Life after Divorce

Phantom Cat

1

 本日をもって、私は「大西おおにし 百合子ゆりこ」から、旧姓の「川村かわむら 百合子」に戻った。


 噂には聞いていたが、離婚届は本当に緑色だった。それに必要事項を記入するのが、二人の最後の共同作業。そして私は市役所の戸籍係にそれを提出し、そのまま受理された。

 十五年の結婚生活。交際期間も含めれば二十年近くになる。それなりに長いと感じていたが、終わるのは一瞬だった。


 離婚の原因は夫……いや、もう「元」がつくが……良祐りょうすけさんの浮気。それも相手は二人もいた。松田まつだ調査事務所の所長(にして唯一の所員)、松田 雄一ゆういちさんは評判通りの凄腕だった。夫とその二人の浮気相手の動向を完璧に押さえ、証拠を固めてくれた。夫は完全に白旗を揚げた。「好きなようにして下さい」と言ってうなだれることしか彼は出来なかった。夫に慰謝料は請求しなかったが、私はその代わり財産分与を放棄させた。結婚後の二人の貯金は一千万円ほど。それがそっくり私の物になる。十分だろう。


 浮気相手その一、中学教師の中田なかた 和美かずみは、むしろ被害者と言うべきだった。二十四歳。一年前に虫垂炎で県立病院に緊急入院したときの担当医が良祐さんだったのだ。彼は独身と偽り、彼女に交際を持ちかけた。結婚しよう、とまで言っていたらしい。舞い上がった彼女はすっかり彼と結婚するつもりになっていたのだが……私から内容証明郵便が届いて、凄まじく打ちのめされたようだ。一度私の家を訪れたとき、彼女は松田さんの撮った写真とは別人のようにやつれていた。玄関先で土下座をしようとしたので、私は慌てて止めた。


 "起きたことには善いも悪いもないの。いずれにせよ、あなたはなかなか出来ない経験をしたのよ。今後はそれを糧として、前に進んで行けばいいわ"


 私がそう言うと、中田さんは大声を上げて泣き出した。とても彼女から慰謝料を取る気にはなれなかった。そもそも取る理由もなかった。


 浮気相手その二、県立病院看護師の島田しまだ 明日香あすかは、誤用になるが「確信犯」だった。二十八歳。良祐さんとの関係は五年ほど続いていた。私を小馬鹿にしたような言動がしばしばあったようだが、松田さんがつぶさに記録してくれていた。それを材料に一千万円の慰謝料をふっかけているが、実は彼女とは未だに決着が付いていない。今後は示談交渉を進め、もし決裂すれば民事裁判に訴えることになる。慰謝料は大幅に減額になるだろうが、裁判になれば記録に残るので、彼女にとっては大きなダメージになるはずだ。


 そして今、私は「川村百合子 ピアノ教室」と看板のかけられた実家に帰ってきた。両親が相次いで鬼籍に入った二年前から、ここを住処すみかとしている者は誰もいない。と言っても、ピアノ教室主催者である私は、これまでもほぼ毎日のようにここに通っていたし、ここの名義も二年前から私の物になっている。ピアノ教師とピアニストとしては、私は旧姓の名前をそのまま使っていた。


 あの明日香とかいうバカ女は、夫婦で住んでいたマンションでも良祐さんと事に及んでいた。そんな場所にはもう一秒だっていたくなかった。だから私はそこを引き払い、この家に一人で住むことにしたのだ。


 それにしても……


 良祐さんにはもうとっくに愛想が尽きていたつもりだったから、一人になっても別に何も変わらないだろう、と思っていた。が、こうして本当に一人になってみると、月並みな物言いだが、やはり心のどこかにぽっかりと大きな穴が空いたようだった。凄まじい喪失感が、今の私の全てを支配していた。


 春の強い風が、玄関の前で立ち尽くしていた私を我に返らせる。


 ホームセキュリティを解除し、ドアを開ける。


 いつもの仕事場であるピアノ部屋を通り抜け、今ではめったに入ることのない居間に足を踏み入れる。


 かすかなホコリのにおいが漂う、よどんだ空気。障子戸から降り注ぐ夕日が、畳の上に落ちてそこだけを赤く染めていた。


 近所で遊ぶ子供たちの声が、かつて両親や妹とここで過ごした日々を、私の脳裏に蘇らせる。


 私の頬を、いつしか涙が伝っていた。


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