お馬探訪

「お馬さんが寝ているかも知れないから静かにね」


「はーい」


 厩舎入り口の木製引き戸を開けて中に入る。音に気付いたのか全頭が馬房からヒョコっと顔を出してくる。


「ふわぁ! お馬さん!」


「そうだね、挨拶できるかな?」


 梨花ちゃんを抱きかかえて、一番手前にいたロストシュシュの顔に近づける。

 梨花ちゃんは興味深そうにロストシュシュの鼻先を撫でた。


「あったかい!」


「お馬さんはお鼻でしか呼吸できないから、その周りはとてもあったかくなるんだよ」


「へー! なんでなんで?」


「お馬さんのお口は人間と違って、軟口蓋の後ろに喉頭蓋が触れ合ってるから、物を飲み込むとき以外はお鼻とお口がパックリ別れちゃってるんだ。だからお口で呼吸できないし、お鼻の大きなお馬さんは競走馬として才能があるんだよ」


「うーん、よくわかんない!」


 七歳に理解できると思ってないから大丈夫だよ。

 子供にも真面目に回答するのが俺の主義だが理解出来たら逆に怖いよ。


「この子もレースを走ったの?」


「そうだね。ロストシュシュは短い距離で頑張ったお馬さんなんだよ?」


「わたしも走るの得意!」


「じゃあロストシュシュにも勝てるかもしれないねー」


「うん! 頑張る!」


 柴田さんの娘ならワンチャンありそうで怖い。


「シュシュ、ありがとな」


 梨花ちゃんを抱っこしたまま、他の牝馬たちに触らせてあげる。

 うちの子たちは皆大人しいから特に気にせず触れられる。

 全頭と触れ合い、最後の一頭。彼女は繁殖牝馬用の大き目な馬房の中でゴロリと寝転んでいる。


「この子元気ないの?」


「確かにコズミ、…筋肉痛が多少あるけど元気は一杯のはずだよ。眠たいんじゃないかな」


 馬房の前で梨花ちゃんとおしゃべりしているとノソリと気だるげに立ち上がり、彼女は俺たちに向けて顔を差し出した。


「この子見たことある! 昨日見た!」


「今日のお昼にここに来たんだ。レアシンジュちゃんだよ。仲良くできるかな?」


「うん!」


 最後の一頭はレアシンジュだ。今日の昼に東京競馬場から直接輸送されてきた。螺子山さんと一緒にな。

 宴会では螺子山さんは天王寺さんに秒で飲みつぶされてたけど、明日の朝に彼女の様子を見てからレアシンジュ陣営の三人は帰る予定だ。レアシンジュが牧場に馴染めるかどうか心配なんだろうが六月に預かったときは何も問題なかったし大丈夫だろう。


「この子もう走らないの?」


「昨日のレースで引退したんだよ」


「なんで?」


「脚が折れちゃうかも知れないからさ。梨花ちゃんのお父さんや俺たちはお馬さんがそんなことにならないように仕事をしてるんだ」


「ふーん」


「あんまり興味ないかな?」


「お父さん汗臭いから嫌!」


 柴田さんかわいそうに…。父親が娘に嫌われるのは世の常か。


「でもお馬さんは好き!」


 それはなにより、柴田さんの好感度より重要だ。

 馬房の前で会話をしていると、レアシンジュが鼻をクイクイっと上にあげて撫でろとアピールした。


「梨花ちゃん、レアシンジュが撫でてってさ」


「いいこいいこ」


 梨花ちゃんは優しい手つきでレアシンジュの顎下を撫でる。それはこれまでを労うように。


「がんばったね」


 ぶふーっと鼻息を吐き出して目元をキリっとさせるレアシンジュ。きっと走り終わった後に天王寺さんや新田騎手に「頑張ったね」って言ってもらってたんだろうな。

 ひとしきり撫でられて満足したのかレアシンジュは馬房の奥に戻り、ゴロンと再び横になった。


「お眠だって」


「おやすみー」


 バイバイと手を振る梨花ちゃんを胸に抱えたまま、。入り口とは逆の引き戸から厩舎を退出し、大仲を挟んで反対側にある樫棟に向かう。

 

「こっちのお家にはなにがあるの?」


「ここはこれから走るための練習をするお馬さんたちのお家だよ」


 樫棟の引き戸を開けると、秋華棟とは逆に一頭も顔を出さなかった。みんな寝てんなこりゃ。

 なるべく音を立てないように中を歩くと、想像通りに殆どの馬が眠っていた。


「みんな寝てるね」


「お昼に運動してるからね。みんな疲れてるみたいだ」


「そーなんだ! わたしも学校で体育あった日はすぐ寝ちゃう!」


 健康的でよろしい。花丸をあげよう。

 一頭一頭見ていくと、じっとしてるが眠ってはいない仔馬がいた。モウイチドノコイの38だ。


「この子起きてる」


「そういや寝つきが悪いって言ってたな…」


 元々、サラブレッドは一日に三時間程度しか眠らないが、この子は特にショートスリーパーらしく夜間はとても神経質になると報告を受けている。


「眠くないの?」


 馬房から顔を出したので鼻先を撫でながら梨花ちゃんが問う。答えてくれりゃ楽なんだけどな。

 すると、モウイチドノコイの38が梨花ちゃんの手をカプカプ甘噛みしだした。


「でたいのー?」


「かもしれないねぇ。俺がいるし大丈夫か。

 梨花ちゃんちょっと下りてくれる?」


 はーい、と小声で元気な言葉を出す器用な梨花ちゃんを下ろして、馬房にかけてある南京錠のロックを外す。ガラガラガラと音を立てて馬房の引き戸を開けてモウイチドノコイの38を誘導する。


「こっちだ」


 うちの子たちは頭絡を付けなくても素直についてきてくれるから楽でいい。

 厩舎から少し離れた放牧地に連れていくと、モウイチドノコイの38はのんびり歩いて回り始めた。

 少々暗いが放牧地は設置された投光器が夜間照らされているため危険はない。

 

「楽しそう」


「遊んでくるかい?」


「うん!」


 わーい、と走り出しモウイチドノコイの38に近づいていく梨花ちゃんの後ろを歩いていく。


「お馬さんの後ろに立っちゃダメだよ!」


「はーい!」


 近づいてくる梨花ちゃんを警戒してピタリと止まるモウイチドノコイの38。逃がさないようにこちらもピタリと止まる梨花ちゃん。

 スッと左に抜けようとするモウイチドノコイの38を体を動かしてブロックする梨花ちゃん。逆に抜けようとすると梨花ちゃんも同じようにして千日手。なにあれ面白。


 数回それを繰り返すと諦めたのか、その場に寝転がりゴロゴロと転がるモウイチドノコイの38。

 それを見て楽しげに写真をパシャパシャ撮る梨花ちゃん。約束通りフラッシュは焚いていない。

 よきかなよきかな。





 この後、迎えに来た柴田さんが梨花ちゃんを仲良く抱っこしている姿を見て暴れそうになったのでお嫁さんがコブラツイストで沈めたのは別のお話。


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