第59話 虚脱感


「あなたをこの世界から消し去る。それが私の望み」


「そんな……」


「でも、彼も驚いてたわ。元々壊れてる人間なんて、初めてだったもの」


「……」


「親を殺しても動じない人間なんて、どうしたらいいのか分からなくなってた。だからね、ちょっとだけ私も協力したの」


「……どんなことを」


「あなたへのメッセージよ」


「……」


「彼の力を使って、あなたが眠ってる時に体を乗っ取った。大変だったわよね、奈津子。あんなに頑張って書いたのに、私に破られて。ふふっ」





 奈津子の脳裏に、切り裂かれたノート、そしてそこに書きなぐられたメッセージが蘇る。

 そして思った。


 小太郎が家に来た次の日の朝。小太郎は私を見て怯えていた。

 それは夜、鏡の奈津子が私の体を使い、狂気に歪んだ顔でノートを切り裂いていたのを見ていたからだった。

 豹変した私に、恐怖したに違いない。


 誰も入っていない筈の部屋で、メッセージを残していた犯人。

 それが出来るのは自分だけだ。

 こんな簡単な推理が、どうして出来なかったんだろうと悔やんだ。


「あなたを壊す為に、私は彼に協力することにした。でもあなたは、どんなことがあってもダメージを受けなかった。例え受けたとしても、数日もあれば元に戻ってしまう。それはそうよね、元々壊れてるんだから。

 だから私は出て来ることにした。ぬばたまの力を借りて、あなたの前に」


 鏡の奈津子が自嘲的な笑みを浮かべる。


「ぬばたまが言っていることが嘘で、私の存在が消えるとしても構わない。私にとって大切なこと、それはあなたを殺すことなんだから」


 奈津子ががっくりとうなだれる。

 ついに分かったぬばたまの正体。目的は自分の体を奪うこと。

 そして、自分の中にいるもう一人の自分が、その為に協力していた。


 自分は壊れていた。

 鏡の自分も壊れている。

 何もかも、全てが壊れている。

 この世界だって、壊れているのかもしれない。

 自分の中にある価値観が、音を立てて崩れていくような気がした。





 その時携帯がなった。

 机に向かう力も出ずにうなだれていると、鏡の奈津子が呼びかけた。


「ほら、電話だよ。出なさいよ」


 唇を歪めて笑う。

 奈津子は力なく立ち上がり、携帯を手にした。


「……もしもし」


「奈津子か、わしだ」


 宗一だった。


「体調はどうだ? 少しは熱、下がったのか」


「うん、大丈夫……おばあちゃんの具合はどうだった?」


「……」


 奈津子の問いに宗一が沈黙した。それが答えなんだと、奈津子が理解する。


「おじいちゃん……私は大丈夫だから。教えてもらえますか」


「奈津子……分かった、落ち着いて聞くんじゃぞ。

 ――先ほど、ばあさんは息を引き取った」


 その言葉に奈津子は、全身の血が逆流するような感覚を覚えた。両の目は見開かれ、涙が溢れてきた。


「奈津子……奈津子、大丈夫か」


「……大丈夫、大丈夫だから」


「……病院に着いてすぐに、ばあさんは意識を失った。心臓の疾患だったらしい。もう手の施しようのない状態になっててな、そのまま集中治療室に入った。

 しばらくして意識が戻ったんじゃが、ばあさん言っとったぞ。なっちゃん、ありがとうって」


 奈津子が携帯を握り締める。


「お前と暮らしたこの二か月、本当に楽しかった。こんな幸せな気持ち、陽子を産んだ時以来だったと言っておった……もっとたくさん話したい。料理も教えたいし、出来るものなら、お前が嫁に行くまで生きていたかった。でも、それが我儘わがままだということも分かってる。我が子を不幸にしてしまった自分に、そんな資格はないんだと。

 それでもばあさん、最後は笑顔じゃった。本当に安らかな顔でな、あの世に逝った」





 奈津子の脳裏に、多恵子との思い出が蘇る。

 本当の家族って、こういうものなんだろうな。

 母さんの温もりって、こういうものなんだろうな。

 何気ない出来事に笑い、優しい言葉を紡ぎ合う。ずっと望んでいた幸せを、彼女は与えてくれた。


 もっともっと話したかった。もっともっと、触れ合いたかった。

 でも……ぬばたまによって、彼女は唐突に人生の幕を下ろされた。

 確証はない。でも自分にとって、それほど多恵子の存在は大きかった。彼女との別れが、私を壊す有効な手段と思われたのだろう。

 そしてそれは見事に的中した。

 今、私の心は震えている。

 亜希や小太郎の時にも感じなかったこの気持ち。

 喪失感、絶望感。

 奈津子は自身の運命を呪った。


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