七月の夜のレース

「えらく人が少ないわね」


 厩務員用の休憩室でサセックスステークスの出走を待っていると、尾根さんが蛇口の付いたダンボール箱を抱えて入室してきた。


「深夜だからねぇ。音花ちゃんもほむらちゃんも、見るならば家で見るように促したし」


 時差の関係でサセックスステークスの出走時間は日本時間で日付が変わる直前だ。未成年の二人が牧場で観戦するのは責任者としてストップした。

 変な噂建てられても困るからね。関係者しかいないけどさ。


「お堅いわねー。アンタの解説を聞きながら見たいんでしょうに」


 ダンボール箱を部屋の机の上にセットし、紙コップを俺に渡してくる尾根さん。


「どもども。これは?」


「夜と言っても蒸し暑いですからアイスコーヒーをどうぞって、マスターからアイスコーヒー貰ったのよ。最近はこんなもんがあるのね」


 尾根さんはダンボールを突きながら、蛇口の下に紙コップを置いてそれを捻る。

 すると、蛇口から黒い液体がちょろちょろと出てきた。コーヒーの匂いがする。


「持ち帰り用のコーヒージャグだって。保温も凄いらしいわよ」


 へー。キャンプで使うウォータージャグの使い捨て品みたいなものか。


「他に誰か来るの?」


 ブラックそのままでコーヒーを啜りながら尾根さんが尋ねてくる。


「大塚さんが犬たちの散歩がてら来るらしいですよ。今が二十三時なんでもうちょっと後かな? 他は物理的にも来れないので…」


 広報は三人とも出張で島におらず、大塚さんを除く事務員は島外の住民なので無理。妻橋さんは有給休暇を消化してもらうために旅行をプレゼントしてるし、柴田さんはお嫁さんが島外に泊まりで仕事らしいので家にいないといけないのだ。


「みんな忙しいわねー。私の相方も島外住民だし、そんなものなのかしら」


「なんやかんや不便ですからね島暮らし」


 俺もコーヒーを注いで、ミルクとガムシロップを足す。

 うん、流石マスター。おいしい。


「もう慣れたからそうでもないけど、食事処がスターホースと伝説しかないのは不便よね」


 伝説とは島唯一の居酒屋だ。アーリーリタイアしたサラリーマンのおじさんが丹精込めて仕込んだ焼き鳥や鍋物なんかを提供してくれるので島民の評判がいい。年末には島内会の料理役としてマスターと一緒に頑張っている。

 食事が本当に美味しいので、ドラマの撮影に来たテレビ局のディレクターが別のディレクターに連絡し、輸入商のおじさんが各地の既存の飲食店で食事をする姿を映像作品に落とし込んだドラマで店を使わせてくれないかと要請が来たぐらいだ。

 一応、島の出入りの許諾が必要なので俺まで話が上がって来たから許可を出した。撮影は既に終了し、年末特番で放映されるそうだ。楽しみ。


「ホースランドパークにもレストランあるんですけど島民は行きませんからね…」


「遠いもの。アタシの家からだと車使って二十分掛かるのよ?」


 ちなみに俺のアパートからは三十分掛かる。


「島民の皆にアンケートを実施しないといけないかもしれませんね。必要な施設を追加する時が来たのかも」


「いいわね。住み始めは全部足りなかったから分からなかったけど、今なら何が本当に必要か出せる気がするわ」


 大塚さんに頼んでアンケート用紙作ってもらうか。


「島の話はこれぐらいにして、ファーストは勝てそうなの?」


 椅子に座った尾根さんが髪を手櫛で直しながら聞いてきた。


「まぁ、どうやったら敗けるか聞いたほうが早い程度には勝てそうです」


「凄い自信ね。腐っても海外戦でしょ?」

 

「今回の出走馬がそんなに粒ぞろいじゃないことと、洋芝のマイルってファーストが全力を出せる最高の条件なんですよ。

 屋根も今回は足立さんが渡航してますし、正直敗けるとしたら負傷のみです。それだけが本当に怖いです」


「国内じゃないから薬を打つにも戻ってくるまでに間に合わないものね」


「本当はあの薬を用心として輸出したいくらいなんですけどね。施術できるのが尾根さんだけですから」


「相方にも教えてあげたいけど怪我した馬が早々いるわけないものね」


「いいことですよ、それは」


 話はそのまま雑談に移っていき、合流した大塚さんと一緒に三人でレースを観戦。

 ファーストは見事に五馬身差で勝利し、見事に桜花牧場の海外レース初勝利を掴んだのだった。


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