第164話 SS:みさきとごはん


「そうですか、それは良かったですね」

「ああ、本当にありがとう」


 みさきとの蟠りが解けたことは、真っ先に結衣へ伝えた。

 今回のことについては、いくら感謝しても足りないくらいだ。


 あれからというもの、俺が料理をしていると、みさきは必ず肩の上まで登るようになった。

 最初は一時的なものかと思っていたが、一週間経っても止めないから、よっぽど楽しいらしい。


「それはそれとして相談があるのだが」

「どうしましたか?」

「実はカクカクシカジカで」


 一難去ってまた一難とはよく言ったもので、俺は直ぐに次の問題と直面した。

 いつもなら一人でウダウダ悩んでいるところだが、物は試しと結衣に相談してみたところ、


「ダメです」


 無慈悲な回答が得られた。 

 相談というのは、俺とみさきが頻繁にする会話についてだ――


「みさき、今日は何が食べたい?」

「ごはん!」


 みさきに食べたいものを聞いた時、必ずごはんと返ってくる。

 そう、みさきの世界には、ごはんと牛丼とお寿司とケーキしか存在しないのである。


「みさき、今日の給食は何を食べた?」

「ごはん!」


 試しにこんな質問をしても、返ってくる言葉は同じだった。

 俺は嬉しそうに「ごはん!」と言うみさきがあまりにも可愛くて、特に何も言えなかった。


 もちろん、それとなく指摘したことはある。


「みさき、これはカレーライスって食べ物だぞ」

「ごはん?」

「カレーライス」

「……ごはん、ちがう?」


 とまぁ、ざっとこんなもんよ。

 みさきの眼力の前では黒でさえも白になる。

 俺に抗うすべなど、無い。


 だが、みさきもそろそろ二年生になる。

 料理をしない人ならキャベツとレタスの違いが分からなくても仕方ないが、どちらも「ごはん!」と答えるのは流石に個性が強過ぎる。


 ということで結衣に相談したところ、先のような回答が得られたというわけだ。


「……俺、どうすればいいのかな」

「普通に指摘しなさい」

「いや、だが、普通に指摘しても『ちがうの?』ってウルウルした目で見られて、俺は……っ!」

「……はぁ、ならばもう指摘しなければ良いのでは?」


 なっ、こいつなんてこと言いやがる!


「テメェ、そんなことしたら、みさきが将来キャベツとレタスのことをごはんって答える不思議ちゃんになっちゃうじゃねぇか!」

「ええそうですね。あなたのせいで」

「俺の、せいだと……?」

「話は以上です。仕事があるので、また後ほど」


 無慈悲に話を打ち切られた日の夜。


「ごはん、ちがう?」

「……ああ、違う。違うんだよ、みさき」


 俺は、かつてない苦戦を強いられていた。


「……ちがう?」


 今にも泣きそうみさき。

 ダメだ、心が折れそうだ。


「いいかみさき、牛丼は分かるよな?」

「……ん」

「牛丼はごはんか?」

「ぎゅーどん」

「そうだ、牛丼は牛丼だ」


 いいぞ、いい調子だ。


「他の食べ物にも、名前が付いてるんだよ」

「なまえ?」

「そうだ。例えばこれは、もやしさんだ」

「もやしさん?」

「ああ、もやしさんだ」

「……ん」


 みさきは小さな手で一本のもやしを持ち上げる。


「もやしさん」

「そうだ、もやしさんだ」


 そして、パクリと口に入れた。


「しゃきしゃき」

「ははは、そうだな。もやしさんは、しゃきしゃきだ」

「これは?」


 みさきは次に、スプーンを使って人参を持ち上げた。


「それは人参さんだ」

「にんじんさん」


 また名前を呼んで、パクリと口に入れる。


「あまい」

「そうだな。甘くておいしいよな」

「おいしい」

「そうかそうか、それは良かった」


 俺は、いったい何を悩んでいたんだ。ごはん! と元気良く言うみさきも可愛かったが、次々と食べ物の名前を覚えていくみさきはもっと可愛い。 


「じゃあみさき、これは何か分かるか?」


 俺はシイタケを箸で持ち上げて言う。


「ごはん!」

「そう、これはご飯だ。いや、違う。みさき、これはシイタケさんだ」


 ……くっ、流石はみさき魔性の女だ。

 強い意志を持たなければ、すべての食品がごはんになってしまう!



 ――こんな具合に、一難去ってまた一難。

 みさきとの日々は、まだまだ大変なことが多そうだ。

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