第4話 帰結

 耳鳴りが酷い。瞼を開けたが視界がぼやけ、頭が割れそうに痛い。指を動かす。感触がある。両手は無事のようだ。が、脳震盪を起こしていたようで未だ三半規管が正常に機能していない。

「……ン!……アラン!」

 己の名を呼ぶ声が遠くに聞こえた。膜が張ったようにくぐもっていたのが、段々視覚と聴覚がクリアになってゆく。周りを見渡す。先程まで立っていた床が垂直な壁になっていた。攻撃を受けて横転したようだ。樹脂が焼ける独特な臭いが充満していた。

「隊長……」

 声が喉に絡みついて上手く出ない。数回咳き込み、身体を起こそうとすると、ミルズが力強い腕でアランを引き起こした。

「ニコラス! リズ! 無事か!」

「あ~痛てて……何とか無事です。証人様も気絶してますが生きてます。おい、起きろ!」

 散乱した装備や荷物の中からニコの声が聞こえる。次いで無理矢理起こされたリンチの声も。声の様子からして大きな怪我はないようだ。

「無事です! 怪我はありません」

 リズも返答した。チーム全員が無事だという事は不幸中の幸いであった。だが、状況は未だ最悪だ。

「ここからの足が無くなったな……」

 忌々し気に呟きながら、ミルズがライフルの弾倉を再装填した。外からエンジン音が聞こえる。アランはハンドサインで合図し、歪んで半開きになった扉から慎重に外を覗いた。ヘッドライトをハイビームにしたピックアップトラックがゆっくりとこちらに近づいてきていた。「敵車両がこちらに来ます」とミルズに伝え、アランはレミントンを構えた。

「アラン、時間を稼げるか。その間に整備用ハッチからパッケージを外へ避難させる」

「了解。ここから十一時の方向に避難用出口が見えます」

「よし、総員、これより車両を棄てる。アランが一旦時間を稼ぐ。その間に外へ脱出し、避難用出口へ向かえ」

 ミルズの命令を聞きながら、スコープ越しに外を見る。目視距離でおおよそ三〇メートル。ゆっくりとこちらに近づくフルスモークのトラックが酷く不気味に感じた。もう少し、近づいてこい。もう少し。

 運転席のど真ん中をレティクルの中心に捉え、引き金を引いた。

 重い発砲音がトンネル内に響き、トラックのフロントガラスに穴が空いた。防弾ではないのか、放射状に罅が入っている。

 トラックが停まった。

「行け、行け!」

 整備用ハッチをミルズが開ける。まずニコが外へ出て警戒をした。次いでリンチがおっかなびっくり這い出て、運転席から這い出たリズが後ろを固めた。

 その間にアランは予備装備のスモークグレネードを二つ投げた。真っ白い煙幕がトンネル内に充満する。生身だとガスマスクを付けなければ通り抜ける事すらできないだろう。

「アラン、行くぞ!」

 マスクを装備したミルズからガスマスクを受け取ると手早く装着する。新たなエンジン音が聞こえた。一台だけではない。

 素早く外へ出る。排煙設備が作動する前にここから離れなければならない。ガスマスクの視界はかなり狭い。アラン達はライフルを構えながら避難用出口へ向かった。

「隊長! アラン、こっちです!」

 煙の中からリズの声が聞こえた。EXITの緑色の光がぼんやりと輝いている。二人はその方向へ走る。タタタ、とポップコーンメイカーのような音が背後から聞こえ、黄色い火花が足元で上がる。

「はやく!」

 リズの姿を確認した。二人でドアの中に飛び込む。リズがドアを勢いよく閉め、非常用の手斧をドアのレバーに咬ませた。そのまま彼女は手際よくグレネードのピンにワイヤーを取り付けてドアのレバーに結び、グレネードを消火器と壁の間に設置した。

「手際がいいですね」

 アランはリズを見た。リズは悪戯っぽく笑うと「兄がシールズ隊員だから色々教わったのよ」と言った。確かに彼女は前からトラップに関する知識が豊富だった。

「行くぞ。この上はイーストトーワスの外れのようだ」

 端末を確認しながら、ミルズが階段を上り始めた。その後ろではニコがげんなりと肩を竦めてぶつくさと言った。

「まだ半分以上はあるぜ……」

「任務中だよ。集中しな」

 わかってるよ。とニコがリズを不満げに見た。

 確かに、目的地のワースミス空軍基地まで十五キロはある。この悪天候の中、徒歩で向かうのは自殺行為だ。

 ミルズを先頭に、リズ、リンチ、ニコ、そしてアランの順で狭い階段を上がる。

 暗く静かな非常階段のコンクリート製の壁に、五人分の足音がやけに大きく響く。それが酷く不気味だった。

 ふと、いつかニコラスに無理矢理連れて行かれた映画に、こんな場面があったような気がした。

 その映画は、定番のパニックホラー物で、数人の生存者が放棄された地下鉄内をいつ現れるか分からない敵に怯えながら進むシーンがあった。

(馬鹿馬鹿しい……これは現実だ)

 アランはすっかり冷えてしまった指を握ったり開いたりして、ライフルのグリップを握りしめた。

 振り返って、注意深く耳をすませる。追手はまだない。

「出口だ。注意しろ」

 ミルズの声でようやく出口に着いたのだと知る。外がどうなっているのか全く分からない。かなりのリスクを伴うが、行くしかない。

 緊張と不安が、アランを襲う。同時に脳内のドーパミンが過剰に分泌していのが分かった。

 重い鉄の扉をミルズが押し開ける。蝶番の軋む嫌な音が鳴り響き、冷たい空気が一気に流れ込む。

「右、クリア」

「左、クリア」

 ミルズとニコがそれぞれ警戒しながら、リンチを外に出す。吹雪が大分弱まり、視界も効くようになったが、敵に見つかるリスクも高い。早く何らかの移動手段を見つけなければ。

「隊長、駄目です。無線使えません」

 本隊と連絡を試みていたリズが首を振った。スマートフォンの電波も圏外だった。

「山中だから仕方ない。移動するぞ」

「こ、こんな場所を歩くのか!? 自殺行為だ!」

 リンチが目を剥いて喚く。怯えた小型犬のようだな。とアランは思った。

「進まなければどちらにしても凍死か撃たれて死ぬかもな」

 ニコがにべもなく言い、リンチが恨めしそうに彼を見た。

「とりあえず近隣の警察署に応援を要請するしかないな。電波の届く場所まで移動するぞ」

 アランは小さく折り畳んだ地図を胸ポケットの中から出してライトを当てた。無線もスマートフォンも使えない今、一番使えるのはアナログな方法だ。

「ここから北に三キロ先、タワス湖の湖畔に森林管理局の事務所があります。そこならば基地局があるはずです」

「北に……か」

 国道の北は鬱蒼とした森が広がっていて、徒歩で行くのは難儀そうだが、容易には見つからないだろう。ガードレールのすぐ下は急勾配になっていて、到底上等なスーツと革靴で歩いて行けるような場所ではなさそうだ。

「事務所へ移動する。ここではいい的になる」

 ミルズの言葉にリンチが泣きそうな顔でもごもごと口を動かしたが、言葉にはならなかった。それを見たニコが彼の肩を叩いた。

「アンタのその悪趣味なヴェルサーチの靴とスーツ代は市警でもってくれるさ。多分な」

 森の中は積もった雪が青白く光って、ともすれば幻想的にも見えるが、アラン達には唯の障害でしかない。一歩歩けば脛の半ばまで埋まってしまう。既に四回は足を取られて転倒したリンチを起こしてやっていたし、その都度彼は喚いて取り乱し、泣き言を言うのでアランはうんざりしていた。ダクトテープがあれば彼の口に貼ってやろうかと思うくらいには。

 黒い装備が雪塗れになり、憮然とそれを払っていると、ニコがすぐ隣で耳打ちした。

「なぁ。何で俺らの居場所がばれたと思う?」

「さあ……隊長は身内にエスがいると……」

「それにしても情報が早すぎる。気をつけろ。アラン。お前はまだ染まってない。てめえの勘を信じろ」

 ニコはいつになく真面目な口調だった。アランは訝し気に彼のヘイゼルの瞳を見つめながら「了解」と返した。

「アラン、どうしたの?」

 前を行くリズが振り返った。

「いえ、何でも」

 平静を装ったが、ニコの言葉でアランの胸の内に黒い疑念が渦巻いていた。

 極秘中の極秘作戦に、なぜここまで容易に位置を知られたのか。あまりにも出来過ぎている。

 リンチの背中を見る。深い雪に足を取られながらも、何とか進んでいる。一度ならずとも彼を疑ったが、そんな事をしても彼にメリットは一つもない。では、誰がエスなのか。

「何か、聞こえない?」

 すぐ前のリズが顔を上げた。アランも同じように耳を澄ませる。森のざわめきではない。何かの唸り声のような。低い音。

「どうした?」

 先頭のミルズが立ち止まった。それに応えず、雪のちらつく漆黒の中を食い入るように見つめていた。木立の向こうから響く不気味な音はより一層大きくなる。

 ライフルを構えた。

「アラン! 右!」

 リズの声に咄嗟に銃口を右に向ける。だが、その銃口はがくんと何かに掴まれたかのように下がっていた。

「なっ!」

 大きなドーベルマンが牙を剥きだしてライフルの銃身に噛み付いている。物凄い力だ。首を振られるとライフルごと持っていかれてしまいそうだ。

「クソ!」

 ナイフを抜き、犬の首に突き立てる。ギャン、と一声鳴いて犬は真っ白な雪を赤黒く染めながら斃れた。

「野犬ではないようだな……」

 首には悪趣味な黒革製の首輪。カルテルには拷問と処刑を兼ねた猟犬を飼っているという噂があったが、まさかそれが真実だとは夢にも思わなかった。

「まだ、終わってないわよ」

 リズが隣で言った。見れば周りは獣の唸り声に囲まれていた。二、三頭などではない。ざっと十二、三頭はいる。

「俺は犬より猫派なんだがな」

 珍しくミルズが軽口を叩いたので、アランは珍しいなと思った。

 唸り声が近くなる。じわじわと近づいてきている。

「来るぞ!」

 ニコが叫ぶ。

 アランはライフルではなくグロックを抜き、ナイフを逆手に構えた。クロースクォーターコンバット、いわゆる近接格闘の構えである。

 弾丸のように黒い犬が茂みから飛び出して来る。リンチが悲鳴を上げた。速すぎて弾は当たらない。ライフルを使えばフレンドリーファイアのリスクがあった。

 恐ろしい唸り声と共に、犬はリンチの喉笛目掛けて牙を立てようとした。すんでのところでアランが腕を差し出す。ドーベルマンの顎の力は百キロを超える。カーボナイト製のプロテクターを着けていても骨まで響く程だった。

「ぐっ」

 激しい痛みに耐えながら、犬の首辺りにグロックの銃口を押し付けて引き金を引いた。脳漿をまき散らせる犬を振りほどき、リズの背後から迫る黒い影を捉えた。

「リズ! 伏せろ!」

 その言葉に素早くリズが伏せ、グロックを三発撃った。二発が犬の胸と頭に命中したが、まだ動いている。ミルズがナイフでとどめを刺した。

「わああ!」

 リンチの悲鳴にハッとそちらを見る。二頭の猟犬に追われていた。コートの裾が今にも食い千切られそうだった。

「ダメだ離れるな! アラン! 追え!」

 ミルズの言葉に、アランは猟犬のように飛び出した。左から一頭飛び掛かってくるのを走りながらグロックを撃って仕留める。走る速度をそのままに弾倉を装填する。降雪量が増えてきた。早くしなければ足跡が消える。それは絶対に避けたかった。

 足跡を追い走り続けると、野太い犬の吠え声が聞こえた。

 更に進む。およそ十五メートル先に姿を捉えた。リンチは木にしがみついている。コートはぼろぼろになっていた。

 ライフルを構える。それぞれの胴体に三発撃ち込むと犬達は沈黙した。

 上がった息を整えながらリンチに近づく。

「終わったぞ。降りてこい」

 彼は言葉も出ないほど震えていた。ボロボロになったコートの端を見やる。何かが裏地から見えていた。

「それは何だ」

「……え?」

 リンチのコートを無理やり脱がせ、アランはコートを念入りに調べ始めた。犬に引き裂かれた裾から信じられないものが出てきた。

「これは……」

「アラン! 無事!?」

 リズが息を荒げながら走って来る。アランを見るなり、その尋常ではない雰囲気に眉をひそめた。

「リズ。これを」

「これ、まさか……」

「リズ、頼みがあるんだ」

 アランはヘルメットとバラクラバを脱ぎ、防弾ベストや装備を外し始めた。

「貴方、何やってるの?」

「終わらせる。この最悪な夜を」

 装備を外し終えたアランは、座り込むリンチに「服を脱げ。今すぐにだ」と冷酷に告げた。




「リズ! 彼等は無事か!?」

 林の向こうから現れた三人にミルズは声をかけた。ニコとミルズの周りには夥しい犬の死骸が横たわっていて、激しい戦闘の痕が見られた。

「無事です! ですがリンチが顔を負傷しました」

 アランの後ろから、ボロボロになったコートを羽織り、止血帯で顔を覆ったリンチがよろよろと歩く。

「怪我の程度は?」

「出血がひどいようですが、命には別条ありません」

「そうか。管理所はここからあと一キロはある。歩けそうか?」

 リンチは項垂れながら首を振った。ミルズはため息を吐きながらリズを見た。

「仕方ない。リズは此処に彼と残れ。俺はアランとニコで管理所へ……」

「俺が残りますよ」

 ニコがミルズの言葉を遮るように声を上げた。

「だが、お前は負傷しているだろう」

「さっきよりは腕も動きます。それにこの場所は地形からしてGPSも入りにくい。容易には見つけられません」

 ミルズは少しだけ逡巡を見せたが、納得したように頷いた。

「何かあれば無線の非常ボタンを押せ。いいな」

「了解」

「行くぞ。リズ。アラン」

 ミルズは二人を連れて管理所へ向かい、二人だけが残された。

「さぁてと」

 ミルズ達の背が消えるまでそちらを見つめていたニコが、解放されたようにヘルメットとバラクラバを脱ぎ捨てた。はっきりとした目鼻立ちとたれ気味の眼差しはいかにも女性達にもて囃されそうな顔立ちだ。

「俺とアンタだけだ。なあ。会計士さん」

 彼は左腿のグロックを引き抜き、ゆっくりと座り込むリンチに近づいた。

「アンタに恨みはねえ。運が悪かっただけだ」

 項垂れたままのリンチの後頭部に、銃口が向けられた。

「それはこちらのセリフだ」

 電光石火、リンチの右手が動いたかと思ったら、掌底がニコの右手にあった銃を弾き飛ばした。彼は驚いたように眼を剥いて、すぐに飛びのき距離を開けた。

「いいねえ。味な真似しやがる」

 リンチの服を纏ったアランを、ニコは血走った眼で睨みつけた。

「何故だニコラス。アンタは」

「カルテルってのはな、想像以上にこの国に巣食ってる。もう手の施しようがない位にはな」

 ニコラスがナイフを抜いた。アランもナイフを抜き、逆手に構える。

 彼の狙撃能力は知っていたが、近接格闘は未知数だ。アランはじりじりと距離を詰めた。

「何処で俺がエスだって判った?」

「アンタのさっきの言葉で。アンタは電子戦のプロだ。あんな小細工なら朝飯前だろう。彼にGPSを仕掛けた後、ドローンやリモートを使って自分を狙撃させ、自然に戦闘から離脱した。そうすれば仕掛けの捜査やGPSの位置情報をカルテルに知らせるのに専念できるからな」

「ご明察。さすがはスーパールーキー」

 へらりと笑うニコラスに、アランははらわたが煮えくり返りそうだった。

「何故だ!」

 右手のナイフを一閃させる。が、ニコラスはその一撃を見越していたかのように距離を詰め、アランの腕ごと動きを制した。熟達した動きだ。近接格闘もかなりの実力だった。

「シンプルな話さ。金だよ。金で解決できる問題は少なくはない」

 鋭い突きの一撃を辛うじて交わし、男の顎を目掛けて掌底を放つが、後ろに下がられ勢いを殺された。そのまま腕を掴まれ足を払われる。鮮やかな動きにあっという間に背中から雪の上に叩きつけられた。手の中のナイフが離れ、雪に埋もれて見えなくなる。

「お前の事は大っ嫌いだったぜルーキー」

 仰向けに倒れたアランにのしかかり、ナイフをくるりと回転させて、ニコラスは凶暴な笑みを浮かべた。

 白刃の煌めきが、アランの胸に突き立てられようとした時だった。

「ぎゃ!」

 アランの眼には、何かの凄まじい力が、ニコラスを弾き飛ばしたように見えた。彼は雪の上をごろごろと転がり、うつぶせに倒れた。

 何が起こったのかと身体を起こすと、目の前にはアランより二回り以上大きな、真っ黒な影が不気味な声を放っていた。

「な……」

 驚愕の声も出ないアランは、目の前の巨大なハイイログマをただただ見つめるしかできなかった。恐らく、三メートル以上、軽く見積もっても六百キロはありそうだ。

(犬の死体に寄ってきたのか)

 まさかの闖入者に、アランは息を飲んだ。光のない真っ黒な眼がこちらを向いた。九ミリでは到底役に立たないだろう。熊の皮膚は分厚く硬い。カーボンナイフでも心臓には届かない。

 熊とアランは暫く睨み合っていたが、熊はふい、とアランに興味をなくしたように顔を背け、倒れたままのニコラスに近づいていった。

 ニコラスは動かない。此処からは死んでいるのか、生きているのかもわからなかった。

 熊は暫し倒れた男の臭いを嗅ぐと、それを獲物と判断したのか襟首を銜えて、ずるずると引きずっていく。アランは茫然とそれを見ていることしかできなかった。

 そして、彼等の姿は森の奥深くへと消え、二度と現れる事はなかった。

 

 その後、リズから事情を聞いたミルズ達は無事にアランと合流することが出来た。

 本隊からの応援が到着し、彼等は無事に任務を遂行することが出来たが、失ったものも大きかった。

 ミルズはニコラスの不祥事の責任を取り、除隊処分となったが彼を慕う隊員たちの嘆願により、彼はSWAT養成所の嘱託教官として残りの任期を全うした。

 リズはその後SWATを除隊し、警察学校の術科戦術教官として配属された。現在は同僚と結婚し、二児の母と警察学校教官として忙しい日々を送っている。

 後に、捜索隊が結成されたが、サム・ニコラス巡査部長の遺体は終ぞ発見されることはなった。

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