最終戦前の厩舎にて

「いよいよですね!」


 特別に入れてもらった出走前の厩舎の中、山田君が小声で叫ぶという器用なことをする。

 そう、今日は有馬記念。年末のお祭りであり、我が愛馬グリゼルダレジェンの引退試合でもある。

 本来なら出走前に馬主とはいえども厩舎に入るなど御法度だが、中央の協会のお偉いさんが完璧なパフォーマンスで走ってほしいと気を遣ってくれて特別に許しが出たのだ。


「レジェン」


 短く声をかけると水を飲んでいたレジェンがこちらを向く。

 鬣を優しく撫でると目を細めて気持ちがよさそうだ。


「体重も、気合も、全てが整っています。正に完璧に仕上げました」


「ありがとうございます羅田さん」


 少し離れたところで厩務員と話をしていた羅田さんがこちらに近づいてくる。最初にあったころからは想像できないほどの笑顔だ。

 それほどまでにレジェンの状態が良い。


「彼女に出会って私の調教師としての人生は大きく変わりました。

 引退レースは私自身のノウハウを全て使い切ってます。これで負けたら仕方ありません」


「ははは。馬主の前でそれを言いますか」


「ええ、勝利しますから」


 羅田さんのにこやかな笑みの中にある眼の気迫が俺と山田君を貫く。

 うん、彼にレジェンを任せてよかった。


「それにしてもまた大外ですね」


 山田君が羅田さんの様子に興奮したままレジェンの枠番について口にした。

 そう、またしても8枠18番。結構な確率でレジェンはレースシーンにおいて十八分の一を引いてきた。基本的に大外は不利なんだがそれでも勝っちゃうんだもんなぁ。


「それなんですがね、この子に限っては大外の方が向いているのかもしれません」


 羅田さんがレジェンの鼻を撫でながら言う。


「それは一体?」


「一番得意な戦法が追い込みでしょう? 大外から一気に抜くのが好きなようで浅井騎手曰く鞭で追ったときのスパートの掛け方が全然違うそうなんです」


「屋根にしかわからない感覚って奴ですか」


 俺たちは平地で眺めるだけだから騎手にしかわからない馬の気持ちもあるのだろう。

 

「そういえば浅井騎手はどちらに? 今日は全然乗っていないようですが」


 山田君が疑問に思ったのか羅田さんに尋ねる。


「…引退レースに集中するために5レースに芝を確かめるために乗って、それ以降は集中するために瞑想しているらしいです」


「うーん、どっかの新田騎手みたいですね」


 どっかのってなんだよ。思い当たるの一人しかいないよ。

 

「前回の宝塚で乗れませんでしたからね。気合が十分すぎて空回りしないかが心配です」


「……まぁ、求道士みたいなタイプの性格ですから大丈夫でしょう。」


 我ながらフォローになってないな。


「ああ、レース場のスタッフからオーナーに引退式の打ち合わせがあるから本部までお願いしますと言付けを預かってます」


 意外とレジェンと触れ合える時間がなかったな。

 しかし、レジェンの有終の美を飾るための手間暇だ。真剣にやらないと。

 山田君に任せたいところだが動画の撮影があるから彼も彼で忙しいんだよな、今もカメラまわしてるし。


「じゃあ、そろそろ行くよレジェン」


 顎下を擦りながら顔を近づける。


「勝ってもいい、負けてもいい。でもなレジェン」


 レジェンのつぶらな瞳が俺をジッと見つめる。


「怪我だけはするなよ。殺し合いじゃなくてレースなんだ。勝っても負けてもみんな無事で終わらないとそれは失敗なんだからね」


 もう一度、顔全体を大きく撫でまわすとレジェンはヒンっと大きな声を上げた。


「頑張っておいで。牧場のみんなにお前の強さが届くようにね」



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