第3話 保険医の誘導尋問

「お、やっと来たか」


 こちらを向いて足をくみ、まるで待っていましたと言わんばかりの体勢の保険医、橘先生。

 三十代前半ぐらいで、瓶底眼鏡と無精髭、良く言えば無造作ヘア、悪く言えば「寝起きですか?」と尋ねたくなるボサボサの髪が特徴的な先生だ。

 保険医として清潔感が感じられないのはいかがなものかと思う。


 結城君は椅子の上に私をゆっくりとおろしてくれた。

 今の動き、上腕二頭筋に中々いいよ。


 ダンベルだ。

 私は彼の筋力トレーニングに使用された人型のダンベルなんだと強く言い聞かせてみても、教室からここまでずっと横抱きで運ばれた羞恥心は拭えない。

 途中誰にもすれ違わなかった事と、先生が何もそこに触れてこない事だけが唯一の救いだった。


「腕の怪我、見てあげて下さい」


 結城君の言葉に、今最大のピンチに陥っていた事を思い出す。

 先生にこの腕を見られるわけにはいかない。絶対に。


「だ、大丈夫です! 結城君が手当てしてくれたので、大丈夫ですから! 本当にありがとうございました! 私はこれで……」


 椅子から慌てて立ち上がり出て行こうとしたら、ちょうどドアを閉めていた結城君に出口を塞がれた。


「僕がしたのは応急処置だから。きちんと消毒しておいた方がいいよ」

「だそうだ。はい、腕出して。治療がおわるまで、お前さんはここから出られないぞ」


 前には心配そうにこちらを見つめる結城君。

 斜め後ろには傷の手当てをしようと待ち構えている橘先生。

 その時、先生から少し離れた位置にある窓が目についた。

 一階だから逃げれない事もない。

 しかしここまで優しくしてくれた結城君にものすごく失礼な事だと思いとどまった。

 この場は、どうやら従うしかなさそうだ。

 椅子に座りなおして、先生に腕を見せる。


「これはひどい。誰にやられたんだ? 自発的に作れる傷ではなさそうだが……」


 私の腕の傷を見て橘先生は、ボリボリと頭をかきながら顔を歪めた。

 無数についた、×の印。今日出来た傷から古いものまでかなりの数が刻まれている。


「同じクラスの女子……だったよね、確か。名前と顔が一致しないから詳しくは分からないけど」


 答えたくない私が無言で居ると、結城君が代わりに答えてくれた。 


「なるほど。お前さん、どうしてこんなにされても全然保健室に来ないんだ?」

「お願いです。この事は黙っていてもらえませんか?」

「このままいじめを見過ごせと?」

「私、頑丈ですから大丈夫です!」

「それは出来ないな。担任を交えて、一度話を。ご家族の方にも連絡する必要があるな」

「家族には、これ以上心配をかけたくないんです。だからどうか、黙っていてもらえませんか? お願いします……」

「そう言われてもだな……お前さんがこうやって被害に遭ってるんだ。何も手を打たないわけにはいかないな」


 どうしたらこの件を大事にせず処理できるか。

 先生を納得させれるだけの理由を早急に考えなければいけないけれど、良い案が全く思い浮かばない。


「ところでお前さん、犬は好きかい?」


 傷の手当てをしながら、橘先生は唐突に質問を投げかけてきた。


「家でも飼ってますし、好きですよ」

「口は堅いほうかい?」

「はい。秘密はきちんと守ります」

「一つ良い案を思いついたんだが、やってみないか?」

「家族に黙っていてもらえるなら……」

「交渉成立だ、よかったなコハク」


 内容も聞かずに返事をしてしまったけど、よかったのだろうか?

 まぁ、家族にバレないならそれだけでありがたい。

 もうあの時のように、余計な心配はかけたくないし。

 そんな事を考えていると、不意に後ろから抱きしめられた。

 後ろから肩を抱くように回されたこの手は、間違いなく結城君のものだろう。


「ありがとう、一条さん!」


 生まれてこのかた恋などしたことのない私は、年齢=彼氏居ない歴を地で行く侘しい女だ。

 勿論男の人に抱き締められるなんて経験がそうそうあるわけもなく、一気に身体が硬直した。


 (そ、その動きは……一体どこの筋肉に効くのでしょうか?)


 落ち着け、落ち着くんだ私!

 外国ではハグは挨拶だ。結城君がどこの国から来たのか知らないが、彼にとってその行為にきっと深い意味はない。

 何に対するお礼かは分からないが、単なる挨拶みたいなものだ。


 先生だって何も突っ込まずに「よし、終わったぞ」と包帯を巻き終えたじゃないか。

 過剰反応し過ぎて自意識過剰な女だと勘違いされるのも何かむなしい。 

 そう考えている間に結城君は私から普通に離れた。

 何事もなかったかのように平静を装って振り返ると、私は別の意味で驚かされた。


「そ、それって……」


 結城君の頭の両端に、普通の人には無いものがついていたから。

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