の前が白く、明るくなる。
「ようこそ、夜の教室へ!」
普段は静かに机で勉強をして正太を待っている
それだけじゃなくて。
「……ってなにそのパーティーメガネと
月森の仮装に南雲は腹を抱える。
「あはははは!
南雲の反応に、月森がほくほく顔になっていた。
「……どこかの鈍感男とは違うわね」となじるように言われた。
満足したらしい月森はすぐに仮装をやめて、制服姿になる。
「
「特に決まりはないわよ。夜だもの」
「だよねー! そもそもあたしが制服着るとコスプレになっちゃうし!」
おいここ笑うところだぞ~、と
「いやこの教室の感じ久しぶりだな~! あ、そうそう! 椅子と机、こんなんだった!」
南雲は席について、黒板を眺める。
「こうやって授業受けてたんだよなぁ……」
懐かしそうにつぶやいてから、南雲は正太たちに向き直った。
「で、ここに来てあたしはなにをすればいいんだっけ?」
正太と
「特になにを、とかはなくて」「言われたのはいつもどおりにしなさい、だったわ」
「えぇ……? 招待されて来てるのに、イベントなし?」
南雲が戸惑うのも無理はない。
「……
「よく英語準備室にいるんだけど、今日はいないみたいよ」
ますますどうしたらいいか困ってしまった。
「そんじゃ普段の勉強の……見学でもさせてもらおうかな? ていうか、真嶋の
「プ、プレッシャーを余計にかけるのはやめてくれ」
「だって真嶋があいつを負かしてくれないと! 塾の名誉も懸かってるんだよ!?」
「まだ通ってもないのに……」
塾としてケンカを売ったのは南雲のはずだ。腹を立てる気持ちはよくわかるが……。
「名誉塾生だよ! これから通うし! 特待生扱いにしていいかは、あたしのチェックもあるからねー!」
正太は勉強を始める。他人の目があるおかげでいつもより緊張感がある。
まずはプリントを使った計算練習に取り組む。ウォームアップに毎日やっている。
それから数学の参考書に向かう。今は問題を見て、すぐ解答方針が立つか確認する、暗記のフェーズだ。
「……なんか、変わった勉強の仕方してる? さくさくページ進めてるけど」
「私から説明しましょうか」
南雲と月森が会話する横で、勉強を続ける。
──受験数学は暗記で戦える。文系なら五百~六百くらいのパターンで基本問題には十分対応できるはず。
──受験数学力について分解すれば、一『解法パターンの暗記』、二『どの解法パターンかを見極める能力』、三『単純計算力』になるわ。
──計算練習は三『単純計算力』を、今の参考書学習は一『解法パターンの暗記』を鍛えるための勉強ね。
──一『解法パターンの暗記』は覚えてしまえばおしまい。三『単純計算力』は取りこぼしをなくすためのもの。受験数学の学力を分けるものは、二『どの解法パターンかを見極める能力』になるわ。
──そもそも高校生に新しい解法パターンを編み出すことなんて求められてないわ。すべての問題には元となる『解法パターン』が存在する。ただどれを使えばいいかわからない。見極めるのが困難になる細工をしてある。これが、問題の難易度よ。
──この視点を持っていれば、数学の問題に取り組む際の解像度が上がるわ。つまり問題を間違えた時、『解法パターンをそもそも知らなかったのか』『解法パターンを見極められなかったのか』『計算力の不足か』判断できる。理由を分解せずに『間違えた』『正解をした』とだけ採点をしても、次のアクションにつながらないわ。
──間違いを恐れたり、直視しない人がいるけれど、それは大きな誤りね。テスト本番でなければどれだけ間違ってもいいんだから。本番で正答するために今どうするか。その科目で必要とされる能力の分解と、分解した要素ごとの特訓。これが受験勉強よ。
「なるほど……。難易度の調整がどこでされているのか……って観点はなかったなー」
感心した様子の
区切りのいいところだったので顔を上げたら、南雲と目が合った。
「……これ、チェックが何回かついてるから、何周かしてる?」
「ああ、そうだな。一度間違ったら×。次も間違ったら××。って。何回も間違って恥ずかしいんだが……」
「いや、完璧になるまで全部やってる、ってことだよね」
「そういうものだろ? ……って、
「それがなかなかできないもんなんだよ。ついつい次の難しい問題集やらなきゃって焦っちゃうんだよねー、普通は。地に足着けるその自信……どこからきてるの?」
「自信っていうか、俺は月森に言われたとおりにやっていて……」
「愛だな、それは」
「愛っていうか……」
「照れるなよー! あ、でもまだそういう関係じゃないんだもんね。受験期はお預けだもんね、はいはい」
南雲は勝手な想像をしていたが、間違っても『愛』ではない。
むしろ、それとは真逆のものだ。
……だが真逆ということは、
「東大を目指しているから、こっそり夜の教室を使わせてもらっているんだよね」
「そうだな。あ、他の人には秘密だぞ」
「わかってるよ。……東大ってバカ高い目標に向かってるのに、焦らず一歩一歩階段を上れる粘り強さはねー、なかなか持てないんだよ。って、お父さんがよく嘆いてる」
「勉強って、スタンプラリーだから。どんな簡単なチェックポイントでも省略せずに、一個一個ちゃんと押していかなきゃいけないからさー。漏れがあると、結局ゴールまで積み上がらないんだよ。それを着実に遂行できるなら、
顔を正面に戻した南雲が「あ、ただのお父さんの受け売りね!」と、顔の前で手を振る。
「南雲さん、本当に詳しいわね」
「『南雲さん』じゃなくて、
「ああごめん……美空」
「てか灯が詳しいとか言う~!? 頭いい人って『できるものはできる』って感じで人に教えるの苦手なパターン多いのに、めちゃくちゃ理論化してるし!」
「俺も、南雲がすごい詳しいなって思うよ。受験生の俺より詳しいくらいだし……」
「美空は受験するの?」
月森が尋ねて、ああそうかと
「……いやいやあたしは、高卒認定は取ってるけど……。でも……もうドロップアウトした人間だから」
へらっと南雲は笑う。
「大学受験資格のために、取ったんじゃないの?」
「いやー、高校卒業程度の学力証明はあった方がいいでしょって話だよ。あたしもう社会に出てるわけだからさー。ま、ただの家の手伝いだけど」
本人は気づいているだろうか。先ほどからずっと、南雲は目を合わせようとしない。
カンニング騒動があって、退学して、高卒認定を取って。なにもなければ受験生の年齢になった。それで思うところがないのは、
まだ短い付き合いだった。でもカンニング騒動は
どこまで踏み込んでいいかはわからないが。
「家が塾を経営しているんだろ? そこで勉強をすることもできるんじゃないのか」
「両親離婚してんだよねー、ウチ」
ばさりと予期せぬ角度から切りつけられて、正太は言葉を継げなくなる。
月森も一瞬なにかを言いかけたが、口をつぐんだ。
「ゴメンゴメン、急にぶっ込んじゃって。重いわけじゃないから。あたしはお母さんのうどん屋も手伝ってるし、お父さんの塾にもかかわってる。とにかく良好な関係だから」
南雲が早口で続ける。
「まあ、だから、色々忙しいわけだ。ってことで、あたしには地元から東大を目指す二人を応援させてよ! 塾の方もだし、うどんの出前で後方支援もしちゃおっかなー」
話題をうまくそらされてしまった気もした。
「挑戦する人間を笑うような、あんな
「いや、全然」と
「……なんで? 普通そうならない?」
「そもそも東大を目指すって、周りの誰にも言ってないし」
「誰にも、ってどういうこと?」
「学校には志望校『東京大学』で出してるよ。でも
「え、仲いい友だちにも? ……なのに、こんなに勉強を頑張ってるの? でも頑張ってるなら……ちゃんと周りにもわかってほしくならない?」
南雲は心底『理解できない』と言いたげな顔をしている。
「そもそも俺が……自分の限界に挑戦したいからやっていることで。その努力を自分が知っていれば、別に他の人はどうでも……。……いや、一人くらいには知っておいてほしいけど」
「あ、それが……」
南雲の視線が月森へと向かう。
「……やっぱり愛だ」
「だから違うぞ」と否定しても、南雲は「わーかってる、わーかってるよ」と言いながらうんうんと
「でもまあ……それも一つか。あたしなんて周りの誰かに言わないと、すぐ決意が揺らいでサボっちゃいそうだけど」
「……そうか?」
その気持ちは、正太にはわからなかった。
「一人の方が努力しやすいな、俺は」
「いや絶対おかしいよ! ねえ、
「どう、かな?」
月森はどちらの味方もしない。だから正太も続けて言えた。
「周りの目がある方が……左右されそうな気がするんだ。あるだろ、『その人の相応』みたいな基準が」
放っておいても勝手に生まれる、目には見えない『分相応』の基準。
「そこからズレると、色々と問題も起こる」
世界はそういう風に造られている。
「だから逆に、それこそ夜の方が、自分のやりたいことを自由にできる気がするんだ。だって夜は誰にも邪魔されない。一人でいられるんだから」
「……一人の、夜の、努力」
「
南雲は席を立つと、教室に並ぶ机に触れながら前方へ歩いていく。
「今日、久しぶりに学校に来てさ。どう思うかなー、って自分でもちょっと楽しみで、でも半分は……不安もあったんだ」
背を向けている南雲の、今の表情は
「でも来てみて、よかったよ」
私服姿の元・生徒が、夜の教室の教壇に立つ。
にっ、と白い歯を見せる。
「……って思えるのも、夜だからかな?」
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