第一章ー5 『夜の勉強会』

⚫『夜の勉強会』


 ──じゃあ一緒に勉強してみる?

 そんなバカなと正太が素直に信じないでいると、なぜか月森から提案された。

 学校の教室で同級生に「一緒に勉強をしないか」と誘われる。それ自体におかしなところはない。

 太陽が沈んだ時間帯である、という点を除けば。

「せっかくだから、夜らしい勉強の仕方をしよっか」とつきもりは教室を出て、すぐになにやら持って戻ってきた。

 月森はいそいそと机を横並びで三つくっつけて、真ん中の机にポテトチップスの袋をパーティー開けする。しようたの前にコーラが置かれる。

「……勉強じゃなくないか?」

「勉強よ」

 月森は箸でポテチをぱりぱりとつまむ。お箸どうぞ、と正太も手渡される。

 そのまま月森はコーラを飲みながら教科書を読み始めた。

「……いや、違うだろ」

「BGMが必要だった?」

「ますます勉強じゃないな!」

 月森がスマホを操作し、ポータブルスピーカーからラジオが流れてきた。

「あ、間違えた──」

「これ聴いてる!?」

 正太は思わず立ち上がった。

「急にテンション高いわね」

「ごめん、つい。好きな深夜ラジオだったから……」

 同志がいたのかとつい深夜ノリが漏れた。

「こういうの好きなのね。私は、お笑いとかわからなくて」

 今度は静かなジャズが流れてくる。

「でも、面白いとは思うわ」

「じゃあ今度俺のおすすめを……。じゃなくて、月森は……勉強中にお菓子を食べたり音楽流したりしてるのか?」

「しない?」

「こんな不真面目な勉強、したことない」

「全然、不真面目じゃないわ。エネルギー補給は脳に必要だし、人がいる空間ではほどよい環境音があった方が『音のマスキング効果』で集中できるし」

「……マスキング効果?」

「二つの音が同時に聞こえる時、片方が遮蔽されて聞こえなくなる効果のことよ」

 学年一の秀才が言うと、妙に説得力がある。

「もちろん食べっぱなしはよくないけど、適度に勉強とは異なる刺激を脳に与えることで、集中力の持続にもつながる」

「なるほど……」

「というのはほとんど方便で、正直食べたいから食べて飲みたいから飲んでいるだけね」

「おい!」

「夜に間食はしない派だった?」

『夜の息継ぎ』時間には、一人でたっぷり楽しませてもらっている。

 だが学校では、真面目で

 なぜだ? ──そこが昼の世界だからだ。

 でも今は? ──夜だ。

 判断基準が狂っている。でも夜だからいいのか。

 しようたはペットボトルのキャップをひねって、開けた。ぐいとコーラを流し込む。

 シュワシュワと炭酸がはじけて、口いっぱいに甘さが広がった。

 なぜだろう、夜の教室で飲む炭酸は、一人家で飲む時よりもおいしく感じる。

 ポテチをつまむ。

 他に誰もいない二人だけの教室が、気を大きくさせる。

「……甘いものもほしくなるな」

「しょっぱいのと甘いのを交互にいただく無限コンボ……欲張りね、じま君。チョコレートを溶かして、焼きマシュマロのチョコフォンデュとかどう?」

 つきもりが椅子から腰を浮かせる。

「想像しただけで超いいけど! でもまた机を汚しそうだからやめよう!」

 その前に道具と材料がそろっている前提なのはどういうことだ。


「勉強道具、なにか置いて帰ってないの?」

「……全部持ち帰ってる」

「真面目ね」

「そうだよな! 月森も認めるくらいに、真面目だよな? フフフ」

「笑顔が怖いけど……」こわった顔の月森は「教科書でも読む?」と世界史の教科書を貸してくれた。

 どうしてこんな流れになっているのか。混迷が極まったまま、正太は夜の教室で教科書を手に取る。

 適当に開くと、古代ローマのページだった。開いたからには読んでみる。

 当時イタリア半島を統一した共和制ローマは、さらなる拡大を目指していた。

 そんな彼らの前に立ち塞がったのは、アフリカ大陸北岸の都市国家、カルタゴだ。

 特に第二次ポエニ戦争で名をせたのは『雷光』とも呼ばれたカルタゴの将軍、ハンニバル。

 彼は当時絶対に不可能と言われたアルプス山脈越えを、三十七頭の戦象を引き連れて遂行し、ローマへの奇襲を成功させる。

 頭の中で妄想が広がる。そびえ立つ万年雪に覆われたアルプス山脈。誰もがちゆうちよする山道を進む大軍。強烈なカリスマ性を備えた『軍神』ハンニバルは、多大な犠牲を払いながらついに雪山の踏破を成し遂げる。突如現れた軍隊にきようがくするローマ軍。混乱。雪をかぶった兵士たちが猛然とローマ兵へ襲いかかる。激突。戦象が巨大な足で敵を蹴散らす。たけびと共に戦士たちは剣ややりを振るう。敵をほふる。

 圧勝したカルタゴ軍。しかし今度は、ローマの天才将軍スキピオが現れて形勢は逆転していく──。

 不意に、我に返った。

 教科書を読んでいたはずが、妄想に浸っていた。

 ローマとカルタゴの戦いに大した行数は割かれていない。教科書の文字から、頭の中で勝手なストーリーを展開させてしまった。スキピオを『天才』だなんて書いていないのに。でも流れ的には、そうあるべきだと思った。

 無機質な文字の羅列から、躍動する戦士たちの姿を見た──こんな経験、今までにない。

 まるで夜に小説を読んでいるか、ゲームをしているかのように。なぜ? いや、そうか。

『夜の息継ぎ』時間中だからか。

 教科書を読んでいても、これは勉強じゃない。自由な時間だと思っているから、妄想遊びが始まる。

 勉強だと思わなければ教科書の読み方がまったく変わった。

「……おもしれえな」

 世界史の勉強はつまらなくても、世界史ってもの自体は、興味深いものなのかもしれない。そんなことを思った。

「なにか面白いことあった?」

 一人の気分になってしまった。教室なのに。隣に人がいるのに。夜のせいで、調子が狂い続けている。

「いや……。つきもり……これ結構読み込んでる?」

 世界史の教科書にくたびれた使用感があった。

「精読はそこまで多くないわよ。でも流し読みだったら……数え切れないくらい?」

「か、数え切れないくらい?」

 学校じゃ、まだ最後まで授業が進んですらいないのに。

「世界史は流れが重要だから。精読をしてから、あとは速読のつもりでざっと繰り返し読み込むとほとんど内容が頭に入るものだし」

「……夜にそこまで勉強してるなら、学年一位も納得だ。なんかとは違うわけだ……」

 未履修範囲を先取りできる理解力も、勉強を繰り返せる集中力も段違いだ。

じま君、ちょっと気になるんだけど」

「ん?」

「いつもそんなしやべかたをしてた?」

 問われて、息をむ。

「ごめん。なんで普段の喋り方を知っているのか、気になるよね。私、よく眠ってはいても、たまに半覚醒の時もあって。なんとなくだけど誰がどんな子か予測して、頭の中でみんなと友だちシミュレーションしてるから」

「……友だちシミュレーション?」

 残念ワード臭に引っかかってしまう。

「……さ、最後のは忘れて。シミュレーションの話は余計だった」

 こほん、とつきもりせきばらいをする。

「とにかくじま君。……今日はなにかキャラが、違わない?」

 キャラが違う。そうだ。確かに、今は夜だから。

「……は」

「それ。一人称も、違うわよね。あと普段は女子も『さん』付けな気がして……」

「……僕……いや俺は夜だと、こうなるんだ。この話し方が、素なんだ」

 墓穴を掘りすぎているし、どうせ取り繕えそうにないと観念した。

「日中の学校では『僕』って言っている。これも猫かぶっているわけでも、意識して作っているわけでもない。どっちも素なんだよ、本当に」

 無理をしているわけじゃない。

「でも昼間が終わって、夜一人で家にいる時は、夜のキャラになる。内弁慶なのかなって思ってたけど……どうも夜だったら学校でもキャラが変わる、『夜弁慶』みたいだ」

「初耳ワードね」

「俺も初めて言った」

 月森は真面目な顔で「ふむ」と一つうなずいた。

「真嶋君もなかなか危ないわね」

「それでも月森のヤバさとイタさにはかなわないと思う」

「ヤバいはいいけどイタいは言いっこなしじゃない? ねえ?」

「基準はわからんが」

 今はこうやってしやべる方がしっくりくる。『夜の息継ぎ』用に切り替え済みの心は、昼間用には戻らない。

「……変だよな」

 うまく使い分けられないのは、異常だ。

「本当に演じているわけじゃないんだよ。昼間は『真面目にやらなきゃ』とは思っている。でもそれくらいで。夜は一人で羽目を外すつもりでいるから、こんな感じになって……」

 まさか誰にも見られるはずのない夜の姿を、クラスメイトに知られるなんて。ドン引きされて当然だろう。

「いいんじゃない? だって夜は、自由な時間でしょ」

 開いている窓から夜風が吹き込み、カーテンが舞った。

 窓の外には静かな夜空が広がっている。

 夜をバックに微笑ほほえむ月森の言葉は、驚くほどすんなりしようたの心に入り込んだ。

「そうか……そうだよな! 夜だもんな!」

「また急にテンション上がった」

 思わずしようたは席を立っていた。「ごめん」

「だから、いいわよ。夜なんだから」

 共犯者の間にだけ交わされるようなひそやかな笑みをつきもりが浮かべる。

 夜はすべてを許される気がする。

 言葉にすると陳腐になるこの不思議な感覚を、月森も抱いているんじゃないかと思えた。

 一人の『夜の息継ぎ』が好きだった。

 でも誰かが隣で共感してくれる夜も、悪くはない。


「勉強しているのはわかったけど、なぜ夜の学校にいるのか理由を聞いていない!」

 なんだかんだとはぐらかされてしまっている気がする。

じま君、満月の夜に性欲が高まるのって本当かな? ちなみに今日の月は……」

「どうかな? 見てみよう」席を立ったところではたと気づく。「……されないぞ」

「成功しそうじゃなかった?」

 まさか。夜でテンションがおかしくても、そこまでバカにはならない。

「教えてもいいけど。聞くと、私の秘密に足を踏み入れることになる」

 冷たい氷のような、青みがかった瞳が正太を捉える。

「その覚悟、ある?」

 真顔になった月森には、すごみがある。

「踏み入れたら……どうなるんだ?」

「真嶋君も、自分が夜弁慶になった理由やきっかけ、教えてくれる? つまりはそういう秘密の交換になるということ。それならお互いに、安易に言いふらせないでしょ」

 本当は人に教えたくない、ということか。

「夜の教室に侵入しているのはお互い様だし」

「……だけど俺が学校に来ることになったのは、月森のせいだ」

「…………そうだった。負い目があるわ」

 キメ顔のまま、間抜けなことを言っていた。

「じゃあもう明かすけど」

「いいんだ」

 一呼吸置いて、月森は話し始める。

「私はよ。逆に夜は眠ることができない。睡眠障害の一種なんだけれど……夜の不眠症、もしくは昼夜逆転症という表現でもいいかもしれない」

 それはまったく、想定をしていなくて。

「生活リズムの崩れでも起こる、世の中にはあるといえばある症状ね。私の場合は期間が長くて、かれこれ三年間くらい?」

 なんと返していいのかわからなくなる。

「ああ、心配はしなくていいわ。ちゃんとお医者さんにもかかって治療もしているし。まあ、うまくいっていないのは認めるわ。ただ一生このままではなくて、環境や生活の変化、あとは単純に年齢を重ねればいつか治るって言われている」

 クラスメイトのことをなに一つ知らず、知ろうともしなかった。

「昼間学校で寝てばっかで勉強しないで、逆に夜は寝られないし。じゃあ夜は学校に来て勉強でもするか、というお話」

 あまつさえ、勝手に理解を拒否していた。

「俺は……そんなことまったく知らずに」

「言っていないのだから、知らなくて当然でしょ。それに、同情は不要よ。不治の病でもないのだから、今は付き合って……治るのを待つだけよ」

 重くなった空気を察したのだろうか。

「クラスで知っているの、じま君だけよ?」

 髪をかきあげながら、つきもりは花咲くように破顔した。耳元の三日月形ピアスがきらめく。

 今の月森にかけるべき適切な言葉が、しようたには思いつかない。

「うちの父親が……学歴コンプレックスを持っていて」

 だから自分にできるのは、誰にも明かした経験のない秘密をさらすことだけだ。

「東京大学を目指していたんだ。で、結局浪人しても受験に失敗して。こじらせちゃって、いまだに一人東京で夢を追いかけるのをやめないんだ。失敗しまくってるのに」

「……夢を追うことは、いいことじゃないの?」

 そっとうかがうように、月森は質問を挟む。

「家族に迷惑をかけてもか? 母親の夜の仕事がなきゃ家計も回らない」

 正太は苦笑しながら続ける。

「だからうちの母親がうるさいんだよ。『分相応に生きろ』って。俺もまったくそのとおりだと思う。だから昼の間は意識して真面目に生きているんだ。さっきも言ったけど、無理な演技はしてない。自然と『僕』とか言っちゃってはいるけど」

 そもそも自分は、真面目に生きる道に勝ち筋をいだしている。

 才能のない自分は、身の程をわきまえることで着実な成功をつかむ。それがコストパフォーマンス的にも優れた、自分にとって最良の幸せを得られる選択だと思っている。

「昼の時間が終わったら、気分転換に羽目を外してやろうって、そうしたら今みたいな感じになるんだ。どっちがうそとか本物とかじゃなく、どっちも俺なんだと思う」

 人前の自分と、内なる自分に差異がある人間なんて大勢いる。

 正太の場合はそれが『昼』と『夜』で多少大げさに分かれるだけだ。

「というのが……俺の夜弁慶の理由、かな」

 一息にしやべり終えてから、目を合わせられなかった月森の反応を窺う。

 月森は表情一つ変えていなくて、そのことがなによりうれしかった。

 なにを求めているわけでもないのだ。

 お互いに夜の秘密は知っても、余計なもう一歩は踏み込まない。これがなによりも大事だと今思う。

 ──だから後から振り返れば、つきもりの言葉は、ただ話題を変えるつもりの発言だったはずだ。

「じゃあ今、じま君は東大を目指しているの?」

 ……なにを言っているんだ?

「俺が? まさか」

 思わずしようたは吹き出す。

 東京大学とは、日本の最高峰の大学だ。

 当然集まるのは、同年代で最高の頭脳を持つ者ばかりだ。

 もちろん東大に行く人間なんて、どこにでもいることくらい知っている。

 もしかしたら、月森みたいな天才はこんな地方の公立校からでも行くのかもな。

 でも月森という例外を除く、九十九%のそれ以外の者たちが、東大に入れることなんてないんだ。

「でも、普段とても真面目に勉強をしているのを知っているから」

「いやいやいや! だとしても、俺には全然才能がないから」

 そして月森は、台詞せりふを口にする。

「才能がなくても東大には入れるわ」

 急に耳のうしろ辺りがかっと熱くなった。血がどくどくと、駆け巡ったかのように。

「──真嶋君なら、いや、誰でも努力さえすれば──」

 他にもなにか言っていたかもしれない。でも正常に言葉が耳に入らなくなっていた。

「適当なこと言うなよっっ!」

 正太の叫びが、二人しかいない教室の中に反響する。

「なにが俺でも東大だよ……。人の才能の程度も知らないで……」

 誰でもなんて、言うな。それは絶対に、うそだ。

「……ごめん。少し無神経だったかもしれない。言いたかったのは、努力をすれば──」

「なんの根拠があって月森が言ってるんだよ!?」

「だって私は、東大に合格するから」

 東大を目指しているから、でもなければ。

 東大に詳しいから、でもない。

 将来合格することを、確定した未来として語っている。

 それが──才能のある人間なんだよ。

 そっち側にいる人間が、こっち側の人間を理解することなんてできるはずがない。

 嫉妬も怒りも、もはやせた。

「……月森なら、そうだろうな」

「違うわ。真嶋君も合格できる。本気になってやろうと思えば、できる」

「俺と月森は違うよ」

「なんなら証明して、納得させましょうか?」

 つきもりも一切引かない。

 まっすぐくような瞳に吸い込まれそうになる。

 なぜかその瞳の奥に、燃えるような決心の色が、見えた気がした。

「明日、もう一度夜の学校に来てくれる?」

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