第8話


 シャワーを終えたバスローブ姿のトウコは、髪を濡らし艶めかしい雰囲気を醸し出していた。


「さっぱりしたわ。ツムギさん、お先でした」


「ん、私も浴びてくる」


 艶美なトウコから逃れる様に、私はバスルームに向けて足を進める。私にその気は無いのだけれど、今の彼女は目に毒だと感じた。


 バスルームへ入るために服を脱いだ時、下着や身体に黒い汚れが付いていることに気づく。駅前のお手洗いで着替えた時には焦りからか見落としていたが、前田さんの血が凝固したものだ。


「……落とさないと」


 身体に付いた血は洗えば何とかなるが、汚れた下着はどうしようもないだろう。ああ、こんな事なら下着の替えも買っておけば良かった。


 トウコが使った後で床の濡れたバスルームに足を踏み入れる。想像以上に広々としたバスルームだ。


 昔、曾おじいちゃんのお葬式でお父さんの実家に行ったとき、親戚一同が泊まるスペースが無く、近くのビジネスホテルに身を寄せたことがあった。あの時の浴槽の数倍は広い。


 当然といえば当然か。ここは二人での使用を想定されたお風呂なのだから。


 蛇口のハンドルを回すと、温かいお湯が全身を伝い心を溶かす。身体にまとわりついていた、前田さんの残滓もお湯の流れと共に排水溝へと落ちていく。


 髪と身体を洗い、穢れを落とした私は、バスタオルで全身についた水滴を拭う。


 これで綺麗になったのだろうか。指先を鼻に近づけると、リンスの香りに交じって僅かに血の匂いがする。


 バスローブを羽織って部屋に戻ると、トウコはベッドに腰掛け所在なさげに虚空を見上げていた。そこに表情らしいものは存在せず、顔のパーツは揃っているのにのっぺらぼうのような不気味さを感じさせた。


 なんだか友人が人間ではない、何か恐ろしいものに成ってしまった気がして、私は一瞬たじろぐ。


「ツムギさん、お帰りなさい」


「……ただいま」


 トウコは私の存在を認めると、すぐに表情が戻った。安堵と困惑が入り混じったような複雑な表情だが、それは間違いなく人間そのものだ。


「どうしたの?」


「いや、何でもない」


 あの表情の理由は私なのだろうか。私が前田さんを殺してしまった事が、トウコの事を追い詰めてしまったのだろうか。


 いや、もしかすると私の前以外でのトウコは、いつもあんな感じなのかもしれない。おおよそ人間らしい表情を持たない、不気味なのっぺらぼう。理解しえない存在に対する恐怖は、その存在を排除するか理解する事で解消できる。そして多くの場合、人間は前者を選ぶ。私は前田さんがなぜトウコの事をいじめていたのか、理解できた気がした。


 シャワーを浴びる前にトウコに感じていた変な気は失せていた。代わりに何とも言い難い気まずさを感じる。これはトウコに対する畏怖よりも、自分が殺した相手の事を理解した事が理由だと思う。


「それよりツムギさん。この部屋、出前が取れるみたいよ。そこのリーフレットに書いてあったわ。ホテルの名前と部屋の番号を伝えればいいみたい」


 確かに私たちはお昼から何も食べていない。胃の中はとっくに空っぽになっているはずだ。


 けれども、食事の事を考えると前田さんのはらわたが脳裏をよぎり、食道の奥に酸っぱいものが込み上げる。


「ごめん、私は食欲がわかないから、頼むならトウコの分だけにして」


「そう……ツムギさんが食べないなら、私もやめておくわ」


 トウコは残念そうに肩をすくめる。別に遠慮する事は無いのにと思いつつ、私もベッドに腰掛ける。


「ねえ、明日からはどうするつもり?」


「……どうしようか」


 とりあえず今日の寝床は確保できたが、ずっとここに留まる訳にもいかないだろう。こんな所に連泊していては、店員に怪しまれてしまう。


 それに、お金の問題もある。数日なら何とか生きていける金額は手元にあるが、その先は? できるだけ私たちの住んでいた町からは離れたいが、移動にもお金がかかる。


 何より警察の動向が分からない事が不安を駆り立てる。今の私たちの扱いはどうなっているのだろうか。家出少女として捜索されているのか、殺人犯として指名手配されているのか、はたまた全くのノーマークなのか。


 追われる立場というものは、想像をはるかに超える恐怖だった。できる限りの工作はして来たつもりだが、私の浅知恵でどれだけ追跡を巻くことができるのだろうか。もしかすると、眠っている間にこの場所へ警察が押しかけてくるかもしれない。


「……ごめん、明日からの事は明日考える」


 私は現実から目を背ける様に思考を放棄した。考えれば考えるだけ無駄なような気がして。


「わかったわ。それじゃあ、寝る前に一つだけ教えて」


 トウコは私をしっかりと見据えて、けれども少しだけ遠慮がちに言う。


「どうして前田さんを殺そうと思ったの?」


 ああ、やはりその話はしなければならないのか。トウコが疑問に思うのも当然だ。もしかすると、ここまでトウコがついてきたのも、この質問をする為だったのかもしれない。


「話さないとダメ?」


「私の為なんでしょ?」


 違う。と言ったら、トウコは傷つくのだろうか。正直に答えれば、トウコは私の元から去ってくれるのだろうか。


「ねえ、トウコ。……これから話す事は、別にトウコに気を使っての事じゃないから、言葉通りに受け取って欲しいんだけど」


 私は一瞬の躊躇いの後、あの時の正直な私の感情を伝える事にした。

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