撫子の約束
― これは、僕の初恋が、ちゃんと続いた話。 ―
春の風が、制服の袖口をくすぐっていく。
始業式を終えた校門の前、人波をかき分けるようにして歩いていると、ふと見覚えのある背中が視界に入った。
小柄で、細い腕に少し大きなカバン。
風に揺れる髪の色も、背筋の伸ばし方も、記憶の中と変わらない。
「……久しぶり、だね。」
そう声をかけると、その背中がぴたりと止まった。
振り返ったその人は、目を丸くして、でもすぐに微笑んだ。
「……おかえり。」
「うん、ただいま。」
まるで、春が連れてきたみたいだった。
あの日突然いなくなってしまった初恋が、何事もなかったように僕の前に立っていた。
それからの日々、彼女はまた僕の生活に少しずつ入り込んできた。
気づけば図書室でよく一緒になるようになったし、席が近いこともあって、ちょっとしたことで話しかけるようにもなった。
「これ、返すね。」
ある日の放課後、彼女は一冊の文庫本に挟まれていた小さなボールペンを差し出してきた。
透明なキャップに、青いインクの細い芯。
「中学のとき、借りたままだったから……ずっと返したかったの。」
「……覚えてたんだ、それ。」
「うん。なんかね、返すタイミングなくしちゃって。」
彼女は少し照れくさそうに笑った。
僕の胸の奥で、記憶の中の彼女が少しずつ“今”と重なっていく。
ある日は昼休みに、僕が本を読んでいたら、彼女がとなりに腰を下ろしてきた。
「ねぇ、その作家、私も好きなんだ。」
そこからは、読む本の趣味や、音楽の話、小学校時代の給食の思い出に至るまで。
思ったよりたくさん話す子だったんだなと、驚きながらも嬉しかった。
笑うと目元が少しくしゃっとなる。
黙ってるときは空の色みたいに静かなのに、話し始めると、春の陽だまりみたいな温度をもって僕の心に触れてくる。
ある日は雨の日の下校中。傘を忘れた彼女に、僕は自分の傘を差し出した。
「それじゃ、君が濡れるじゃん。」
「いいんです。俺、こう見えて折りたたみ持ってるんで。」
本当は持ってなかったけど、それは黙っておいた。
駅までの道、同じ傘に入った肩先がときどき触れて、鼓動の早さをごまかすようにどうでもいい話ばかりしていた。
そんなふうに、季節のように少しずつ、ゆっくりと。
彼女はまた、僕の“日常”になっていった。
「ねぇ……私、また、引っ越すかもしれないの。」
その言葉を聞いたのは、そんな毎日が心地よく続いていたある放課後だった。
「北海道。今度は、たぶん遠いよ。」
図書室の窓の向こうで、風が桜の花びらを運んでいく。
その視線を追いながら、彼女はぽつりと呟いた。
「……でも、伝えたいと思ったの。
言わなきゃ、また後悔すると思ったから。」
ほんの少し間を置いて、彼女は僕の目を見つめる。
「好き。中学のときから、今もずっと。」
その瞬間、胸の奥に確かに火がついた。
鼓動が速くなるのを感じながら、僕は口を開いた。
「……撫子。」
彼女の瞳が、かすかに揺れた。
「俺も、ずっと思ってたよ。
離れても、ちゃんと君が好きだって言える自分でいたいって。」
彼女は目を潤ませながらも、しっかりと僕を見て、そして笑った。
「……じゃあ、がんばろっか。」
「うん。がんばろ。」
そんなふうに、二人の春はもう一度始まった。
あれから数ヶ月。
彼女は今、北海道で新しい制服に袖を通している。
普段はLINEで他愛もない話をしているけど、僕らには一つだけ、決めたことがある。
月に一度、必ず手紙を送り合うこと。
画面越しでは伝えきれない気持ちを、丁寧に文字にして綴る。
見慣れた淡紅色の封筒を開けると、彼女の少し丸い文字が並んでいて、ページの端には押し花がそっと添えられていた。
今月は、淡いピンクの小さな花。
添えられていた一文には、こうあった。
「この花、花言葉は“いつも思う”。
今も、ずっと、君のこと思ってるよ。」
そっと目を閉じると、春の風のような彼女の声が聞こえた気がして、僕は静かに微笑んだ。
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