訃報
――その訃報が届いたとき、俺は事務所の夜勤担当と馬着を編んでいた。
「サードは見事に負けちゃったねぇ」
「PPK陣営も攻めてきてましたし、完全アウェーで三着は大健闘っすよ」
日誌を記入している夜勤の厩務員がカラカラと笑いながら言う。俺もそうだよねなどと相槌打ちつつ、針を進めていると傍に置いていたスマートフォンが着信を告げる。山田君だ。
「おや、珍しい」
「誰からですか? ……あぁ、山さんか。どうせ北海道でいい馬いましたよとかそんなんすよ」
「そうかもね。でもこんな時間にかけてくるのは珍しいな」
時刻は既に二十二時に近い。山田君は馬に関してはアレだが、一般常識は弁えているので急用でもなければこんな時間に電話をかけるなんて妙だ。不思議に思いつつも俺はフリックをして受話する。
「もしもし?」
『社長! 大変なんです。まだニュースにはなっていないんですが……』
「えー? 面倒ごと?」
『それどころじゃないですよ! イギリスの女王陛下が、崩御なされたんですよ』
山田君の言っている言葉の意味がまるで理解できなかった。いわゆる思考停止状態だ。
さきほどまで白湯を飲んでいたのに、ひどく喉が渇く。
生唾を飲んで、山田君に問う。なぜだか、口から発せられた俺の声は震えていた。
「なにいってるんだよ山田君。女王陛下は先日だって笑顔で競馬観戦してたじゃないか」
『……風邪からの肺炎で瞬く間に病状が悪化したそうです。ご高齢ですから仕方ないかと』
「そんな、そんな馬鹿なことがあるかよ!」
いつもは見せない興奮した俺の態度に厩務員が驚く。
「社長……?」
「ごめんごめん、山田君がおかしなこと言うもんだからさ」
『……社長。そこにいるのは大野さんですよね。代わってください』
「いやだね。山田君からドッキリでしたって聞くまでは……」
『代わってください! 社長は今冷静じゃありません。外に出て馬と触れ合うなり深呼吸をするなりしてきてください』
聞いたことのない山田君の怒声が電話口から響いた。思わず反射的に身を竦める。その隙をついて厩務員の大野さんがパシッと俺のスマートフォンを握った。
「俺になんか用なんでしょ? 山田さんが叫ぶなんてよっぽどですから」
「……うん、どうやら俺は冷静じゃないみたいだ。ちょっと外の空気を吸って来るよ」
膝にのせていた縫いかけの馬着を畳み、腰掛けていた椅子から立ち上がって厩務員室の外へ出る。十一月頭だというのにまだまだ夜は二十度前後だ。
大きく背伸びをして、空気をグッと吸い込む。頭に昇った血がゆっくりと降りていく。
「あれ? 鈴鹿さん?」
何度も深呼吸をしていると不意に声をかけられる。声の主を見ると、そちらには音花ちゃんがジャージ姿で立っていた。
「やぁ、日課のジョギング中かい?」
「はい。晩御飯を食べすぎたので今日は長めに距離を取って……。なんで泣いてるんですか?」
「え?」
目元を触る。いつのまにか涙が零れ落ちていた。自覚するとなおも涙が止まらない。
「弱ったな」
「ど、どうしたんですか!?」
音花ちゃんが俺に駆け寄り、肩にかけていたスポーツタオルで目元を拭ってくれた。
「なんでもない。なんでもないんだよ」
「なんでもないのに泣くわけないじゃないですか」
至極当然のことを言われ、俺は困った表情を浮かべて頬を掻く。
音花ちゃんが心の底から心配そうな顔を俺に向けているので、観念して胸の内を告げる。
「イギリスの女王陛下が亡くなられたんだ」
俺の言葉をなにも言わずに音花ちゃんは優しい笑みで聞いてくれる。
「それは、悲しいですね」
「そりゃいっぱい迷惑かけられたけどさ。やっぱり、急にいなくなられると、ね」
目黒さんは癌だとわかっていたから亡くなられたときも覚悟ができていたが、今回はあまりに急すぎた。年末にまた話ができると内心では楽しみにしていたのに、突然の訃報は心が追いつかない。
「……ふぅ。情けないところを見せたね。もう大丈夫だ」
「全然大丈夫って顔じゃないですか……。もうお仕事終わりでしょう? みんなでゆっくりくだらない話をしながらご飯にしましょうよ」
ね? と笑顔で俺の腕をとる音花ちゃん。その姿に俺の心の傷が癒される――。
「社長~。山田さんが代わってくれって言ってますよ……」
そこへ、外へ出てきた大野さんと鉢合わせる。
大野さんは一瞬で状況を理解したのか、にんまりと質の悪い笑みを浮かべて一言。
「未成年淫行はヤバいっすよ!」
俺の振るう、鞭よりしなる音花ちゃんのスポーツタオルが大野さんのどてっぱらにクリーンヒットし、彼の情けない叫び声が桜花島に響いた。
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