ドレスと舞踏
邪気の溜め込まれた地下湖から避難して一週間経った。
不思議なことに、その間怪盗乱麻どころか、逢魔が時に鬼が出ることもなかった。せいぜい育ってはならないと子鬼をぽこぽこと殺して回るだけで、大鬼ほどの苦労がない。
その日も、ぽこんと子鬼を斬っただけで、十和子の仕事は終わってしまった。
「最近、呪術師の方々のおかしな企みもありませんし、鬼も育ってないみたいですね? でも……あんなに地下湖に邪気があるのに?」
「あそこまで到達できねば、子鬼も育つことはないからな」
「そうなんですか……でも、あの地下湖の邪気ってどうにかできないんでしょうか。学校の地下に広がっているのは、はっきり言って危ないですし……」
「難しいな。あれがもうちょっと少なかったら対処もできたんだが……あれだけ湖のように広がってしまっては、陰陽寮所属の陰陽師一個部隊用意したとしても、祓い切れるかどうか。それこそ、平安時代の陰陽師でも連れてこない限りは難しいだろうな」
「そこまで難しいものなんですね……」
畔に立っているだけで肌が粟立つ。あんなところに人が落ちたら大惨事だろうに、あれをどうこうする術がない以上は、呪術師があそこに人を突き落とさないように祈ることしかできない。
十和子は今日も薄緑を要に返却してから、まだ明るい道を帰っていった。
家に帰ると、母がパタパタと走ってきた。
「十和子十和子、あなたにすっごくいい話があるのよ!」
「はいぃー?」
母がやけに機嫌がよく、それに十和子は嫌な予感を覚える。十和子は母のことが嫌いではないが、結婚こそ女の花道と思っている節のある彼女とは、どうにも主義主張の面では反りが合わない。ほとんどの家では誰よりも強い剣道を喜ばれないのだから、余計にだ。
(どうしよう……釣書が届いたとか言われたら……学校だって辞めさせられちゃうし、要さんのお手伝いができなくなっちゃうのに……)
思い人がいても、親の持ってきた釣書が優先されてしまうご時世だ。十和子がどれだけ嫌だと思っていても、釣書を出されてしまったら彼女は家出する以外逃げる道はないのだが。
母は今にも鼻歌でも歌い出しそうな勢いで切り出した。
「あなたに、舞踏会の招待状が届いたのよ!」
「…………はい?」
思ってもいなかった話で、思わず十和子は目が点になる。母は機嫌良く続ける。
「警察関係者を集めて、懇親会を行うのよ。そこに、士族令息令嬢も集めるんですって! そこでだったら、あなたみたいな腕っ節の強い娘でも面白いって思ってくれる方がいらっしゃるかもしれないわぁ……! あー、よかった! あなたをもらってくれそうな人がいそうで!」
「えぇ……まあ、そうね?」
たしかに警察にも稽古を付けに行っている父の道場では、一番強いのは十和子だが。日頃から訓練を受け、犯罪者と戦っているような警察官やその関係者だったら、彼女のように日頃から鍛錬を積んでいる娘をおかしなものを見る目をしないだろう。
だが、十和子はやはり気が重いままだった。
「そこで婚約者が見つからない場合はぁ……?」
「出会った人には片っ端から釣書を送りつけるから大丈夫よ。心配しなくても」
「いや、そういうのは全然してないかな?」
「あなたがこのまま売れ残ったらどうしようと心配していたけれど、これでなんとかなりそうね。よかった。本当によかった……!」
十和子はそれに「えー……」とだけ言っていた。
舞踏会の踊りだってわからない、そもそもドレスの着方だってわからないのに、そんな動きにくく落ち着かない格好をして、婚約者探しをしないといけないのか。しかも、既に好きな人がいる立場なのに。
(……どうしよう。この流れだと、仮病を使っても無理そうだし。そうなったら、参加者の人に踊りに誘われたら片っ端から足を踏んづけて回って断られるようにしようか……うん、それで行こう)
ひとりでそう心に決めた。
****
それからしばらくは、十和子にとっては地獄だった。
舞踏会のために振り付けを覚えるべく、母の雇った講師に踊りの稽古を付けられ、採寸されてドレスを仕立てられる。正直どれもこれも動きにくい上に、足のヒールが歩きづらい。それを母は「そういうものだから、我慢しないと駄目よ」と言うので閉口していた。
学校にいるときだけが、十和子にとって休憩時間であった。
「ふぁあああああ…………」
「あら、十和子ちゃん。最近お疲れね。要さんと夜遊びして疲れたの?」
「……要さんとは普通に姉妹しているだけで、なにもやましいことなんてしてないわ。最近、実家で舞踏会の準備に忙しくって……正直全然合わないことしていて、しんどいったらないのよ」
「あらあらあら……舞踏会!」
誠はそれに目を輝かせる。
「素敵じゃない、でも誰と出るの?」
「それが……警察関係者の懇親会みたいなので、それにそれぞれの関係者の子息子女がお見合いをするって感じみたいなの。そのために、踊りの練習をずっと続けてるの……嫌だったらないわぁ……」
「あらあらあら……まあまあまあ……」
憂鬱な十和子と反比例して、誠は夢見る少女の微笑みを浮かべて、うっとりと手を組む。
「素敵じゃない、そこで出会う運命の人……もしかすると一夜の過ちもあるかもしれないけれど、そういうのはその場限りの火遊びだから、不貞にはならないわ。楽しんでらっしゃいよ」
「……楽しめるのかな」
「大丈夫よぉ……! いいなあ、そういう出会いも! まあ、私も婚約者になんの不満もないのだけどね!」
誠がひとり盛り上がっているのを見ながら、十和子は頬杖を突きながらあくびを噛み締めた。
(とりあえず、無理矢理踊りは覚えさせられたけど、とりあえず頑張って足を踏まないとなあ……)
彼女は舞踏会で婚約者をつくるどころか、いかに相手に嫌われてお断りを入れられるかばかりを考えていた。
****
卵色のドレスの裾には、黒い薔薇のコサージュをあしらっている。母はレースたっぷりの装飾を主張していたが、十和子は「そんなにレース付けたらくすぐったくて踊れない」を言い続け、仕立屋が折衷案として、黒いレースを裾にだけ付けてくれたのだ。母は少しばかり納得できない顔をしている。
普段はふたつのお下げに垂らしている髪も夜会巻きに結われ、化粧も施された。
普段の跳ねっ返りの娘も、士族の令嬢という風にまとめ上げられた。
「それじゃあ、あなた。くれぐれも十和子をよろしくお願いしますね」
「もちろん。それじゃあ十和子行くよ」
「はい、行って参ります」
母にお辞儀をしてから、父と一緒に自動車に乗り込んだ。そのまま自動車は走っていく。
父も筋肉隆々の体を燕尾服に押し込めて、多少苦しそうな格好をしている。
「父様、大丈夫?」
「そりゃもちろん。まあ、母さんはああ言っているけど、ご飯を食べに行くつもりでいいよ。こういう場で無理に決めるものでもないし」
「父様はいつもそうね。わたしもそっちのほうがいいのだけど」
基本的に古風の母と違い、父はあちこちで話を聞いているせいか意外と先進的な考えをしている。父はのんびりと続けた。
「女だって、いざというときに稼げるほうがいいからね。そのためには、学校を卒業してからのほうがよっぽどいいと思うから。母さんは十和子の見合いがまとまったらすぐにでも退学させて嫁入りを決めたがっているけれど、父さんは反対だよ」
「父様……わたしもそう思う」
本来、父のような考えや志の人々が女子校を経営しているのだから、当然と言えば当然なのだが。まだこの時代は戦争未亡人の存在感が薄く、稼ぐ手段を女だろうが子供だろうが持っていたほうがいいという考えが希薄であった。
やがて、ある洋風の館が見えてきた。元は華族の屋敷だったらしいが、没落してからはある士族が買い取り、今は警察上層部やその士族子女の渾身の場にしている場所であった。
車が停まると、外では一礼して黒い燕尾服の男性たちが車の扉を開けてくれた。
「いらっしゃいませ。ようこそ舞踏会に。ご案内します」
慣れない丁寧な案内に目を白黒とさせながら、十和子は父と一緒に屋敷に入ることとなったのだ。
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