第204話 SS:ゆいの特訓、そのいち!


「まえまわりおしえてください!」


 とある冬の日。

 ゆいは龍誠の部屋に突撃して言った。


「突然どうした?」

「ぜったいぜつめい!」


 いつも通り元気よく全力で言ったゆい。

 その力強い言葉を聞いて、まったり本を読んでいたみさきも目を向ける。


 しゃー! ゆいはみさきを威嚇した。

 みさきは欠伸をして、本に目を戻す。


「学校で何かあったのか?」


 子供達の微笑ましいやりとりに肩を揺らしながら問いかける。ゆいは鬼気迫る顔をして、


「まえまわりができません!」

「そうか、難しいもんな」


 ゆいはピョンと一歩だけ龍誠に近付いた。

 その小さな衝撃で、しかしボロアパートの床は軽く悲鳴を上げる。


「……」


 ゆいは硬直していた。

 龍誠が気にするなと声を掛けると、ゆいは顔を真っ赤にして言った。


「ちがいます!」


 大きく息を吸って、


「いちにんまえのレディーは、ほうひしません!」


 誰だよ一年生に放屁とかいう言葉を教えたやつ。

 龍誠は心の中でツッコミを入れながら、


「大丈夫、今のは床さんが放屁した音だ」

「ええぇ!?」


 ゆいはひっくり返りそうなくらいに仰け反って、


「おしりなの!?」

「ああ、そこは床さんのおしりだ」

「あたまどこ!?」

「頭は、あっちかな」


 笑いを堪えながら言う。

 ゆいはビックリ仰天といった様子。しかし急に表情を引き締めると、龍誠が指で示した場所まで走った。


「こらー!」


 ゆいは叫んで、


「くっさー!」


 ゆ、ゆかに、ゆかにキレてる。

 龍誠は必死に笑いをこらえる。一方で満足した様子のゆいは、


「まえまわりおしえてください!」

「よし、そこの布団で練習しようか」

「はい!」


 ゆいは元気に返事をして、


「せんてひっしょう!」


 とてとてたったと布団に土下座!


「これが! あたしのじつりょくです!」


 土下座! ……そして不動!

 龍誠は悩んだ。たっぷり十秒ほど考えて、ゆいの実力を受け入れる。


「厳しい戦いになりそうだな……」

「ママもせんせもサジなげた!」


 妙にリズム良く見捨てられたことを宣言したゆい。


「やーい! まえまわりできないのひとりだけぇ……」


 少しずつ声が小さくなって、


「ぐすん……くやしぃ」


 龍誠は覚悟を決めた。

 ゆいの実力は驚異的だ。しかし、如何なる困難であろうと逃げ出すワケにはいかない。だって彼女は、みさきの友人なのだから。


 みさきに目を向ける。みさきは直ぐに視線に気が付いて、本から顔を上げた。それからコクリと頷いて、龍誠の足元までテクテク歩いて、となりにいるね、と目で伝えた。


 龍誠はポンとみさきの頭に手を当てて、ゆいのところへ向かう。みさきは「んっ」と、ゆいにエールを送って、檀の膝を目指した。

 

「さて、まずは転がる感覚を覚えようか」

「おねがいします!」

「うし、まずは布団に手をついてみろ」

「はい!」


 素直に従ったゆい。龍誠はゆいの腹部に手を当てて、くるりと回転させる。


 小さな身体は簡単に持ち上がって、ゆいは見事に一回転すると、龍誠に支えられながら尻餅をついた。


「……」


 ちょうど土下座の姿勢から90度だけ起き上がった姿勢で唖然としているゆい。


「……にんげんじゃない!」


 龍誠は不思議な感想に肩を揺らして、


「やめるか?」

「やります!」


 直ぐに返事をして土下座の姿勢になるゆい。

 龍誠は再び手を添えて、くるり。


「……」


 何も言わず土下座の姿勢に戻ったゆい。

 もう一度くるり。


「……」


 ちょっと楽しくなってきたゆい。

 期待に応えてくるり。


「もういっかい! もういっかい!」

「よっしゃ、任せろ」


 くるり。わーい!

 くるり。やっほー!

 くるくるり。にかいてーん!


 ――と回り続けて、


「たいむ、たいむです……」


 ゆいの三半規管は限界を迎えた。


「すまん、調子に乗った。平気か?」

「……いちにんまえのレディは、おうとしません」


 必死に耐えるゆい。

 すーはー、と深呼吸をして、


「イケる気がします!」

「そ、そうか。無理すんなよ」


 ゆいは一人で床に手をつく。

 そして――足が宙に浮いた!


「おおっ」


 思わぬ急成長に龍誠は声を上げる。

 そのまま徐に半回転して――果たして、ゆいは横に倒れた。


「……」


 横になった姿勢でコロコロするゆい。

 龍誠は掛ける言葉が見つからない。


 コロコロ。コロコロ――くるり。


「!?」


 龍誠は驚愕して目を見開いた。

 不貞腐れたようにコロコロ回るゆいが、無意識に前回りを成功させたのである。


 本人は気が付いていない。

 ただ無表情で、何が楽しいのかコロコロクルクルしている。


 そのうち床がキッと音を鳴らす。

 ゆいは不意に立ち上がって、てくてく部屋の隅まで歩いた。


「くっさー!」


 そして、床さんの頭に八つ当たり。

 それからキレのある動きで龍誠を見て、


「はんぶんできました!」

「おう、そうだな」

「でもきょうはかえるじかんです!」


 ゆいは元気な声で言って、


「またきます!」


 それからダッシュで入り口に放置したランドセルを回収して、龍誠に軽く会釈する。


「一人で帰れるか?」

「もちろんです!」


 回れ右して走り出したゆい。

 龍誠は微笑んで、ゆいの背中を見送った。


 そして、この日を境に、ゆいは体育で困ると龍誠を頼るようになったのだった。

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