はいじゃないが
「はい」
「はいじゃないですけど」
「外務省を通じて中山大障害の日は、通訳として女王陛下の傍付きになってくれないかと要請が来ました。その日、ぼくはインフルエンザになろうかと思います」
「諦めてください。縛ってでも連れていきます」
事務所にて、大塚さんとウダウダ喋りながら書類を捌く。雑談の内容は女王陛下からの赤紙招集である。
「そもそも女王陛下にお目をかけていただけるだけで栄誉あることなんですから、諦めてご奉仕してください」
「じゃあ、大塚さんも一緒に行こうよ」
「その日は風邪をひく予定なので」
「何か月も先のことだよ!?」
俺たちがそんなふうにわーきゃーとやっていると、目に隈を蓄え、頬がごっそりとこけた市古さんが入室してくる。遠征の準備で死にかけているのだ。
「酷い顔だねぇ市古さん」
半分白目で市古さんは笑顔を作り。
「お金の計算と現地滞在の諸々を私がするしかありませんから……」
「スタッフが少ないのも考え物だね。収支から考えたら仕方ないんだろうけどさ」
「今どうにかなると考えていたころの私が目に前に現れたら、間違いなく玄界灘に叩きこんでます」
「疲れすぎて荒れてんねぇ」
俺はヘラヘラと笑いながらデスクの引き出しに入れておいた小切手を市古さんに手渡す。その光景を見て、市古さんは泣きそうになり、大塚さんは眉の角度が四十五度吊りあがった。
「社長! 小切手をそんな雑に保管しないでくださいとなんども!」
「身内に渡すもんだからいいかなって」
「もう! 私たちがもし魔が差したらどうするつもりなんですか!」
「それ言う時点で大丈夫でしょ。はい、市古さん。コレ、俺からのカンパね」
手渡された小切手の額を見て、市古さんはホロホロと涙をこぼす。ぶっちゃけ一連の流れが完璧にいかないとクラブが危うい状況だったから、俺からのカンパは天の恵みに近しいものがあるだろうな。
「これで、金銭面は悩まずともすみます。ありがとうございます社長!」
「うん、それは返さなくてもいいから。海外遠征に集中してね。ついでに女王陛下の接待も変わってくれると」
「それは無理です」
泣きそうな顔がスンっとなって無理だと告げられた。俺も市古さんの立場ならそうするけどさぁ。
◇
ムーラン・ド・ロンシャン賞。パリロンシャン競馬場で行われるフランス平地マイルの最高峰レースで、ジャック・ル・マロワ賞と並んで格式の高いG1指定レースである。
ファーストはその最高峰のレースに挑むわけだが、困ったことに……
「見事に避けられてんねぇ」
「しょうがないですよ。かなり前からムーラン賞に出ると言っていたんですから」
出走する馬が六頭しかいないのである。その理由はひとえにファーストが強すぎること、みんなマロワ賞に流れ込んでしまったのである。有給消化中の山田君とスターホースで管を巻きながら、マスター謹製のガーリックライスを口に運ぶ。
「山田君は現地で見るんだよね?」
「大塚さんに有給と代休をガッツリ使えって言われたので、せっかくですし凱旋門賞までフランス旅行を楽しもうかと」
「いいねぇ。俺もいきたいよ」
「社長が行くと面倒ごとが増えそうですもんね」
楽しそうに言うな。イギリスで海外に行くと変な交友関係が増えると俺は学んだんだ。
「海外旅行、いいですね。彼女も学校の研修でフランスにいるそうですよ」
「花蓮かぁ。服飾の学校だっけ?」
「そうですねぇ。本人がいないときは名前を呼んでるの面白いですね」
俺の疑問に山田君が答える。同じマンションで暮らしているので意外と仲が良いらしい。
「アイツ、名字で呼ぶと過剰に反応して笑えるからね」
「そんな首絞めると叫ぶアヒルの玩具じゃないんですから」
「似通ってはいるじゃん」
「否定はしませんけど」
山田君もわりと畜生だよね。
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