第2話
制服に着替え、血で汚れたジャージと体操服でナイフを包み鞄に押し込む。
「は、早く行きましょう!」
「待ってよトウコ」
足早に教室から立ち去ろうとするトウコを慌てて追いかける。廊下には私たち二人以外に誰も居ない。教室を出てから思い至ったが、私とトウコがこの教室から出てくるところを誰かに見られれば、何と言い訳すればよいだろうか。
えっ、前田さん? ああ、さっき教室で会いましたよ。何か死んでるっぽかったですけど。……流石に誤魔化せてないか。
教室から出た私たちは階段を降り、昇降口に向かう。夕日の差し込む踊り場は明暗が色濃く浮き彫りになり、何とも物寂しい感傷的な気分にさせる。
「なんだお前たち。もう下校時刻は過ぎているぞ」
「あ、山本先生」
階段を下った一階の廊下で、理科の山本先生と鉢合わせしてしまう。
「すいません、私が忘れ……お手洗いに行ってて、トウコには待っててもらったんです」
私は忘れ物を言い訳にしかけて、慌ててトイレの話に切り替える。前田さんの死体が教室から発見されるのは時間の問題だろう。同じクラスの私が忘れ物を取りに行ったと言い訳をすれば、あの死体との関連を疑われてしまうだろう。
もっとも、疑うも何も関係ありまくりなんですけどね。
「ん、そうか。……二人とも顔色悪いが大丈夫か? 何だったら、親御さんに連絡して迎え来てもらうけど」
先生に体調の心配をされてしまった。
顔色が悪い? 当たり前だ。だって今、殆どの人が体験しないスリルで心臓が破裂寸前なんだから。
「大丈夫です、二人で帰れます。今日は早めに寝ます」
私が先生に応対している横で、トウコは震えながら私の腕にしがみついていた。これじゃあ、トウコが人を殺してきたみたいじゃん。
「ああ、そうしなさい。気を付けて帰るんだぞ」
「はぁい」
山本先生から解放され、ほっと胸を撫でおろしたのもつかの間、山本先生は去り際に「あ、そうだ」と何かを思い出した様子で私たちの方に振り向く。
「前田を見てないか?」
私は胸が締め付けられるのを感じる。腕も締め付けられるのを感じる。気持ちは分かるけど、ちょっと痛いよトウコ。
「前田さんがどうかしたんですか?」
「テニス部の柴崎先生が探してたみたいでさ。真面目なあいつが部活後のミーティングをサボったって心配してたんだ。忘れ物取り入って来るって言ったっきりらしくって。教室では見てなかったか?」
前田さんが真面目? トウコに散々嫌がらせしてたのに? 今まで一体何を見ていたの? あんた教育者向いてないよ。
「分かんないです。私たち、教室に寄ってないので」
込み上げる怒りをどうにか飲み込んで、できるだけ平静を装い言った。
「そうか……すまんな、時間取らせて」
「いえいえ」
今度こそ山本先生は私たちの前から立ち去った。ようやく解放された私たちは、昇降口まで全力で走り出した。下駄箱から靴を取り出し、下履きを代わりに入れる。
「あっ」
下駄箱に入れる瞬間、下履きに血が付いている事に気づく。私はスクールバックのチャックを開けて、乱暴に畳んだジャージの上から下履きを押し付ける様に仕舞い、力づくでチャックを閉める。ああもう、バックがいっぱいで張り裂けそうだよ。
「ツムギさん、早く」
「分かってるよ」
トウコに急かされた私は、慌てて靴を履く。そして、不安や緊張に追い立てられるように駆け足で校門から外へ出た。
前田さんの死体が見つかるのは、時間の問題だろう。隠ぺい工作をしたわけではないけれど、一晩ぐらいなら行方不明という扱いにならないかと期待していた。
しかしそれは希望的観測だった。先生たちは……少なくとも山本先生と柴崎先生は前田さんの事を探していた。きっと二人のうちのどちらかは、教室に前田さんが居ないか見に行くことだろう。
先生、ご心配には及びません。前田さんはちゃんと教室に居ますよ。死んじゃってますけど。
私たちの学校の前には長い下り坂がある。坂の両サイドにはソメイヨシノが等間隔に植えられており、私の所属する陸上部では心臓破りの桜地獄という愛称で親しまれているこの坂を、本当に心臓が破裂するのではないかと心配になる勢いで駆けおりる。
「ま、待って、ツムギさん」
普段から走り慣れている私でも、人を殺した緊張感の中で走るのは堪えるのだ。文化部に所属するトウコには、この全力疾走は無謀だった。今にも転んでしまいそうなおぼつかない足取りで、必死に私に追いつこうと坂を下っている。
やっぱりトウコはどんくさいなぁ。私は何故だか無性に嬉しくなり、元来た道を戻って息を切らすトウコに肩を貸す。
「ごめん、ちょっと本気で走りすぎた」
「はぁ、はぁ。足手まといで、ごめんなさい」
自虐。私はトウコの自己肯定感の低い所が少しだけ嫌いだった。
「ねえ、トウコ。これからどうするの?」
「どうするって……逃げるに決まってるわ」
「逃げるって、どこにさ」
「えっ……私の家とか?」
「すぐに警察が来ると思うよ」
トウコと私は遅くまで校舎内に居た事が先生にバレている。きっと疑われていないにしろ何か事情を知らないかと、トウコと私の家に警察が話を聞きに来るだろう。そして形式的にアリバイを聞かれ、誤魔化しきれずに怪しまれ、荷物検査で凶器発見。そんなシナリオが安易に考えられた。
「そ、それじゃあツムギさんの家とか……」
「それこそ、トウコの家よりも先に警察が来るでしょ」
「じゃあどこに逃げれば……」
逃げ場なんてある訳がない。そんな分かり切った事に気づいて、私の身体は震える。
「ねえ、トウコ。もう自首してもいいかな? さっきは逃げちゃったけど、今ならまだ許してくれるかもしれないし」
人を殺して許される事なんてあるのかな。自分の言葉の矛盾から目を逸らし、再び私は坂を上がろうとする。
「ダ、ダメだよ」
トウコは私の腕を掴んで歩みを阻む。
「トウコ、離してよ」
「ダメ。ツムギさんが捕まったら……」
トウコは悲痛な面持ちで言葉を紡ぐ。
「私、また一人になっちゃう」
一人になる? 一体トウコは何を言っているんだろう。人間なんて、友達と一緒に居ても、家族と一緒に暮らしていても、生まれて死ぬまでずっと一人じゃない。誰かと本質的に分かり合う術なんて、ある訳がない。
「……トウコは私と一緒なら満足なの?」
トウコは今にも泣きだしてしまいそうな表情で、うんうんと頷いて見せる。
「きっと今のアナタを分かってあげられるのは私だけだから……お願い、どこにも行かないで」
トウコはきっと何も分かっていない。私の恐怖も、この苛立ちも。軽いめまいと共に、殺意すら覚える。一体この子は何を考えているの?
「分かったよ。一緒に行こう」
それでも私はトウコの説得に応じて、坂を登る事を諦める。トウコの我儘に応じて振り回されるのは、いつだって私の役目だから。
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