第36話 ひとりぶんの密室

 あの騒動からしばらく、後宮ハレムには平和な日々が訪れていた。何か問題や不思議な出来事があれば皆すぐ私のところに相談に来てくれるようになって、呪いの噂に育つ前に解決できるようになったからである。前ほど気楽にゴロゴロしていられなくはなったけど、皆から頼られていると思えば嬉しいものだ。


 ただ平和と引き換えに、サイード様の訪れは無くなってしまったけれど……会うと色々と考えてしまうから、これでいいのかもしれない。


 こんな平穏な日々が、ずっと続いてくれたらいいのに――だがその願いは、儚くもついえることとなる。


 ある日の早朝、デルカシュ様が姿を消したと言って、彼女の部屋付きの侍女達が騒ぎ始めた。昨日の日中から姿が見えなくなって、夕食にも、寝所にも現れず、夜通し帰って来なかったというのだ。


 だが他の妃に聞いても部屋に泊まったという話はなく、後宮の門から彼女らしき人物が出たという記録もない。もしやどこかで倒れていたりはしないかと、彼女を慕う多くの者たち総出での、大捜索が始まった。


 だが手掛かりの全くないまま一刻、二刻と時間が過ぎてゆくうちに……やはり脱走か、でなければ神隠しではないかという噂が捜索者たちの間でまことしやかに囁かれ始めた頃。


「デルカシュ様のお部屋に、何か、書置きなどは残っていなかった?」


 そうデルカシュ様付きの侍女の一人に問いかけてみたが、しかし彼女は困ったように首を振った。


「いいえ、特に気づいたものは……」


「引き出しの中などは、探してる?」


「それは、まだにございます」


「では、探してみましょう。なにか手がかりが見つかるかもしれない!」


 私は今回の捜索の指揮を取っている小姓に許可をもらうと、デルカシュ様の侍女たちと共に彼女のヴィラへと向かった。


 デルカシュ様の部屋に入ると、相変わらずの収納上手といったおもむきの部屋である。基本的に部屋のサイズに対してかなり物が多いのだが、工夫をこらした収納で、すっきりと片付いているように見えるのだ。


 しかし、前はもう少しだけ、今より生活感があったような……。


 そこに僅かな胸騒ぎを感じつつ、それらしい紙でもないかと探していると――。


「この衣装櫃いしょうびつ、なんか花の香りみたいな、変なニオイがしない?」


「どれどれ……え、どうなさったのですか!? こんな……」


 そんな驚いたような声が、物置部屋の方から聞こえてきた――次の瞬間。


「「キャー!!」」


 大きな悲鳴が聞こえて、私は急いでそちらへと向かった。腰を抜かしたように尻餅をつく侍女たちの視線の先には、人ひとり入れるほど大きな長方形の衣装ケースがある。蝶番ちょうつがいで開閉するタイプの蓋は開かれたままで、私は恐る恐る中を覗き込んだ。


 果たして、恐れていた通り――衣装櫃の中に横たわっていたのは、目を閉じて冷たくなったデルカシュ様。そしてその周りを埋め尽くすかのような、色とりどりの花だった。


「そういえば……充満した花の香りで眠るように窒息死するという噂を聞いたことがあるわ。まさか、それで……」


 ――愕然としてしばし動けないでいた私は、侍女の呟く声でハッと我に返った。


「いいえ、それは迷信よ。香りで窒息したりはしないはず」


 私は両手をぎゅっと握って手の震えを抑えると、なんとか返事を絞り出した。だがそれを聞いた侍女は、怯えたような顔をする。


「では、なぜ……こんなふうに、笑って……」


 確かに。毒でも、窒息でも、その最期は苦しみぬいて、遺体は酷い面相めんそうになるはずだ。だが彼女には、苦しんだ形跡が全くないのである。


 それどころか幸せそうに微笑む彼女の身を包むのは、一面に丁寧な刺繍が施された、鮮やかな赤の花嫁衣装――。


 だが無数の花で彩られた胸の上に置かれた紙には、こう真っ赤な文字で綴られていた。



 ――血塗れアルサラーンは呪われている。

 命惜しくば今すぐ後宮ハレムより去るべし――



 そのあまりの内容におののきつつも、私は紙の下、つまり胸の上でしっかりと組まれたままの彼女の両の指を見た。すると左手の小指の中ほどに、赤い糸がくるくると巻きつけられている。


 ――これは、現状を変えてはならないものだ。


 私は衣装櫃に絶対に触れないよう侍女たちに言い含めてから、うち一人に頼んで内密に人を呼びに行ってもらうと。最初に見つけた侍女へと顔を向けた。


「この衣装櫃、発見したとき蓋は開いていたの?」


「いいえ、蓋は閉まって、さらにかぎが掛けられている状態でした……」


 衣装櫃のフックは回転させて受けの金具に引っ掛けるだけのタイプのもので、鍵のように厳重なものではない。だから外からなら誰でも軽く閉めることができるが、しかし中から掛けることはできないはずのものである。


「じゃあ誰かが衣装櫃の中にデルカシュ様を寝かせて、蓋を閉めて鈎を掛けて行ったということ……?」


 私がつぶやくように言うと、ヒッと引き攣ったような声を上げ、侍女たちがその身をすくませる。


「でも、一体誰が、何のために……デルカシュ様を!」


 うち一人がそう言うと、とたんにその場にいた侍女たち全員が、次々と泣き崩れた。


「デルカシュさま……なんで……」


 涙にむせぶ彼女たちを見ているうちに、私にもようやく、実感がわいてきた。あの皆に優しかった姉のようなデルカシュ様は、もう二度と、目を覚ますことはないのだと。


 様々な想いが去来して、目頭がカッと熱くなる。あふれる涙を袖の端で押さえながら、私はぐっと奥歯を噛み締めた。


 ――これだけは絶対に、謎のまま終わらせてはならない。これはきっとの、最期のメッセージだから。



  ◇ ◇ ◇



 間もなく駆けつけたのはマハスティ様と、サイード様を始めとした四名の小姓たちである。小姓たちの手によって衣装櫃が部屋から運び出されて行くのを見送ると、マハスティ様がぽつりと言った。


「あの婚礼衣装……違うわ」


「違う、とは……」


「デルカシュがここに入宮したときに着ていた婚礼衣装と、刺繍の文様もんようが違うの。あの時の衣装には、西方風の意匠なんて、含まれていなかったはずだもの」


「西方風の!?」


「とはいっても完全に西方そのものではなくて、西方風と砂漠風を掛け合わせたものだけど……。なぜ彼女は、そんなものを……」


 だが彼女はそこで言葉を切ると、目を閉じて小さく首を左右に振った。


「でも、そんなことより……今は誰がこんな酷いことをしたのか、よね。まさかあのデルカシュに限って、恨みなんて買うようなひとではなかったんだもの。本当に、なぜ、よりによって彼女がこんな目に……」


 とうとう堪えきれなくなったかのように、マハスティ様は静かに涙を流し始めた。この後宮に来てから十年ほどの歳月を、この始まりの二人はずっと共に過ごしてきたのである。きっと私では伺い知れないような想いが、彼女にはあるのだろう。


 ……そんなマハスティ様には、もしかしたら辛い事実が眠っているかもしれない。しかし私は、決意を持って彼女の涙に濡れた瞳を見つめた。


「マハスティ様。私が必ず、デルカシュ様の無念を晴らします」

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