誕生会 22
廊下に出ると、わずかにキナ臭い香りが鼻につく。
工房に勤める人間が右往左往している。事情を知る者、知らぬ者の双方がいるのかもしれない。
炎の魔石が火のエーテルを使用しているのだろう。火のエーテルが吸い込まれるかのように、大きく流れていく。サーシャはエーテルの流れを見ながら、廊下を走った。
眼鏡を外したままの行動は、視覚がおろそかになりがちだが、魔眼に頼る方が手っ取り早い。
サーシャは廊下の奥にあった扉を開いた。
「ケホッ」
熱風とともに、煙がどっと廊下へと噴き出し、サーシャは思わず咳き込んだ。
まだここに火の手は上がっていない。かなり広いその部屋は、物置のようだが煙が充満していて視界も空気も悪い。エーテルは奥へと吸い込まれている。
「アルカイド君!」
「大丈夫です」
サーシャは追ってきたレオンに身体を支えられながら、ハンカチで鼻と口を覆う。
ややふらつくのは、煙を吸ったせいではなく、眼鏡をとっていたせいだ。
エーテルが見えすぎるサーシャにとって、眼鏡なしの世界は情報量が多すぎる。もちろん集中を解けば、少しは楽になるが、今はその時ではない。
「光よ」
リズモンドの声がして、辺りが照らされた。
「窓を」
レオンが親衛隊の人間に換気をするように指示をする。
空気は少しずつクリアになっていくが、火元はここではない。下だ。
「こっちです」
サーシャは棚の奥にあった階段に向かう。
階下への火のエーテルの流れは止まらない。下はまだ燃えている。
間違いない。
サーシャは階段を駆け下りた。
降りた先の扉の隙間から、煙が噴き出している。火元はこの扉の向こうだ。
「アルカイド君、不用意に開けるな!」
レオンに止められ、サーシャはそっとその木製の扉に手をあてた。
熱い。かなり熱を持っている。おそらく扉の向こうはかなり火が回っていそうだ。
扉を開けば、その途端、熱風と炎がこちらに噴き出してくることが予想される。
「少しずつ消火を」
「そんな余裕はありません。リズモンド、力を貸して」
「何を」
レオンとともに追ってきたリズモンドにちらりと目を向ける。
サーシャはそのまま扉に陣を描いた。
「氷結せよ!」
向こう側で燃焼しているのは炎の魔石だろう。
ならば。
圧倒的な魔力の差で、中の温度を冷やしてしまえばいい。
氷は壁や天井を伝って魔力を広げていくことができるから、使いやすい。炎の魔石ごと凍らせれば火は消える。
簡単な論理だが、圧倒的な魔力の差が必要だ。相手の魔石は、おそらくムクドのものだろう。さすがに軍の研究員だから、容易とは言い難いが、宮廷魔術師が二人でかかれば、敵ではない。
「わかった。協力する」
サーシャの意図を知ったリズモンドが陣に力を注ぐ。
辺りに水蒸気の霧が発生した。サーシャとリズモンドの注いだ魔力が陣を通して広がり冷気となる。
熱気はいつの間にか去り、肌を刺すような冷ややかさに代わった。
「二人とも、もういい」
レオンに止められ、サーシャとリズモンドは氷結の陣を解いた。
見れば、床に霜が降りていて、扉が凍り付いている。
「たぶん火は消えたと思う。ご苦労だった。扉は開かなくなったが」
レオンはわずかに口元を歪ませた。どうやら笑ったようだ。
「すみません。すぐに溶かします」
「アルカイド君、君はいい。ガナック君、頼めるかな」
術を唱えようとするサーシャをレオンが止める。
「え?」
なぜ、と問おうとした途端、めまいを覚えてサーシャはよろめいてレオンの腕の中に倒れ込んだ。
「アルカイド君は、無茶をしすぎだ」
「申し訳ございません。殿下、違います。これは、眼鏡をかけていないからで」
魔力不足ではないのです、と、サーシャは言おうとする。
頭が痛い。痛いがまだやれる。
宮廷魔術師として、たかがこれだけのことで魔力不足になったと思われるのはサーシャとしてはプライドが許さない。四六時中、サーシャを煽ってくるリズモンドの前なら、なおさらだ。
懸命に足に力を入れようと踏ん張る。
「体調が悪い時は悪いと言っていいのだ。魔眼を駆使すれば、人より疲れて当然だ。見えなくてよいものを見ているのだから」
レオンは離れようとするサーシャの身体を素早く抱き上げた。
「殿下?」
「ここで少し休んだところで、君が甘えているともさぼっているとも誰も言わない。そうだな? ガナック君」
「……はい」
リズモンドは何か言いたそうにサーシャとレオンの方を見たが、思い直したように背を向けて、扉を溶かし始める。
「他人に頼れるときは頼っていい。君には君にしかできないことがあるのだから、つぶれてもらってはかえって困る」
「殿下……」
レオンの言葉にサーシャはかつてない思いに満たされる。
仕事上に必要な人間だから休めと言われているだけではあるが……それでも、サーシャには嬉しかった。
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