逃亡少女と昨日の約束
秋村 和霞
第1話
夕暮れの教室は静まり返っていた。
まるでこの世界には私一人しか居ないような不安に襲われるほどの静寂。窓から外を見ると、野球部がグラウンドの片づけをしている。
ああ、よかった。まだこの学校に人が残っているんだ。
急な安心感と共に、目の前の現実が再び私の感情を揺さぶる。
「これ、どうしようかな……」
机と机の間に横たわるのは、同級生の
鮮血が黒く変色し始めていることから、死後三十分ぐらいは経っているだろう。
もしもこれが推理小説の世界なら、私は第一発見者として先生と警察を呼んで来る役割が与えられただろう。もしかすると、僅かに残された現場の情報から名探偵さながらに犯人を特定するという活躍ができたかもしれない。
「私が女子高生探偵……ちょっといいかも」
もしも探偵が私なら、助手は親友のトウコだろうか。いや、トウコはどんくさくて不器用で、何をやってもダメな子だから、助手の仕事は任せられないか……。
私はくだらない妄想で頬をほころばせるが、下校時刻を知らせるチャイムが鳴り現実に引き戻される。
何を考えているんだ私は。そもそもこの状況に探偵なんて出る幕ないじゃないか。
私は窓ガラスに映る自分の姿を見る。伸ばした髪を後ろで一つ結びにした、背が高い事が少しコンプレックスの私。血で汚れたジャージを羽織り、手には兄の部屋から拝借してきたサバイバルナイフを握ったままの私。事件発生からおよそ三十分間、現場で被害者の事をずっと眺めていた私。これが
「……こうやって見ると、やっぱり私って可愛くないよな」
トウコからは美形だと散々持て囃されているが、私から見ればトウコの方が何百倍も美人だ。恵まれたスタイルに艶のかかった黒髪。整った顔つきに色白で、どこか儚げな雰囲気を漂わせる。男子からの受けも良く、そのくせ気が弱い性格でコミュ障気味。だから前田さんやその取り巻き達からいじめの標的に選ばれるんだ。
っと、また余計な事を考えていた。下校のチャイムが鳴った事だし、そろそろ帰らなくては。
ジャージを汚して帰ったら、おかあさんは怒るだろうか。ああ、ジャージだけじゃなくて体操服や上履きも汚れてる。兄も勝手にサバイバルナイフを持ち出されて怒るかな。いや、お気に入りのナイフを血まみれで返されたら、怒る前に驚くか。なんだお前、人でも殺してきたのかって。
その前に先生を呼んでこなくちゃ。せんせーい、前田さんが殺されてます。犯人は私です。……理科の授業で使う顕微鏡を運んでいた時、つまずいて落として壊しちゃった時は、随分呆れられたっけ。お前、これいくらすると思ってるんだって。後で調べたら十万円以上していて、申し訳ない気持ちになって、将来はちゃんと税金払おうって反省した記憶がある。
今回も呆れられるかな。あはは、私もトウコの事を言えないぐらいどんくさいじゃん。
後は警察にも連絡しないとだめだよね。それと、救急車も呼ばなきゃかな。前にテレビで事故を起こした時に救急車を呼んだか呼んでないかで、払うお金が大きく変わるって言ってたし。特別セール、今なら救急車を呼んだ人限定で前田さんが五十パーセントオフ。なんつって。
そういえば、顕微鏡は十万以上したけど、前田さんの値段っていくらぐらいなんだろう? 臓器を売れば何百万というお金になるって聞いた事があるけど、それなら人一人分の値段って途方もない金額になるのかな。もし弁償ってなっても、私が一生働いて返せる金額だといいけど。
この前の授業で習った一万円札の人の言葉を思い出す。天は人の上に人を作らず。つまり人は生まれながらに平等って事だったっけ。
平等って同じ価値って事だよね。うーん……トウコに散々嫌がらせしていた前田さんと私が平等かぁ。なんだか釈然としないけど、もし本当に同じ価値なら、前田さんの命を奪った私は、警察に捕まったら死刑になるのかな。
当然と言えば当然か。だって私は他人の命を奪ったのだから。償う方法なんて、私の命を使うしかないよね。
急に寒気が襲う。心臓が高鳴り全身が震える。もしかすると……いや、もしかしなくても、私はとんでもない事をしてしまったのではないか。
スライド式の扉がガラガラと音を立てて開く。心臓がきゅっと縮こまるほど驚きつつ音の方に目をやると、そこには黒い髪をなびかせたトウコの姿があった。
「あ、ツムギさん。良かった、帰っちゃったかと思ったわ」
私の姿を見てどこか安堵した様子のトウコが教室に入って来る。しかしその表情はみるみる恐怖で歪んでゆく。
「トウコさぁ、悪いんだけど先生呼んで来てくれない? あと、警察と救急車」
「つ、ツムギさん。これ、ツムギさんがやったの?」
「……うん。はい、これ証拠」
私は手に握るサバイバルナイフを掲げて見せる。我ながらなんと悪趣味な事だろう。
トウコは惨状を見て吐き気を催したのか、口元を手で押さえる。怯えているのだろうか、小刻みに震えているのがここからでも見て取れた。一体何が怖いというのだろう。前田さんはもうあなたを追い詰める事はできなくなったんだよ。
ああ、違う。怖いのは私の事か。友達が人を殺すことのできる人間だったなんて、思いもよらない事だよね。安心して、私も私にびっくりしてるから。
「ほら、早く先生呼んで来てよ。じゃないとトウコの事も殺しちゃうかもよ」
「わ、私も殺すの?」
「あはは、冗談だって。トウコを殺すわけないじゃん」
私のかすれた笑い声が教室に響く。まったく、トウコのノリの悪さには呆れるなぁ。せっかく場を和ませようと冗談言ったんだから、笑えよ。
私の意に反して、トウコは怯えながらも私の元へ一歩一歩距離を詰めて来る。
「ねえ、トウコ。怖いならこっちに来なくていいからさ。さっき入って来た扉から廊下に出て、階段を下って二階の職員室に行って、部活の顧問とかでまだ学校に残っている先生を呼んできてくれない?」
「大丈夫……こ、怖くないから」
私の側まで寄って来たトウコが、震えた両手でナイフを持った私の手を握る。その様子はまるで、動物に触れる事を躊躇う子供みたいだった。
「どうしたの?」
「ツムギさん、今すぐ制服に着替えて。血の付いた体操服とこのナイフを隠して、逃げましょう」
トウコは恐怖と怯えと、少しの高揚が入り混じったような複雑な表情で言った。あはは、この子は何なんだろう。まるで自分が人を殺したみたいな顔しちゃってさ。しかし視線は真っ直ぐに私の両目に向けられていた。
やっぱりトウコは不器用だなぁ。これは私がしっかりしないと。
不思議な事に、私の震えは収まっていた。
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