レッドリスト

夜行性

第1話 レッドリスト

 そうして人類は永遠の眠りについた。


 彼はエンターキーを押して、大きく息を吐き出す。やっとの思いで書いた長編小説がようやく完結した。一年をかけて書き上げた、彼の代表作となるべき小説だ。


 近い将来、人類は人工知能に取って代わられ、多くの産業は人の手を必要としなくなる。皮肉なことに医療や司法など高度な知識を要する分野ほど、人類は人工知能に太刀打ちできない。チェスでも人類は人工知能に勝てなくなって久しい。人類に残された価値はその頭脳から生み出される創造力だけだ。それを彼はこの小説に込めた。


 物語の中で主人公は人工知能に管理された、狭くて正確な世界で暮らしている。適正な人口、適正な人種、年齢、性別などを整えた箱庭のような街だ。

 人工知能の干渉により、世界中で毎秒恋が芽生え、殺人が行われ、試験の合格者が決まり、交通事故が起こった。そしてそれらは全て適正なデータに基づき起こるので、世界の均衡は保たれている。そうした一連の出来事が毎日繰り返される中で、人はどのように考え行動するのか、人工知能には長年に渡る詳細なデータが蓄積され、研究が進んでいた。


 人類は嘘つきで欲深く、脆弱で愚かだったので、その行動は容易にパターン化され予測された。そしてその予測は日に日に精度を上げていき、観察対象Aがその日に何杯の酒を飲み、恋人であるBにどういう暴言を吐くのかも詳細に予測され、それは事実になった。


 そんな、人類のあらゆる思考と可能性を計算し尽くした人工知能に残された課題は、芸術の分野であった。欲と傲慢に満ちた人類の営みの中で、芸術の分野には人工知能にとって未知の要素が多くあり、それは長年の分析をもってしても人工知能の到達し得ない不可侵の領域であったからだ。何度複雑な計算と分析を繰り返しても、その繊細な感受性は人工知能の理解の及ばない聖域だった。芸術家達の活動が人工知能にとって最もエラーの多い分野であり、箱庭では研究対象としてたくさんの芸術家たちが育成された。それは簡単な操作でこと足りる。


 各種データの中から、同程度の経済環境、教育レベルで、趣味嗜好の共通点を持った若者を割り出し、同じ大学に入学させる。その環境下での成婚率は非常に高く、その夫婦に生まれた子供達はより一層その分野に秀でた人材となった。そうしてあらゆる芸術の分野での英才教育を受けた子供達を、観察対象として厚遇し、さらに観察、研究が進められた。


*****


 目を覚ましたのは午前四時四十三分。セットしたアラームよりも早く起きる。俺の眠りが浅くなったのをベッドが感知してわずかに角度を変えるからだ。だからアラームなど鳴らす必要などなく、毎晩それをセットするのはただのまじないのようなものだ。


 乾き切った唇を開いて小さく咳払いをし、俺はベッドから抜け出してキッチンへ向かう。その動きを感知して、窓のカーテンは静かに開き、廊下の足元には小さな照明がぼんやりと灯る。


 キッチンのドアを開けると、コーヒーマシンが起動する。豆はコーヒーマシンが、牛乳は冷蔵庫が、洗剤は洗濯機が、それぞれ使用量から計算して自動で購入され、俺は毎週玄関先に届くそれらの品を部屋に運び込む。


 俺は着替えて、まだ明け切らない夜の街を走る。公園周りのいつものコースを五周し、コンビニへ立ち寄ると手首の時計にメッセージが届く。


「ミネラルウォーター五百ミリリットル入り 一点 を購入しますか?」


 俺はイエスを選び、カウンターに出されたボトルを掴んでそのまま店を出た。


 シャワーを浴び、ピックアップされたニュースに目を通し、コーヒーを飲んで再び部屋を出る。自動で施錠され、十五分後には全ての熱源がスリープ状態になり、俺が帰宅するまで部屋は活動を停止する。


 職場まで一時間ほど運転する間にも、ナビの画面には経路上の事故や渋滞が表示され、代替ルートを提案してくる。俺は第一候補の経路を選んで自動運転に切り替えた。


 職場は公立博物館の分館で主に工芸品が収蔵されている。俺は大学で芸術を学んだが、もともと歴史好きだったこともあり、作家ではなく研究と保全、修復を主とする仕事を選んだ。いずれ自分の見解をまとめた論文を本にしたいと考えている。自分で選んだ仕事で、職場の環境も良く、安定した生活を送っていることに満足している。


 最近のニュースでは、国外での紛争も激化し、新たに発見された病原菌による被害も深刻で、景気の回復も思わしくない。そんな中でも俺の住む国はそれほど影響も受けず、経済も治安も維持された暮らしが守られている。


 急速に発達した情報サービスのおかげで、あらゆる情報が瞬時のうちにデスクトップからもたらされる。すぐに現地との中継が結べるので、情報共有の効率が飛躍的に上がったし、何より現地に出向いて実物を見なくても情報が得られるのがありがたい。


 いまや美術工芸品の類はそのほとんどが実物を展示していない。展示どころか研究者達が扱うのもほぼレプリカだ。貴重なオリジナルを損なう恐れもなく、レプリカといえども精巧に作られた物なので存分に触れて観察できるのはありがたい。こうした技術の発達により、災害や医療の現場でも実際に人が出向かずにドローンやロボットを操作するケースがほとんどだ。危険な場所に行かずに効率よく作業が行われる。


 昔は、未婚率の高さや少子高齢化が社会問題であったらしいが、今ではそれも解消され、特に問題視されていない。俺も大学の時に出会った恋人と近々結婚する予定だ。西洋絵画を専攻していた彼女とは、出会った日から意気投合し、同じく美術史に興味のある者同士、一晩中でも語り合うことができた。


 そんな、同じ価値観を持つ俺たちが付き合うのにそう時間はかからなかったし、5年の交際を経てお互いの仕事も安定してきた頃、俺からプロポーズをした。


*****


 ——誰も何もわかっていないのだ。いま人類がどれほどの危機に瀕しているのかを。

 小説の主人公が暮らしているのは、便利で怠惰で依存した世界だ。それに甘んじてはならない。自らの目で見、耳で聞き、考え続けなければ、やがて人類は緩やかに死んでいくことになるだろう。そうなる前に行動するべきだ。


 彼はそれをあらゆる媒体で唱え続けてきた。人々はみな平和に倦み、無関心で、自分の足元がおぼつかないことにすら気づかない。彼はその危うさを訴えるべく警鐘を鳴らしてきた。自ら選択することを放棄するな、創造することを諦めるな、と。


 当然、彼のように危機感を持つ人間も多くいた。物理的な距離がコミュニケーションを妨げないこの世界、対面することは叶わなくても、お互いの思想を共有することができる。一流の哲学者や、大学教授などがまるで友達のように身近な存在なのだ。彼らが共通の危機感のもとに結集するのは必然だった。

 

 ネットワーク上のそうした思想は多くの人に共有され、広がり始めた。関心を集める話題は、手元の端末にリストアップされ、より多くの人の目に触れる。彼は毎日ネットワークを注視し、次から次へと送り込まれる重要な情報を見落とさないように努めた。彼が興味を持つ分野の情報は特に選び抜かれたものだけが届く。自らの創作と、活動の妨げになる日常の些細なことは全て自動化して無駄を省いた。外出などしている暇はなかった。


 そうして人々は思想に感染した。人工知能によって作為的に生み出されたその爆発的な思想の感染は、彼のような芸術家を生み出すために必要だったのだ。彼はサンプルとして観察の対象だった。


 人類の持つ特性のうち、創造性は人工知能にとって魅力的な観察研究の対象であったため、計画的な交配によって多くの芸術家や思想家を生み出し、幾つかのグループに分けられた観察対象たちには、それぞれ異なった思想の負荷を与え、数十年にわたりその行動を分析したが、このたび十分な検証結果を得られたということで見解は一致した。


 彼らサンプルの活動と創作の内容が、予測の範囲を超えなかったためである。同じように観察、実証実験の対象であった他の一億人ほどのサンプル達と共に彼はその役目を終え、半世紀ほど先んじた数十億の人々の元へ運び込まれた。


 そうして人類は永遠の眠りについた。

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