応援と立場の狭間で

ウンジン・ダス

応援と立場の狭間で

 西嶋彩知香はいじめられっ子だ。

 体操服を隠される、机に落書きをされる、ロッカーにゴミを詰め込まれるetc。

 不細工で、小太りで、冴えない容姿をした彩知香は格好のターゲットだった。

 その先頭に立って笑っているのが私、工藤利奈だった。友達やクラスメイトと一緒になって次は何をしてやろうかなんて相談しているときはとても楽しくて、酷いことをされるたびに小さく嗚咽を漏らしながら涙を流す彩知香を見て嗤っていた。

 それでも彩知香は学校に来て、授業を受けて、放課後はふらりとどこかへ行ってしまう。

 もちろん、友達やクラスメイトだって部活だったり、遊びだったりで教室からすぐにいなくなってしまうから、彩知香の秘密を知っているのは私だけだった。

「利奈ー、帰らないのー?」

 友達のひとりに呼ばれて、けれど私は申し訳なさそうな表情を作って、片手を立てたまま拝むようにした。

「ごめーん、最近ママがパート始めちゃってさー、家のことしないといけないから付き合えないんだわー」

「何それー。まぁせいぜい頑張りなさいよねー」

「うん。また明日ねー」

「うん、また明日ー」

 そうして教室からクラスメイトがみんな出ていった後、私はこっそりと教室から出て、普段使う校舎とは別の、音楽や美術などで使う特別棟に向かった。

 向かうは音楽室。

 もうそこでは単調なピアノの音が流れていて、もう練習しているんだと感心した。

 1階にある音楽室の外の壁に寄りかかって座り、そのピアノの音を聞く。単調だけどよどみなく流れるピアノの音。それがひと段落したのか、いったんピアノの音が止んだときを見計らって私は声音を変えて声を発した。

「練習熱心だね。今のがブルグ……ブルゲ……?」

「ブルグミュラーだよ。小さいころに練習する練習曲なんだけど、指を慣らすのに弾き慣れたこの曲が一番しっくり来るの」

 彩知香は教室での陰鬱な雰囲気とは打って変わって明るい調子ではきはき答えた。

「ふぅん、そうなんだ。で、今日は何の練習をするの?」

「そうだね。これなんかどうかな?」

 そう言って彩知香はピアノを鳴らす。叙情的で優しい旋律が開け放たれた窓から私の耳に届いてくる。

 聞いたことのある曲だなと思いながら、彩知香が奏でるピアノの旋律に身を委ねる。

 数分の小曲らしく、すぐに終わってしまって、何だか名残惜しい気持ちになりながらも、どんな曲なのか尋ねてみる。

「クロード・ドビュッシー作曲の『亜麻色の髪の乙女』だよ」

「なんか聞いたことあるようなないような……」

「名前は知らなくてもきっと聞いた覚えはあると思うよ。とっても有名な曲。叙情的で優しくて、わたしは大好きな曲のひとつ」

「ふぅん、そうなんだ。このごろ熱心だよね、暑いのに。ほぼ毎日音楽室使ってるじゃない」

「うん、コンクールが近いからね」

「コンクール? どんなの?」

「全日本学生音楽コンクールってコンクール」

「すごいの?」

「うん、もう70年以上も前からある由緒あるコンクールなんだ。ここでキャリアを磨いてピアニストになる人もいるくらいだよ」

「へぇ、すごいじゃん! そんなのに出られるの!?」

「出られるって言っても出るのはまだ予選だけどね。9月の上旬にピアノ部門中学生の部の予選があるの。だからピアノが使えるときは使いたいって思ってね」

「家じゃ練習できないんだっけ?」

「うん。ピアノって高いしね。それに結構大きな音が出るから近所迷惑だし。夜9時を過ぎればピアノの先生の家で使わせてもらえるから、それまでの練習は学校のピアノ使わせてもらうことになるかな」

「ピアニストになるためとは言え、大変だねぇ」

「でも好きだから。それにこうして聞いてくれる人もいるしね」

「そっか。予選、通るといいね」

「うん」

 そんな会話をしてから彩知香は再びピアノの鍵盤を弾き始めた。

 今度は聞いたこともない曲だった。

 でも軽やかに指が動いているのであろうことを容易く想像させるそのリズムと、最後の両手のユニゾンがおもしろい曲だなと思いながら、その曲を下校時間まで演奏し続ける彩知香のピアノを、私は聞き続けた。


 夏休みに入って私は彩知香のピアノが聞けないことが唯一の不満だった。

 もちろん、友達と遊びに行ったりするのは楽しい。けれど、5月に彩知香が音楽室のピアノを使って演奏しているところを聞いて以来、彩知香のピアノの虜になった私はどうしてもあのピアノが聞きたくてしょうがなかった。

 とは言え、彩知香にとって私はいじめのリーダー格で内心では憎らしく思っていることだろう。

 私も突然彩知香にピアノを聞かせてくれなんて頼んだりなんかして、それをクラスメイトや友達に聞かれでもしたらどんなことになるかは火を見るよりも明らかだった。

 だから音楽室の壁に隠れて、声音まで変えて私だと気付かれないようにしてずっと音楽室でピアノの練習をする彩知香を見守り続けてきたのだ。

 そんな私はふとしたことで学校に用事ができたので、暑い日差しの中、空色のノースリーブのワンピースに麦わら帽子を被って学校を訪れた。

 何のことはない。夏休み前に借りた図書室の本を返し忘れて、返しに来なさいと先生からわざわざ電話されたのだ。

 面倒臭いことになったとは思えど、返さないと何度も催促されるのは目に見えている。

 ならばさっさとすませて帰ってしまおうと思って図書室に向かった私は、特別棟に入った途端、微かに聞こえるピアノの音に気付いた。

 これはと思って急ぎ足で図書室に行き、図書委員の小言をはいはいと聞き流していつもの音楽室の壁に貼り付く。そしてそぉっと気付かれないように窓から中を覗いてみると、そこには床に2リットルの水のペットボトルを置いて一心不乱にピアノを弾いている彩知香の姿があった。

 久しぶり、と言うほどでもないけれど、夏休みに入って初めて聞く彩知香のピアノ。

 これは前に聞いた課題曲だろう。ショパンのエチュードのなんたらとか難しいことを言っていた気がするけれど、最後の両手のユニゾンだけは聞き間違えようがなかった。

 どれくらい同じ曲を弾いていただろうか。

 ピアノの音が止んで、ごくごくと水を豪快に飲む音がこちらまで聞こえてきた。

「…夏休みまで練習してるんだね」

 いつものように声音を変えて声をかける。

「ひゃぁっ!」

 するといかにもびっくりしましたと言わんばかりの小さな悲鳴が聞こえた。

「あ、驚かせちゃった? ごめんごめん」

「あぁ、あなたなの。どうしたの? 夏休みなのに学校に来るなんて」

「いやー、ちょっとポカをやらかして呼び出されちゃって。そしたらピアノの音が聞こえたからもしかしてと思って来てみたんだ」

「そうなんだ」

「コンクールの練習?」

「うん。コンクールがあるからって音楽の先生に頼み込んで夏休みも使えるようにさせてもらったの。だから夏休みは毎日音楽室に来てるよ」

「えー、そうだったんだ。教えてくれれば聞きに来たのに」

「ふふ、お世辞でも嬉しい」

「お世辞じゃないよ。私、あんたのピアノ好きだよ。クラシックとか詳しくないからよくわかんないけどさ、あんた、すんごい楽しそうにピアノ弾くじゃん? 軽やかで、弾むようにさ」

「そうかな? 先生にはもっと重みをつけなさいって言われることはよくあるんだけど」

「そうなん? まぁそこは私にはよくわかんない領域だから専門家に任せるけど、私は今のあんたのピアノが好き。だから聞きたいって思う」

「ありがとう。でもコンクールには正確性も要求されるからね。楽譜の指示通りに重みのあるところは重く、軽く弾くところは軽く弾くことが求められるから、きちんと先生の言うとおりにしないと予選すら通過しないと思う」

「そっか」

「でも好きって言ってくれて嬉しい。たったひとりでもそう言ってくれる人がいると、何だかすごいピアノやっててよかったなって思うよ」

「難しいんだね、コンクールって」

「うん。でもピアニストになるためにはこれくらいでへこたれてちゃダメだから。練習して、練習して、練習して、せめて本選までは進みたい。そのためにはとにかく練習あるのみだから」

「うへぇ、私には到底真似できそうにないや」

「ふふ、そうでもないと思うよ。きっと本当に好きなことが見つかれば、そのことに突き進んでいけると思う。ただ、まだあなたにはそれが見つかっていないだけの話で、わたしにはピアノって言うものがあった。ただそれだけの違いだと思うよ」

「そうかなぁ。まぁあんたがそういうならそうなんだろうね。ねぇ、しばらく聞いててもいい?」

「もちろん」

 笑みを含んだ声で言われて私は黙る。すると今度は別の曲を弾き始めた。

 夏休み前に聞いた話だと、課題曲がふたつあって、ひとつはバッハとか言う作曲家のピアノ曲3曲のうち1曲を選んで演奏し、もうひとつはショパンと言う人の曲2曲、またはモシュコフスキーとか言うやたら言うのがめんどくさそうな名前の作曲家の1曲のうち、どれかを抽選で選んで弾くらしい。

 なので彩知香は4曲のピアノ曲を楽譜なしで弾きこなさないといけないことになる。

 私はクラシックなんてずぶの素人だし、作曲家の名前だってベートーベンくらいしか覚えていない。

 けれど、彩知香のピアノは不思議と私の琴線に触れてきて、いつまでも聞いていたい気にさせられる。

 不思議なものだった。

 クラスでは陰鬱で、不細工な彩知香がピアノを前にすると友達やクラスメイトの誰もが持ちえない輝きを纏っているように感じる。

 もちろん、私だって彩知香のような輝きなんて持ち合わせていない。

 将来の夢だって彩知香みたいにピアニストになりたいなんて明確なビジョンがあるわけでもなく、よりいい高校に進んで、いい大学に進んで、それから就職して……そんな曖昧なビジョンしかない。

 だから憧れているのかもしれない。

 もう確固たる夢を持っていて、それに向かって頑張っていられる彩知香を、心の根っこでは羨ましいと思っているのかもしれない。

 もしそうだとしても、それはさしたる問題ではない。

 夏休みになって聞けないと思っていた彩知香のピアノを聞く機会がこれで得られたことのほうが今の私には重要だった。


 彩知香は本当に毎日音楽室に来て練習をしているようだった。

 もちろん、私にだって予定はある。友達と遊びに行ったり、本当にパートに出掛けるようになっていたママの代わりにパパと自分の簡単な昼食を作ったり、はたまた宿題をしたりして聞きに行けないときがあった。

 でも話を聞いてみると、図書室の開放日、息抜きに宿題をする以外、彩知香は連日音楽室でピアノを弾いているとのことで、8月も半ばの暑い時期でも汗だくになりながら練習をしているらしかった。

 そんな彩知香のピアノを私は午前中だったり、午後だったり、飲み物を買ってきて音楽室の壁に寄りかかって聞いている。そんな日々を続けていた。

 もうこのころには楽譜は暗記してしまったようで、日ごとに変わるピアノの音色を聞きながら、この音色がコンクールでも通用すればいいのにななんて思っていた。

 軽やかに、弾むように――ピアノを弾くと言うことが本当に楽しいと思わせられる音色はこんなにも私の心を掴んで離さない。

 今日も午前中のうちに彩知香のピアノを聞いて、このままずっと聞いていたい気持ちを抑えながら帰った私はパパと自分のためにそうめんを茹でてお昼ご飯にして、午後からは友達と遊びに出掛けた。

 友達と遊ぶのは楽しい。

 他愛ないお喋りで笑ったり、カラオケで盛り上がったり、はたまたマックでおやつ代わりのポテトを食べたり――でもそんな中でもふと彩知香のピアノのことを思い出しては、今もまだ音楽室で練習しているんだろうかと思うことがしばしばあった。

 そんなときは決まってボーっと彩知香のことを考えているらしく、友達にもしかして好きな男でもできたのかとからかわれることがよくあった。

 好きな男の話ならもうとっくに友達に話している。私だって人並みに恋愛経験はあるし、付き合った男子だっている。そういうときは友達に助力を仰いでうまくいくように取り計らってもらったりしたけれど、彩知香のことは友達には言えない。

 だってこうして他愛ない雑談をしている間も、ときどき彩知香の名前が出てきて、家で根暗にゲームでもやってんじゃないの? なんて噂しながら嗤っているのだ。

 実際は音楽室でコンクールに向けて毎日ピアノの練習に余念がないのを知っているけれど、それは決して言えない話だからだ。

 だから、スマホが友達なんだよ、だなんて話を合わせながら友達の前では彩知香の悪口を言う。こういうとき、少し胸が痛む。彩知香の頑張りを知っているし、応援もしているから本当は彩知香はすごいんだとわかっていても、彩知香のことを庇ったりしたらいついじめのターゲットが私に移るかわかったものではないからだ。

 いじめる側のリーダー格として君臨しているからこそ、私はクラスの中で孤立することもなく、友達ともうまくやっていけているのだから。

 失ってはならないクラスでの立ち位置と、彩知香を応援したい気持ち。

 そのはざまで揺れながらも、このまま姿も見せず、声も変えて、私だと気付かれずに彩知香を応援することができればそれでいい。

 いつか本当に彩知香が有名なピアニストになったとしても、中学のあのころ、応援してくれていた生徒はわからずじまいでもそれでよかった。

 ときどきでもいい。

 彩知香が中学のころ、ピアニストになる夢を応援してくれていた名も知れぬ生徒がいたことを覚えていてくれさえすれば。


 夏休みも終わって学校が始まっても、彩知香の立ち位置は変わらなかった。

 席替えがあって彩知香の前後の席になった男子と女子は、嗤いながらばい菌が移るとか言って彩知香を泣かせていた。

 そんなふたりに、今度アルコール消毒液持ってくるわ、なんて言いながら私は彩知香のことをますます泣かせていた。

 それでも彩知香は毎日学校に来て、授業を受け、ピアノの練習をして、コンクールの予選に向けて頑張っていた。

 もうすぐ予選だ。

 練習に熱が入る彩知香のピアノを聞きながら、私はどうか予選を通過しますようにと願ってやまなかった。

 だって何百人と受ける全国の予選の中で、全国大会に進めるのはたった4人だけなのだ。

 その針を通すよりも難しいような狭き門を通過しなければ、彩知香のピアニストになると言う夢は踏み止まらざるを得なくなる。

 それにここで全国大会へ進むことができればキャリアになって、音楽科のある高校にだって進むことができる。そうすればもっといい環境でピアノのレッスンを受けることができるだろうし、ピアニストになる夢も大きく前進することができるだろう。

 そうして迎えた予選の日。

 私は予定を入れずに、家でじっと彩知香が予選を通過しますように、そしていい演奏ができますようにと願いながらその日を過ごした。

 彩知香の話だと本選への通過の可否がわかるのは10月。

 その本選での審査を経て、全国大会への切符を手にすることができるらしい。

 もう夢を持って頑張っている彩知香の努力が報われるように、私には願うことしかできなかった。

 そして月日は流れ、予選の結果が出たころ。

 いつものように放課後、彩知香は音楽室のピアノに、私は壁に寄りかかってその音色を聞いていた。

 よどみなく流れるピアノの音色。

 これはいつか聞いた曲だった。確か彩知香は『亜麻色の髪の乙女』だと言っていただろうか。彩知香が好きで、私も何度も聞いているうちに好きになった小曲だ。

 その小曲を1曲演奏し終わってから彩知香はいったん演奏の手を止めた。

「予選、どうだった?」

 このところずっと気になっていたことをようやく尋ねる。

「うん、通過したよ」

「マジで!? やったじゃん!」

「うん。でも本選通過しないと全国大会には出られないからまだまだ練習しないと」

「全国って東京大会でたった4人しか通過しないんでしょ? でもあんたならできると思うな。これだけ頑張ってるんだもん。音楽の神様だってあんたの頑張りは見てると思うよ」

「そうだといいな」

「いいなじゃなくてきっとそうだよ。私だって応援してるし」

「うん、ありがとう」

 そこで会話が途切れる。こういうときは決まって彩知香はピアノの練習を再開するのだけど、なかなかピアノの音色が聞こえてこない。

 どうしたんだろう? と思っていても姿を見せられない私は壁に寄りかかったまま、彩知香がピアノの練習を再開するのを待つしかできない。

「本選、通過できるかな」

 不意にぽつりと彩知香が呟いた。

「そんな弱気でどうするの。絶対通過してやるんだ! ってくらいの気持ちでいないと通るものも通らないよ」

「ふふ、そうだね。あなたの言うとおり。ここで躓いてちゃピアニストになる夢も夢のままで終わっちゃうよね」

「そうだよ。私はずっとあんたのこと応援してるから」

「どうしてそこまでしてくれるの?」

「どうしてって……。私はクラシックのことなんかぜんぜんわかんないけど、あんたの弾くピアノの音が好き。それだけじゃ理由にならない?」

「ううん、すごく嬉しい」

「じゃぁあんたがピアニストになったら私がファン第1号ね。約束だよ」

「うん、わかった。ピアニストになれて、コンサート開くときになったら絶対に招待するね。工藤さん」

「え?」

 名前を呼ばれて、声を変えるのも忘れて間抜けな返事をしてしまった。

 どうして?

 当てずっぽう?

 でも名前を呼ぶとき、迷いがなかった。

 いつから気付いていた?

 でも私だって気付いていて、どうして彩知香は何も言わずに私がピアノの練習を聞いているのを咎めたりしなかったのだろうか?

 答えの出ない問いばかりが頭をぐるぐるしていてどうしていいかわからない。その場を立ち去ることも思い付かず、ただどうしてばれてしまったのだろう? と思うばかりだった。

 そんな私の内心に気付いてか、彩知香は静かな足音をさせて私のほうにやってきた。

「やっぱり工藤さんだった」

 窓から見下ろされて、私は顔を上げてはにかむように笑っている彩知香を見上げた。

「どうして……。いつから気付いてたの?」

「夏休みには気付いてたよ。工藤さんは隠れて、声も変えてたつもりだろうけど、これでもわたし、4歳のころからピアノやってるんだ。だから耳には自信があるつもり」

「でも普段の声とは違うように……」

「そんなのすぐにわかるよ。工藤さんがふざけて声を変えたりして話してたのを聞けば、ピアノの練習をいつも応援してくれる人と同じ声の人だってすぐに気付いたよ」

「でもなんで……。私、あんた……彩知香のこと、いつもいじめてたのに……」

「うん。最初は同一人物だって思いたくないくらいだったよ。でもいつも真剣にわたしの応援をしてくれる工藤さんだったから、きっと何か事情があるのかもって思ったの」

「事情なんて……。ただいじめる相手がいれば、私がいじめられる側にならないから……。ただそれだけなのに……」

「それもひとつの事情でしょう? いじめられるのはひどく悲しいけど、工藤さんはそれを補ってくれるくらい私のことを真剣に応援してくれた。予選だって、私のピアノが好きだって言ってくれる工藤さんに恩返しができるようにって頑張れた。だから、わたしの中ではプラマイゼロ」

 そう言って笑った彩知香の顔を正視できなくて、私は俯く。

「でも、だからってどうしてそんなふうに笑えるのよ……」

「だって工藤さんは私のファン第1号なんでしょう? ファンを大切にできないとピアニストは務まらないよ」

「彩知香……」

 私は彩知香の心の広さに恥ずかしくなった。

 私だったらきっとこんなふうには笑えない。

 曲がりなりにも私は先頭に立って彩知香をいじめていた側なのだ。もし自分が彩知香の立場だったらきっと私は私を許さないだろう。

 それなのに彩知香はずっと応援してくれていたからと言う理由でプラマイゼロだと言ってくれる。

「ねぇ彩知香……」

「何?」

「私、これからも彩知香のピアノ聞きに来てもいいの? 彩知香を応援しててもいいの?」

「もちろん。誰かから応援されることがこんなにも力になることを教えてくれたのは工藤さんだよ?」

「ありがと……」

 俯いた顔から一粒、涙が落ちた。


 飽きた。

 私は彩知香をいじめることについて、そんなふうに言って関わらないようにした。

 もちろん、すぐにいじめが終わるはずもない。だから傍観者を決め込むことにしたのだけど、止めない以上私だって同罪だ。

 でもこれがきっかけになればと思っての行動だった。

 もしかしたら私が彩知香をいじめることをやめたせいで、他の誰かにターゲットは移るかもしれない。それが私だと言う保証はどこにもない。

 けれど、きっと心から彩知香を応援するためには私自身が変わらなければファン第1号だなんて言う資格はない。

 そして今日も私は音楽室でピアノの練習をする彩知香を、壁に寄りかかって聞く。

 まだ隣に立って聞く資格も、勇気もなかったからだ。

 でも彩知香はそんな私にいつものように軽やかで、弾むようなピアノの音色を届けてくれていた。

 いつか彩知香がピアニストになったとき、必ず招待すると言ってくれたその言葉を信じて、私はエールを送り続ける。

 頑張れ、彩知香!

 と。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

応援と立場の狭間で ウンジン・ダス @unfug

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ