置き傘

小狸

置き傘

 突然の雨だった。

 家では夕食を食べ終わった後、皆で明日の天気予報とニュースを見る習慣がある。

 確かに今日はくもりと出ていたのに、外は見事に雨が降っていた。

 教室の中で、私はひとりでいた。

 皆は下校した後である。

 帰りの会で、先生が「降水確率は六十パーセントだった」などと言っていた。後でお父さんにどういうものか訊いてみよう。

「…………」

 先生が来ると色々と訊かれて面倒なので、教室の電気を消した。

 どうやら担任の先生は、私が虐待を受けていると思っているらしいのだ。

 その噂を立てられるとお母さんに怒られる。

 それが一番、面倒だ。

 まだ三時なのに、教室がとても暗くなった。

 普段学校では大抵電気が付いている。

 それに、夜近くなってから校舎の中に入ることなんてほとんどない。

 ただ照明を消し、雲のせいで少しくらいというだけなのに、いつもの学校とはまるで雰囲気が違う。全く別の世界に迷い込んだみたいだ。

 何だか特別な、不思議な気持ちになった。

 怖い、とか、落ち込む、とか、そういうものとは違う。

 嫌な気分では、ないと思う。

 ああ、そうか。

 ここには私ひとりしかいない。

 その現実が、私をこんなにも安心させてくれる。

「……はあ」

 溜息を吐いた。いつもならお父さんに怒られるところだが、今は誰も私を叱らない。それに、別に落ち込んでいるという訳でもないのだ。

 何となく、席に着いた。

 ちょっとだけ、片思いの男の子の席に座っちゃおうかな――と思った。

 しかし一秒程後、誰かに見られたくはないという念の方が、一瞬だけ勝った。

 ぐっと我慢して、私の席に着いた。

 振り返って、掃除用のロッカーの中の傘立てを見る。

 そこにはやはり、傘は無かった。

 私の通う小学校には、置き傘というシステムがある。

 急な雨の日に濡れて帰ることがないよう、あらかじめ学校に一本、傘を置いておくというものだ。学期初めに持ってきて、学期終わりには持って帰る。そうすれば、登校する時に傘を持ってこなくとも万全、というものである。

 もちろん私も、置き傘を置いていた。

 去年の春休みに、お母さんに買ってもらった傘である。間違えて誰かが持っていったら困るということで、初めて買うものを選ばせてもらえた――お気に入りの傘だった。

 五時間目が終わり、帰りの会が終わり――ちょっとトイレに行って、さあ帰ろうと教室に戻ってみたら、しかし。

 その傘は、教室からなくなっていた。

 誰かが盗ったのだ。

 人を疑うなんて良くない、と思うかもしれないけれど、いやいや待って欲しい。

 雨が降ってきた給食の片づけの時、私は一度置き傘コーナーを確認しているのだ。

 その時は間違いなく、傘はそこにあった。

 そして今、私は傘を持っていない。

 つまり、そういうこと、だ。

「……あーあ、怒られるなあ、お母さんに」

 教室が暗いのも相まって、なんだか私の声も、ちょっと暗い。

 自分の声はあまり好きではない。

 女の子っぽくない、ちょっと低めの声。

 可愛くない。

「…………」

 どうして私は、ここに残っているんだっけ――と思ったけれど、そうだ。雨が止むまでちょっと待っていようと思ったのだった。

 机に身体を預けて、窓を見た。

 相変わらず灰色だった。

 雨の音も、ラジオのようにずっと響いていた。

 なんだかなあ。

 そう思った。

 誰かが傘を盗ったのだ。

 誰が盗ったのかは、分からない。特徴のある傘だから、犯人を見つけることは頑張ればできるだろう。

 頑張れば、だ。

 好きな傘、だったんだけどな。

 前にも、お気に入りだったボールペンを失くしてしまったことがあった。

 ずっと筆箱のジッパー付きのポケットの中に入れていたボールペン。

 給食の配膳をするために教室を離れて、それから五時間目に筆箱を開けたら、そこにはもう無かった。別に高いものではなかったけれど、先生は話を聞いてくれなかった。

 ――そんなものを学校に持ってくる方が悪いのよ。

 ――ボールペンは書くものでしょう。

 ――これ以上面倒を増やさないで頂戴。

 ――あなたも学級委員なら分かるでしょ、山本さん。

 ――そんなボールペンがなくなったくらいで、騒がないで。

 ――それどころじゃあ、ないのだから。

 その時の先生の目は、本当に面倒ごとを見た時の目だった。

 丁度、妹が泣いてぐずった時の、お父さんが私達に向ける目と一緒だ。

 まあ、うちの学年は荒れているから、仕方ないんだと思う。

 塾で他の学校の子たちが噂していた。

 そう、私が、我慢しなくちゃ。

 そんなことで折れちゃ駄目。

 ちゃんと、しなきゃ。

 頑張って傘のことを忘れようとしたら、勝手に涙が溢れてきた。

 それにどういう意味があるのかは、私には分からない。

 

 ■


「え、何泣いてんのー? どうしたのよー、もうー」

 私の隣の席に、誰かいると気付いたのは、それから少し経ってからの話である。

「…………」

 見知らぬ女の子だった。

 隣の机の上に、お行儀悪く腰かけている。スカートなのに足を開いていて、見ていて危なっかしい。

 髪の毛は、散切りとでもいうのだろうか。短髪ではあるけれど、適当に切ったかのようにざっくばらんである――なのに妙に似合っている。

 その前髪の隙間から、ぐりんと大きな目が覗いていた。

「え、えっと」

「あ、涙止まった、良かったー」

 にぱ、という効果音でも付きそうに、女の子は笑った。

 少なくとも、五年生の女子ではない、と思う。

 見たことがない。

 しかし、いつだ? 

 先生の警戒はしていたつもりだったけれど、人の音なんて、しなかった。

「あー、あ? あー、そっかそっか、うちのこと見るの、初めてだっけー、ま、そうだよね。伊絵ちゃん」

「どうして私の名前、知ってるの?」

「そりゃ、いつも見てるからねん」

「……?」

「あ、そうね。うーん、ほら、名札に書いてあるじゃん。山本やまもと伊絵いえって」

「ああ……」

 そういえば、胸に名札をつけっぱなしだった。最近は学校に置いておくように指示がされている。不審者とかいるし。ならば、この子は。

「あなたは、ここの学校の人?」

「そだよー、六年生。ほらほら名札をみたまえみたまえ」

 誇張するように、その子は名札を見せてきた。

 六年二組二十番、捻金ねじかねひかり

 クラス番号は見えなかった。

「捻金光だよ。伊絵ちゃんは特別にひかりって呼んでいいよ」

「えっと――捻金、さん」

「ひかり」

「…………ひかり」

「それで良いのだ」

 頭をでられた。

 何だか不思議な気持ちになった。

 誰かを呼び捨てで呼ぶなんて、久しぶりだった。人を呼び捨てで呼ぶのは、この五年生では禁じられている。

 苗字で○○さん、だ。男子でも女子でも、○○さん。だから人の下の名前を、私たちはあまり覚えていない。

「ひかりは、どうしてここにいるの?」

「んー、や、ほら。なんか五年生って大変そうじゃん? だから、時々ずっと上から見てたって訳」

「ふうん」

 上、というのは上の階だろうか。

 確かに六年生の教室はこの上ではある。

 見えるものなのか。

「まあ、先生も先生だよねー、お前らは荒れてて駄目なんだって、全員に言わなくともいいのにねー。全員が全員荒れているわけじゃないのに、連帯責任ってのもねー。手一杯なんだったら、誰かに頼ればいいけど、人に話してる感じもないし。このままだと完全に崩壊しちゃうねー。ま、きっとここの先生なら、それも全部生徒のせいにするんじゃない? 良くなろうとしないこいつらが悪いって」

「…………」

 そう言われても、あまり思うことは無かった。

 この学校に思い入れはあまりない。

 クラスメイトにも、教室にも、先生にも。

 けれど――ひとくくりにお前も駄目と言われるのは、良い気持ちではなかった。

 良くなろうとしない。

 でも、ならばどうすればいいのだろう。

 誰も味方になってくれない中、人からいじめられようとも、馬鹿にされようとも、正義であれ、と。

 それはとても難しいことなのではないのか。

 明日学校に笑顔で行くためには――そういう何かへ反抗するのは、止めた方が良い。

 私の心を包む理性が、刺すようにそう言った。

 何かしようとしたこともあった。仲の良かった友達がいじめを受けて、それを庇った。

 その結果が、今の孤立だ。

 友達が泣いているのを、見たくなかった。

 でも、非難やいじめの嵐に耐えきれる程に、私の心は強くはなかった。

 弱い。

 正しいとか正しくないとか、友達を助けた時には、そういうことは考えなかった。

 でも――誰かがきっと、私をも助けてくれるんじゃないか、なんて思っていたこともある。

 雨を降っているところに、一緒に入ろうって、言ってくれる人がいるって。

 いなかったなあ、そんな人。

「ま、そんなことはどーでもいーや。何泣いてんのさ、伊絵ちゃん」

「ん、ああ。うん、傘、盗られちゃって」

「あー、そうなんだ。クラスでいっつもひとりじゃん。なんで? 一匹狼的な?」

 ストレートに聞いてくれたお蔭で、私も変に戸惑うことなく、話すことができた。

「うん。幼稚園から一緒の友達がね、いじめられてて、それ庇ったら、私がいじめられた」

「へえー、何、もの投げられたりとか?」

「んー、どっちかって言うと、無視かな」

 酷いことを言われたり、殴られたりする方が、分かりやすくてまだマシだったかもしれない。

 それなら、痛いだけで済むから。

 我慢すれば良い、だけだから。

「『あいつとは話さない協定』を皆で結んでるらしくってね。一日誰とも話さない日とかあるよ」

「へー、寂しいね」

「別に寂しくないよ」

 寂しいとは、多分思っていない。

 いじめから庇った友達も、私を無視していたとしても。

 そういうものなのだ。

「先生は何してんのさ」

「なんか、面倒事を起こされるのが嫌みたい。いじめられる方が悪いとか、色々言ってたね」

 大人たちは言った。

 ――弱いあなたが悪いのだ。

 ――どうしてそんななのに、人を庇ったりしたの。

 ――いじめられる方にも責任があるんだ。

 ――いじめた子が学校に来れなくなっても良いのか。

 ――これ以上クラスをかき乱さないで。

 まるで本当に、私が悪いみたいに。

「別にね、私、正しいとか正しくないとか、そういうこと思って、庇ったわけじゃないんだ。ただ、泣いててさ。友達が。嫌でさ。だから、止めなよって言った。それって、間違ってたのかな」

「格好いいじゃん。うちはできないな。そこまでのこと」

「でも、返ってこなかったんだ」

 感謝してほしいなんて思っていない。

 褒められたいなんて考えなかった。

 でも――誰かが一緒に立ち向かってくれるって期待は、どこかにあった。

 そんな風に、状況を変えたいと思う人が、いると思っていた。

「いなかったよ。いなかった。いなかったなあ、そんな人」

「そっか。じゃ、いなくなっちゃったわけだね。一緒に傘を差してくれる、友達が」

 その時のひかりの口調は、ふざけてはいなかった。。

 また涙が出そうになって、頑張って飲み込んだ。

「んじゃ、これ、貸したげる」

 どこかから傘を取り出して、ひかりは私に差しだした。

 黄色い傘だった。一年生が使うような色ではあるけれど、暗い教室の中では綺麗に映えていた。

「え、でも、これ、ひかりのでしょ。私に貸したら、ひかりがびしょ濡れになるよ」

「いいのいいの。私はもう一本折り畳み持ってるし、まあうちの傘ってよりかはうちそのものみたいなものだからさ」

「ひかりそのもの?」

 その言葉の意味は分からなかった。

 だからそのまま疑問を発したけれど。

 でも、心では――ひょっとしたら私は理解していたのかもしれない。

 未来を照らす、黄金こがね色。

 幼稚な傘の恥ずかしさなんて飛んで行ってしまいそうな、彼女の笑顔みたいに明るい、ひかり。

「そう。うちはひかり。生きるための光。だからね。覚えといてよ、伊絵。あなたは絶対にひとりじゃない。誰も助けてくれなくなった時は、その傘を持って、うちのこと思い出して。大丈夫。うちがそばにいるから。ひとりじゃないから」

「…………」

 改めて思い出してみると、なかなかどうして意味不明な言い草ではあったけれど、あの時の私は、いや、今の私でも、きっとひかりを疑わなかった。

 だってそれは――一番、欲しかった言葉だったから。

「……じゃあ、借りてもいい?」

「うん。ひかりが寂しくなったら、いつでも待ってるよ」

 私は、傘を受け取った。

 ぴったりと手に合って、どこか暖かかった。

「ねえ、ひかり。この傘いつ返せば――」

 傘から視線を移すと、そこにはもう、ひかりの姿はなくなっていて。

 ぽつんと、教室の中に、ひとりだけ私がいた。

 それでも、不思議と寂しい気持ちにはならなかった。

 じゃあ、帰ろっか。

 外に出て、傘を差した。

 大きな音を立てて開いた傘は、私を雨と寂しさから守ってくれた。

 帰り道に泣かなかったのは、本当に久しぶりだったと思う。

 もうひとりじゃない。

 その現実が、私をこんなにも幸せにしてくれる。



(了)

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