第58話 気づいた気持ち(ティナ視点)

 食堂から出て廊下を見回すと、ソフィはちょうど裏口から畑に向かおうとしているところだった。私はソフィがドアを開く前に呼びかける。


「ソフィ、ちょっと待って」

「……何?」


 するとソフィは一応動きを止めて、私のことを振り返ってくれた。


「何か悩み事があるなら私が聞くけど……フィリップ様と仲良くなりたいのには理由があるの?」

「別に」


 私とは話したくないとでも言うような拒絶を感じる。でもここで踏み込まなかったら、これから先ソフィが心を開いてくれることはない気がする。


「他の人には絶対言わないから。私にだけ教えてくれないかな。もしかしたら力になれるかもしれない」

「……頼んでない」

「私が聞きたいの。聞かせてほしい」


 腕を掴んで真剣な表情で顔を覗き込むと、ソフィは一つため息を吐いて私のことを睨んできた。そして食堂の方を気にして誰もいないことを確認すると、小声で口を開く。


「フィリップを射止められたら玉の輿だから。王子様は無理だけど貴族様なら可能性はあるって聞いた。マティアス様よりはフィリップ様の方が好みだった。ただそれだけ」


 私はソフィのその言葉を聞いて、最初は意味を理解できずに固まってしまった。射止めたいって……それって、結婚したいってこと?


「ティナ先生はフィリップ様達と仲が良さそうだから私の敵。敵とは仲良くしちゃダメって教えてもらった。だから話したくない。……もう良い?」

「ま、待って、ちょっと待って。フィリップ様と結婚したいとか……そういうこと?」

「違う、結婚は無理って聞いた。でも愛人なら可能性あるって」


 愛人になるなんて……現実のものとして考えたことがなかった。というよりも、教会に入る前に散々愛人にならないかと言われたから嫌悪感すらある。

 

「それは、誰に教えてもらったの……?」

「名前は知らない女の人。スラム街にいた。女がスラム街から這い上がる唯一の方法だって言ってた」


 確かに貴族様に見染められて愛人になれば、スラムの生活から抜け出せて食べ物の心配をする必要はなくなるのかもしれない。一応間違えてはいない主張だけど……、それは相手に完全に依存するということだ。

 最低な相手だったらスラムと変わらない酷い扱いかも知れないし、途中で捨てられるかもしれないし、どう考えても幸せな未来は思い描けない。


 ソフィはその女性の言葉を鵜呑みにしてここまで来てしまったのね……別の選択肢もあると教えてあげられるのは、もう私しかいないかもしれない。ソフィの人生はまだまだこれからだ。愛人なんかじゃなくてもっと幸せな人生があるはず。


「ソフィ、ちゃんと聞いて。もう今までのように苦しまなくて良いの。この孤児院で十五歳まで楽しく生活して、孤児院を出るまでに仕事を見つけて、その後は大変なこともあると思うけど幸せな生活を送れる。そんな未来がこれからのソフィにはあるのよ。無理に愛人なんて道を選ぶ必要はないわ」


 ソフィは私のその言葉を聞いて、瞳をぱちぱちと瞬かせた。思わぬことを聞いたとでもいうような表情だ。


「仕事なんて……ないでしょ?」

「ううん、これからはある。フィリップ様達がこの国を良い方向に変えてくださっているから、皆が仕事を見つけて毎日ご飯が食べられるようになるわ」

「……でも、女の幸せは愛人になることだって」

「それは間違いよ。ソフィはよく知らない人に依存して好きに扱われて、それが幸せだと思う? それに私はスラム出身だけど教会に雇ってもらって、今は孤児院の先生をしてる。私の人生は幸せじゃないの?」


 私の言葉はソフィへと確実に届いているようだ。他の意見なんて聞かないと、頑なになってなくて良かった……


「先生は、幸せなの?」

「もちろん。今の私はとっても幸せよ」

「……そっか。ちょっと、考えてみる」


 ソフィは神妙な表情で頷くと、少しだけ微笑みを浮かべてくれた。その表情には子供らしさも窺えて、私は安心してホッと息を吐いた。


「ありがとう。じゃあ一緒に畑まで行こうか」


 そう声を掛けて手を差し出すと、ソフィは躊躇いながらも手を伸ばしてくれた。凄く素直な子だからこそ、女性の言葉を鵜呑みにしてたのね……この様子なら大丈夫そうだわ。


 畑に向かうとフィリップ様達も既にいらっしゃって、子供達と一緒に畑を耕していた。私達が裏口を塞いでいたから表から出たのかしら……あとで謝っておかないと。


「あっ、ティナとソフィ来たんだ。大丈夫だった?」


 私達の姿に気づくと、フィリップ様は木製のくわを近くにいた子に渡して、私達の元までやって来てくれた。


「はい。ソフィと仲良くなりました」

「それは良かった。ソフィ、俺以外とも仲良くする気になった?」


 フィリップ様がソフィの顔を覗き込みながらそう聞くと、ソフィは素直に頷いた。するとフィリップ様は何を思ったのか、ソフィの頭に手を伸ばして優しい笑顔で撫で始める。


「ちょっ、ちょっと、私子供じゃない」

「え〜、まだまだ子供だよ」

「フィリップ様の方が子供。私の方が歳上」


 ソフィが顔を真っ赤にして恥ずかしそうに言ったその言葉に、フィリップ様が何かに気づいたような表情を浮かべて、バツが悪そうに手を引っ込めた。


「ごめん、その……弟妹がいて、なんとなくお兄ちゃん目線になっちゃって」

「もう、気をつけて」

「ごめんごめん。これからは気をつける」


 ソフィはフィリップ様の手が触れていた頭を自分の手で優しく触って、凄く嬉しそうな心からの笑みを浮かべた。そして何かを吹っ切ったように畑まで駆けていく。

 私はソフィのその表情を見て、焦りを感じると共に自分の気持ちに気づいてしまった。


「……ィナ、ティナ?」

「あっ、す、すみません。なんでしょうか?」

「ソフィが元気になって良かったねって。結局なんで俺のことを気に入ってくれたんだろう」

「それはよく分かりませんでしたが……フィリップ様が素敵なお方だからだと思います」


 本当のことを言うのはソフィのためにも止めようと思い、私は自分が心から思っていることを口にした。するとフィリップ様は照れたような笑みを浮かべて、少しだけ俯く。


「ティナにそう言ってもらえると嬉しいな。……ありがとう」


 そしてそんな殺し文句を口にして、私の顔を下から覗き込んできた。……何だろう、なんて表現すれば良いのか分からないけど、とにかく心臓がうるさい。

 不敬にも弟のようだと思っていたのに……いつからこんな気持ちが芽生えていたんだろう。フィリップ様のことが好き……なんて。


 私って歳下が好きだったの? でもフィリップ様は歳下って感じがしないのよね……話し方もふとした時に見せる表情も大人びていて、歳下どころか実は歳上なんじゃないかと思うこともある。でも見た目はまだ可愛らしさが抜けていない男の子で……


 ああ、混乱する! 自分の気持ちが分かっても結局混乱するんじゃない。でも……気持ちに気づいたからか、心が温かくて幸せを感じる。

 フィリップ様は公爵家嫡男で私は孤児。絶対に結ばれることはないだろうけど、思っているだけなら許されるかしら。


 ――フィリップ様、申し訳ございません。密かに思いを寄せることだけはお許しください。


 私は心の中でそう謝罪をして、フィリップ様の顔を見返した。今は可愛らしさも残っているけれど、成長したら絶対に貴族女性が放っておかない容姿になるだろう。成長したお姿を見るのも楽しみだわ。


「ティナ、皆のところに行こうか」

「はい」


 畑に戻るフィリップ様の後ろ姿を目に焼き付けて、私も皆のところに向かうために一歩を踏み出した。

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