思いと想い

 十和子は薄緑を構え、泰山府君を撫でた。

 本来ならば、そこで布団を斬るような感触……今まで斬ったものの感触を追うことになるのだが、見た目に反してそれは、鋼鉄に刃を向けているかのように、硬い。


「くっ……ううっ…………!」

「無駄だよ」


 霧彦のぽつりとした声が響いた。


「蘆屋道満の呼び出した星神だ。その上邪気をたっぷりと吸っているのだから、いくら鬼を斬れる刀であったとしても、それだけじゃ斬り殺せないだろうさ。それこそ」


 十和子はそれを聞きながらも、歯を食いしばって薄緑の柄を握りしめていた。ここで少しでも心が折れれば、刃もパキンと折れてしまう……こんな霊験あらたかな刀、ちょっとやそっとじゃ弁償なんてできないし、お金を積めば解決する問題でもないだろう。

 十和子が脂汗をびっしょりと掻きながら薄緑を構えている中、霧彦はせせら笑うように囁いた。


「伝説の鬼斬りたる源頼光か、稀代の戦の天才と呼ばれた源義経でも連れてこない限り、振り下ろすことすらできないだろうさ」

「……うっ……た、しかに、わたしはそんな人たちじゃないです……っ!」


 大江山の逸話を残し、あまねく鬼退治の逸話を残した、頼光四天王の惣領、源頼光。

 一条戻り橋で弁慶と刀を巡る一騎打ちを果たし、見事主従関係を認めさせた源義経。

 伝説に謳われる武将と、市中に住まう士族の剣術娘では、腕力も実力も、なにもかも違う。そんなことくらいわかっている。

 だが。

 ここで夜明けまで戦い続けなければならない十和子は、覚悟を持っていた。

 今は少しでも要が結界を修復するための時間を稼がなければならない。そのために体を張らなければ、校舎にいる誠と藤堂が危ない。これを校庭から出したら町が危ない。

 斬れないから負けるなんて考えは、彼女にはなかった。


「わたしはあなた方にひと晩抗います! 抗って抗って抗って……要さんが結界修復を完了させれば、わたしたちの勝ちです!」

「なにを血迷うたことを……」


 道満は鼻白む顔で手印を切る。それにより泰山府君の力は強まり、十和子は弾き飛ばされそうになるが。それでも必死で彼女は歯を食いしばり、脂汗を流し続けながらも、足を踏ん張って耐えたのだ。

 それを見ながら要は、血を流し続けて感覚のなくなった手で、人形に術式を書き込みながら飛ばし続けていた。

 何度も何度も壊され続けた結界の修復が、一枚、二枚と進んでいく。

 要は十和子の放つ光を、眩しいものを見る目で眺めていた。


「……十和子くんのあの光は、八幡大菩薩のものか」


 八幡大菩薩。神仏習合により生まれた菩薩号であり、明治を経た今では、神仏分離により消えてしまった存在である。

 かつて、源氏はその八幡大菩薩を守護神としていた。頼光や義経はその化身とも称されるものだった。

 十和子自身は自分が源氏の血は入っていないと言っているが、源氏は長い時を経て枝分かれしている。その上、先祖が落胤ともなれば、もうそれを追跡調査することも困難だ。

 彼女の気迫が、背後にある町が、校舎に残っている友が……校庭に今いる、要と霧彦の存在が、彼女にその光を与えて薄緑を振るわせていたのだ。

 彼女がときおり不思議そうな顔をしていて刀を振るっていたが、彼女が備わっている力は、こんなときにでもならなかったら発覚しなかったものだ。そのまま普通の士族の娘として嫁に出ていたら、その力に気付くことなく生涯を終えていただろう。

 それこそ、要に出会わなかったら、彼女は自身の力に気付かなかったのだ。

 要は手から血を滲ませた。だんだん血の出が悪くなってきたが、それでもひと晩持たせないといけないのだから、四の五の言っていられなかった。要は歯を立てて指に吸い付き、血を出して術式を書き込む。


「俺たちは、負ける訳にはいかないのだから」


 夜明けはまだ、程遠い。


****


 時間をかけて女子校に通う学生たちをたぶらかし、少しずつ溜め込んだ邪気。最初は大したことのない量だったが、だんだんと溜め込んだ末に、とうとう地下湖になるほどの量となった。

 それを使って蘇らせた蘆屋道満を操れば、そのままこの町を皮切りに邪気を増長させ、帝都まで一直線に進み、なにもかもを焼け野原にすることが可能だったはずだ。

 実際に先の震災の痛手を未だに引きずっているのが帝都だ。かつて施されていた東京の守りが脆弱になっている今こそ、帝都に、この国に、復讐ができるそのはずだったのに。

 ただの要のお気に入りだったはずの少女が、薄緑一本で食い止めているのだ。あれだけ吐き気を催す寺社の取り潰しの中で消えてしまった神仏の力を使って、必死に耐えているのだから、それに思わず歯噛みするしかなかった。


「どうして……どうして邪魔をする!? 自分にはもう……それしか残ってないのに……」


 呪術師になった際に、さんざん罪を重ねた。

 故郷を燃やし、鬼を育てた。呪術師たちは互いに互いを呪いで縛り、邪気を蓄えていった。その邪気で帝都を転覆させ、この国を変えよう。失われた信仰を取り戻そう。最初はそんな崇高な目的があったはずなのに。

 邪気は邪気しか生まず、崇高な使命も、気高い信仰心も、願った安寧も、なにもかもを食い潰していった。

 もう霧彦の手はとっくの昔に、取り返しのつかないほどに汚れていた。誰かに許しを請う価値すらないほどに。たくさんの人間が死に、たくさんの呪術師が犠牲になった。

 しかしそれすらも、十和子の放つ、失われてしまった神仏の力の前に怯んでしまったのだ。

 神仏習合の際に生まれた神仏は、明治維新の最中に奪われ、中には寺社自体が取り潰されてしまった例は後を絶たなかった。

 それこそ陰陽寮が未だに残っているのだって、あまりにも物知らずが邪気を刺激するから、それらを制御する組織が必要だったからに過ぎない。

 袋小路。自身の心が蝕まれても、それに気付かないふりをすることしか、霧彦にはできなかったのだが。


「霧彦」


 要もまた、十和子のように諦めてはいなかった。


「なんだい、要。まさか君がそこまで前向きな人間とは知らなかったのだけど」


 皮肉をたっぷりまぶして言っても、もう要の揺すぶりにはならなかった。


「……俺は彼女に助けられた。彼女は君も助けたいと言っている」

「なにを馬鹿なことを……」

「要。俺もそう思う。俺はこれ以上お前が罪を重ねるところを見たくはない……俺だったら、お前にかけられている呪いも解ける。あれを……どうにかしてくれたら、俺はお前を助けられる」

「なにを今更言っているんだ」


 その言葉に激昂した。

 助けるなんて言葉、責任取るなんて言葉、全て上から目線なのだ。


「君がそう言うのはさぞや気持ちいいだろうさ。自分より可哀想な者に手を差し伸べるのは」

「……俺はそこまで、綺麗事を言えない。俺はただ、君を助けたいだけだ。今しか、結界を張っている今しか、他の呪術師たちに勘付かれる前に君に話しかけることはできないじゃないか」


 その言葉に、霧彦は違和感を持った。

 要は息を吐く。


「……十和子くんを地下湖に連れ去ったときから、いずれ君がここに地下湖に溜め込んだ邪気を利用しに来ることはわかっていたからね。君を助けるためには、どうしても結界を張り巡らせる必要があった。邪気や鬼を外に出ない結界と……君を他の呪術師たちから遮断する結界を」


 呪術師が口を割られそうになったら、他の呪術師により呪い殺される。それはいつかの小間物屋の女性が呪い殺されてしまったのを見たときに気付いたことだった。

 怪盗乱麻として霧彦が暴れ回らなかったら、彼と再会できなかったし。彼に呪いがかけられていることに気付くことも、他の呪術師たちに悟られないようにする結界を張る決断を下すことにもならなかっただろう。

 頭を下げて、藤堂にも結界を張るのを手伝ってもらったのだ……呪術師が遮断されるような結界、陰陽寮に連絡するための人形や式神すらも通さなくなるのだから、偵察部隊の藤堂に上層部と掛け合ってもらわなければできなかった。

 そのために、要は命をかけて、結界を修復し続けているのだから。

 血が流れ過ぎて白くなった手を、霧彦は広げた。


「要。助けたいなんて言葉が駄目なのなら言い方を変える」


 十和子は未だに泰山府君と拮抗し、それを道満が歯噛みして、式神を彼女に飛ばして動きを妨害しようとするが。それを十和子は無視して、綺麗な着物が切り刻まれるままになっていた。血が頬を滲んでも、彼女は気にせず歯を食いしばっていた。


「……君を、君の大切な人の元に返したいんだ」


 要には十和子がいる。霧彦には誠がいる。

 なら、互いの大切な人の場所に帰るのが、一番いいだろう。

 大切は簡単に失われるが、想いだけは残る。それだけが唯一憎しみを食い止めるものなのだから。

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