第162話 未来のこと(後)
龍誠が住むマンションから歩いて数分の位置にある公園。
周囲は民家に囲まれていて、まだ深夜と呼ぶ時間でもないからか、広い空間を活かしてサッカーでも出来そうなくらいに明るい。ただし入り口にはボール遊び禁止の立て札が置いてある。
結衣は、その立て札の前で待っていた。
待つといっても、彼は五分としないうちに姿を見せるだろう。
逆の捉え方をすれば、五分もある。
それだけあれば、結衣は多くのことを考えられる。
……いったい何があったのでしょうか。
ほんの数日前に見た彼の姿が、ほんの数分前に見た彼の姿と全く重ならない。別人なのではないかと思うくらい、彼の色は濁っていた。
……たった数日で、あそこまで。
驚く以上に、結衣は恐ろしいと感じた。
彼のことは、欠片も教養が感じられないけれど、真面目で責任感があり、しっかりとした芯を持っている人だと認識していた。
そうでなければ、見ず知らずの子供を育てるなんてことは出来ないだろう。そんな人が、僅かな時間で今にも壊れてしまいそうな程に追い詰められていた。
……いったい私に何が出来るのでしょうか。
たった一人の人間に出来ることなんて、せいぜい口を出すことくらいだ。もちろんそれ以上の支援も可能だけれど、ただの友人がそこまで干渉するのは不自然だろう。
……ならば、心行くまで口を出しましょう。
こうして結衣の方針は固まった。あとはいつも仕事でやっているように、可能な限りの会話パターンをシミュレートする。彼との会話が想定通りに進んだことなど無いけれど、これが彼女のやり方だ。
何かを考える時、彼女は迷わない。
まずはゴールを決めて、そこへ続く道を作る。どんな小さな可能性であろうと捨てることなく、巨大な枝を構築していく。その結果、必要以上に険しい道を選ぶことになろうとも、彼女は立ち止まらない。
結衣は静かに目を閉じて、思考を始めた。
手掛かりはある。そこから仮定を重ねることは出来る。だけど何かを確信できる程の材料は無い。
果たしてゴールへと繋がる道をひとつも見つけられないうちに、結衣の耳に足音が届いた。
目を開けて、音の聞こえた方へ体を向ける。
龍誠は険しい表情で俯いて、とてもゆっくり歩いていた。
その姿を見て結衣は軽く唇を噛んだ。
あらためて目にした彼の色は、やはり識別できない程に濁っている。それは、結衣の目と経験を持ってしても、何を考えているのか全く分からないことを意味していた。
体中が緊張していくのが分かる。
だから結衣は、硬直してしまう前に声を出した。
「随分と時間がかかりましたね」
「……悪い、みさきと少し話してた」
そう言って、彼は引きつった笑みを浮かべた。しかしその目がまるで笑っていないことは、きっとみさきにだって分かる。
「それで、話は? 学校のことか?」
「まずは公園へ入ります。長くなりそうなので、あちらのベンチに座りましょう」
「そうか、分かった」
龍誠が頷いたのを確認して、結衣は公園へ足を向ける。
ベンチは背もたれの無い簡易的なもので、長さは二メートル程。その端に結衣が座ると、龍誠は反対側に腰を下ろした。
それから一呼吸おいて、結衣は単刀直入に言う。
「ゆいとみさきが喧嘩したようです」
予想していなかった言葉に、龍誠の表情が一瞬だけ動く。その動きには様々な感情が含まれていて、しかし何を思ったのかは、結衣にさえ分からなかった。
「喧嘩? どうして」
「あなたのせいですよ」
トゲのある声で、結衣は龍誠を糾弾する。
「みさきは、ここ数日元気が無かったようです」
「……」
「いったい何をしているのですか? 娘に心配をかけて、情けないとは思いませんか?」
「……そうだな」
とても小さな声で言って、ガックリと項垂れた。
結衣が厳しい言い方をしているのには理由がある。今の龍誠は、自分が何を考えているのか本人ですら分かっていない。それ程までに、様々な負の感情が混じりあっている。だから結衣は、特定の感情へ誘導することで、ひとつひとつ整理していこうと考えた。
結衣は龍誠の反応を見ながら、彼からは見えない方にある手でベンチを強く握り締めた。それから、その緊張が伝わらないよう静かに息を整える。
少し待てば彼は自ら言葉を発するだろう。それは、きっと彼の中にある最も大きな負の感情が生み出す言葉だ。ならば、それが彼の心理を推し量る一番の手掛かりになるはずだと、結衣は考えている。
一方で龍誠は、どこか吹っ切れたような気分になっていた。彼の中で最初に生まれた感情は、しっかりしなければという危機感だった。しかし、それは次第に薄れ、いつしか後悔へと変わっていた。
「俺は、間違えたんだ。あの時、素直にみさきを警察へ届けるべきだった」
「何の話ですか?」
全く脈絡の無い言葉に結衣は眉をひそめた。しかし、これこそが龍誠の中にある最も大きな負の感情だった。
彼は後悔しているのだ。みさきには、いくつもの可能性があって、いくつもの未来があった。それを考えた時、天童龍誠という男に育てられるのは、みさきにとって最悪だったのかもしれない。自分が関わらなければ、みさきはもっと良い人生を歩めたのではないかと疑問を抱いた。
そして今、ある結論に至った。
「なあ、結衣。みさきのこと、頼めないか?」
「……は?」
全く予想していなかった言葉に結衣は戸惑う。
「俺は、みさきを育てるべきじゃなかった」
その力無い言葉を聞いて、結衣は全身が煮え立つように熱くなるのを感じた。それまで考えていた道筋も、努めて保っていた冷静さも何もかも、彼が発した一言によって失われた。
それでも、僅かに残った理性が結衣を引き留める。彼女は、ここで感情に身を任せるほど子供ではない。そのうえで、全部分かったうえで、彼女は叫んだ。
「取り消しなさい!」
まるで雷でも落ちたかのように、鋭くて大きな声だった。それを聞いて龍誠は思わず顔を上げる。すると直ぐ目の前に、怒りの表情を浮かべた結衣の姿があった。
結衣は唖然とする龍誠を見下ろして、鋭く目を細めた。
我慢なんて出来るはずがない。
今の発言を聞かなかったことになんて出来るはずがない。
「あなたは……あなたは……っ!」
しかし結衣の感情は、言葉になるよりも早く、涙となって零れ落ちた。それを見て龍誠はただただ困惑する。
「なんで、お前が泣くんだよ」
龍誠にとって、その反応は予想外だった。
自分の発言は誰が聞いても正しいと、彼は本気で思っている。
「戯言を口にする前に、やるべきことがあるでしょう?」
しかし、結衣はそれを否定した。
「いったい何があったのですか。どうして一人で悩んでいるのですか。彼女は、小日向さんはどうしたのですか。東京へ行ったとはどういうことですか。なぜ? なにがどうして!?」
唖然としたままの龍誠を睨み付けながら、結衣は荒々しく肩を揺らしていた。
「……悪かった。さっきのは取り消すよ」
「当然です」
やがて、龍誠は呟いた。
結衣は吐き捨てるようにして言って、立ったまま呼吸を整える。
……しまった。
そしていくらか冷静さを取り戻して、直後に後悔した。龍誠は最初に会った時よりも沈んだ様子で、いっそ抜け殻のような感じで俯いている。
どうにかしてフォローしなければ。
結衣は必死に考えるけれど、今の頭では上手い考えが浮かばない。
「とにかく、私に話してください」
「話すって、何を話せばいい」
「全部です。あなたが考えていること、全て私に教えなさい」
それは彼にとって難しい質問だった。なにせ、自分自身のことが分かっていないのだから。最初は何か具体的な考えがあったかもしてないけれど、今はどうしようもないくらい漠然としている。
果たして彼は俯き、黙り込んだ。
それは結衣にとって予想通りの反応で、彼女は初めて用意してあった言葉を口にする。
「彼女は、小日向さんはどうしたのですか?」
「……東京に行ったよ。漫画を描くために」
それは事前にゆいから聞いていた通りの言葉だった。しかし、やはり結衣には理解できない。
彼女が数日前に見た二人の間には、強い繋がりのようなものを感じられた。それは傍から見れば入り込む余地など無い程で、結衣は結婚するのも時間の問題だと思っていた。
「それは、一時的なものですか?」
言葉を選びながら問いかける。
龍誠は首を振って否定した。
「ならどうして……喧嘩したのですか?」
龍誠は再び首を振って否定した。
「小日向さんは漫画家で、夢がある。だから俺は小日向さんを応援すると決めて、背中を押した。それだけの話だ」
当事者ではない結衣には彼の言っていることがイマイチ分からない。だが、どうやら彼女と別離することになったのは間違いないようだ。
「いつの話ですか」
「確か、みさきの誕生日の直ぐ後だ」
……そんな、あのあと直ぐに?
「彼女が部屋を出たのは?」
「この前の土曜日だ」
それを聞いて結衣は即座に計算を始めた。
情報を元に逆算すると、彼女が去ったのは四日前で、それが決まったのはさらに二週間前。つまり事の始まりは、およそ二十日前。そのタイミングから彼はストレスを受け続けていたのだろう。
そして実際に彼女が部屋を去ったことで、精神的な負担が急増した。その負担がどの程度なのかは、これまでの彼を見ていれば分かる。
同時に、これは直前に想定していた可能性のひとつだった。もちろん、この先も用意してある。だけど、それが正しいかどうかは分からない。それでも、他に道は無い。
結衣は背筋が冷たくなるのを感じた。
これから自分が口にする言葉のひとつひとつが、彼の今後を左右するかもしれない。そう思うと、とても冷静ではいられない。ただでさえ感情的になった直後なのだから、落ち着けるはずなんて無い。
「なるほど、そういうことですか」
声が震えないように、表情が強張らないようにと自分に言い聞かせる。
「彼女がいなくなって、それまで頼り切りだったことを痛感したのですね」
必死になって、いつも通りを演じる。
「自らの不甲斐なさに気が付いて、嫌気がしたのですね」
あえてトゲのある言葉を発しながら、乱れている心を整える。
「挙句の果てには育児放棄を宣言ですか。最低ですね」
次々と発せられる結衣の言葉に対して、龍誠は何も言い返さない。返す言葉など無い。
結衣が当て推量で言っているは、果たして的を得ていた。彼の現状は、まさに彼女が言った通りなのだ。
「……いい加減に何か言い返しませんか?」
結衣が溜息混じりに返事を促すけれど、龍誠は俯いたまま何も言わない。
ただし、結衣には彼の色が変わっていくのが分かる。返事は無いけれど、ひとつひとつの言葉が彼に届いているのが見て取れる。
……もう少し。
「彼女が去って、ダメな自分を痛感したことは分かりました。大方、それまで任せ切りだった家事の負担に困惑しているのでしょう。まるで初めて一人暮らしを始めた学生のようですね。本当に情けない。何より、その程度で先程の言葉が出てくるとは……みさきは、あなたにとってその程度の存在だったのですね。心底見損ないました」
ゆっくりと、絡みつくような口調で結衣は言った。
彼女の言葉は全て正しい。だから龍誠は何も言い返せなかった。どうしようもないくらいの正論を黙って受け入れるしか無かった。
しかし、たったひとつだけ受け入れられない言葉があった。
――みさきは、あなたにとってその程度の存在だったのですね。
この一言だけは、否定しないわけにはいかない。
「……お前の言う通りだよ」
顔をあげて、彼は静かに語り始める。
「全部正しい。その通りだ。俺は情けない。テメェの都合でみさきを育てるって決めて、直ぐに小日向さんに助けられて、自分が何もしてこなかったことを今日まで忘れていたような、どうしようもないクズだ」
そんなことは結衣に言われる前から分かっていた。
ただ他の感情と混ざり合って、あやふやになっていただけだ。
「お前はこう言いたいんだろ? 泣き言を言う暇があるなら努力しろって。だけどさ、もしも全部出来るようになったとして、それが何になるんだよ。そんなの当たり前のことじゃねぇか。誰にでも出来ることだ。それすら出来ないクズが必死こいてまともになったとして、何か変わるのかよ」
彼の中で肥大化し続けていた負の感情が初めて言葉となって、堰を切ったように溢れ出る。
「みさきは天才だ。一度教えれば覚えるし、教えなくたって自分で勝手に覚えてくる。そんな子供なんだよ。俺に出来ることなんて、金を稼ぐことしかねぇだろ。そんなの誰が親でも同じだろ。だったらっ、もっと金を稼げて、信頼できる奴に任せた方がみさきの為になるって、そう思うのはおかしいかよ!?」
彼は初めて感情的な言葉を発した。
龍誠はみさきのことを誰よりも考えている。みさきの為なら隕石だって止められる。出来ることなら、親として、みさきの成長を見届けたいと希っている。だけど本当にみさきの幸せを考えた時、どうやったって自分は相応しくない。
きっと努力すれば今抱えているような問題は解決するだろう。
しかし、その先はどうなる? きっとまた同じことが繰り返される。その度にみさきが嫌な思いをすることになる。そんなのは耐えられない。
果たして龍誠が思い悩んでいたのは、こういうことだ。そこに自分が知る限り最も優れた人物が現れた。
だから、うっかり弱音を吐いてしまった。
それでも、それは全部みさきを思ってのことだ。
みさきのことを考えているからこその言葉だ。
それだけは絶対に譲れない。
龍誠は顔をあげて、初めて結衣と目を合わせた。
結衣は表情ひとつ変えないまま、自分を睨み付けている男に向かって言う。
「それ、誰かに相談しましたか?」
その言葉は、事前に用意した言葉ではなかった。
結衣は確かに怒りの感情へと誘導していた。しかし、あそこまで感情的な反応が得られるなんて考えていなかった。その時点で、彼女の想定は狂っていた。
「誰かに相談したところで、何も変わらねぇよ」
だけど同時に、信頼出来る道を見つけていた。
「私はそうは思いません。少なくとも、一年と五ヶ月ほど前のあなたは同じこと考えていたはずです」
結衣は、保育園の前で彼とした話を思い出していた。
娘の為に出来ることを考えて考えて考え抜いて、お金を稼ぐという結論に至った母親がいた。
しかし彼女は、先の事ばかり考えていた故に、今が見えていなかった。
その時の姿が、目の前にいる青年と重なる。
あの時、結衣は龍誠のことが憎らしくて仕方なかった。
ゆいのことを誰よりも考えているのは自分だ。
ゆいの未来を考えた時、お金は絶対に必要だ。
では具体的にいくら必要なのかと考えた時、答えは見つからなかった。
あらゆる不安を考慮すると、どれだけあっても足りないと思えた。
だから結衣は必死に働いていた。
そのせいで、娘が本当に欲していることを見落としてしまっていた。
実のところ、結衣は何か間違っているのではないかと感じたことがあった。だけどそれが何かは分からなかった。だからこそ、少しでも多くのお金を稼ぐしかなかった。
それは過去に苦労したからだ。
その苦しみを誰よりも知っているからだ。
空回りしているという焦りだけが常にあって、しかし他人に縋ることも、家族を頼ることも出来なかった。
たった独りで、一度は正しいと信じた道を突き進むしかなかった。
そこに、手が差し伸べられた。
とても頼りない手だった。
もちろん、結衣はそれを拒絶した。
それでも、近くに他の誰かが居るという感覚だけは強く刻まれた。
たったそれだけで、彼女の世界は色を変えた。
「……友達が」
小さな声で、結衣は呟いた。
お礼なんて言えない。気恥ずかしくて、悔しくて、感謝しているなんてことは伝えられない。だけど、ひとつだけ分かることがある。
今度は私の番だ。
「あなたの友達が目の前に居ます」
結衣は龍誠に向かって、真っ直ぐに手を伸ばした。
「どうにかしたいという気持ちがあるのなら、この手を取りなさい」
その言葉は龍誠にとっては唐突で、だけど意味は直ぐに伝わった。
「あんなの、考えなしのガキが生意気なこと言っただけだぞ」
「それでも私は救われました」
龍誠の口から出た否定の言葉を結衣は即座に否定する。
「そんなの、お前が頑張っただけだろ」
「私はそう思っていません」
彼が逃げようとするならば、結衣は即座に道を塞ぐ。
龍誠はこの先に平行線しかないことを悟って、暫く口ごもった。
ここまで言ってくれるのだ、甘えてしまえ。弱い自分が囁いている。しかしそれでは、あの日の決断を否定することになる。
「ここで俺がお前を頼ったら、それこそ何も変わらない」
龍誠には自分のことを他人に背負わせる覚悟が出来なかった。
だから小日向檀の時は、背中を押すという形で、彼女を自分から引き離したのだ。
結婚がどうとか、ほんの一ヶ月前はそんなことばかり考えていた。そこで悩んで悩んで悩み続けて、ようやく見付けた答えが龍誠の中にはある。
みさきが幸せになるのなら、自分はどうなってもいい。だけど自分の為に誰かを犠牲にするなんて選択は、絶対に出来ない。
「……ありがとう。だけど、もう俺には構わないでくれ」
「それは不可能な相談です」
龍誠は結衣を拒絶した。
しかし結衣は差し伸べた手をピクリとも動かさない。
龍誠の綺麗に飾り付けられた言葉は、ただの逃げだ。惨めな妥協だ。
結衣はそれを見抜いている。
だから彼女は、彼の甘えを許さない。
「どうして、そこまで……俺なんかの為に」
「知っての通り、あなたが私にとって唯一の友達だからです。今も、昔も」
そして絶対に彼を見捨てない。
「私があなたを蔑ろにするなんて、無理な相談です。だって私は」
なぜなら、彼女は――
「十年前、あなたが……天童くんが私を助けてくれた時からずっと――」
その瞬間、龍誠の中に様々な記憶が蘇った。
彼女は誰かに似ていると繰り返していた。
ワインの香りだけで酔っ払った時、あいつしか知らないはずの単語を口にしていた。
同時に結衣も考えていた。
ここまで話せば後には引けない。
だけど、意味を決定付ける結びの言葉は今ならまだ変えられる。
感情か、理性か。
「あの時からずっと、天童くんに恩返しがしたかった」
果たして口を突いて出たのは、もっと奥底に眠っていた本心だった。
そしてそれを口にした結衣は、もう止まらない。
十年以上閉じ込められていた感情が、一気に溢れ出す。
「ずっと会いたかった。お礼を言いたかった。謝りたかった。あなたのことが気になって仕方なかった。忘れた日なんて一日も無かった。今は何をしているんだろうって、どこにいるんだろうって、いつも考えてた。十年経っても忘れられなかった。それくらい、あの一年間は、私にとって幸せな時間だった。それくらい、あの時あなたが助けてくれたことが嬉しかった。あの出来事があったから、私は今日まで頑張ることが出来た。いつかあなたに恩を返そうって……それだけだった」
やっと言えた言葉は、しかし上手く声にならず、涙によって遮られた。
六年生にして初めて出来た友達。
どうしようもないと思っていた暴力から救ってくれた人。
その成長した姿は、全くの別人だった。
身長はもちろん、声も違う。目つきも顔つきも、性格も何もかも違っていた。
だけど、どこか似ているという感覚を捨てきれなかった。
そして数ヶ月前にファミレスで偶然聞いた会話によって確信した。
「……」
龍誠は、何を言えばいいか分からなかった。もちろん彼もあの時の出来事は覚えている。結衣ほどではないにしても、あれは龍誠にとって人生の大きな岐路となった瞬間だ。
何度か考えたことがある。
どちらが正解だったのかと。
その答えを得ることは出来ないと思っていた。
なのに、このタイミングで、あいつが現れた。
「あれこそ、その場の勢いで動いただけだ」
困惑しながら、ありのままを言葉にした。
「そんなことは関係ありません!」
涙声のまま、結衣は力強く言った。
「あの時は、腹が立ったから殴っただけだ」
それでも龍誠は否定をやめない。
「俺はお前を助けようとか、そんなことは少しも考えてない。お前が恩を感じる必要なんて無い。だからもう、もういい。俺のことなんか忘れてくれ。俺は人に感謝されるような人間じゃないんだよっ。失敗ばかりで、いつも大事な時に上手く行かなくて、最低な世界にまで落ちて……今だってそうだ。みさきと会ってから二年経っても、何も変わってない。変わらねぇよ! 結局、何も変わらねぇんだよ!」
結衣が自分のことを気にする理由は分かった。
だから龍誠は、それすらも否定した。そんなものは勘違いだと、自分は底辺を生きるクズでしかないと、だからもう見捨ててくれと、彼は叫んだ。
その姿を見て結衣は、そっと彼の頬に手を添えた。
龍誠は驚いたけれど、その手を振り払うことは出来なかった。
「あなたが、数えきれない後悔を抱えて生きているのは分かりました」
まるで子供に言い聞かせるみたいな口調で、子供のように大粒の涙を流しながら、彼女は言う。
「それでも、自分を全否定することはやめてください」
結衣には、伝えきれないくらいの思いがある。
だけど今は、悲しみの感情が一番大きかった。
龍誠は過去を嘆いていた。そのほとんどは結衣の知らない出来事だろう。きっとあの出来事は、龍誠にとってはちっぽけなことなのだろう。
しかし結衣は思うのだ。
もしもあの時、周りの言葉に従って彼から離れていれば、きっとこんなことにはならなかった。
天童という家に生まれた彼は、必ず順風満帆な人生を送っていた。結衣は、それをぶち壊したのだ。自分が関わらなければ、彼がここまで苦しむことは絶対に無かったはずだ。
だからこれは、償いなのだ。
「忘れないでください」
戸崎結衣は、決して天童龍誠を見捨てない。
「あなたに救われた人がここにいます」
どんなことがあっても、彼に手を差し伸べる。
「あなたを求めている子が、あの部屋にいます」
その言葉のひとつひとつが、龍誠の中に優しく溶けこんでいく。
「あなたに価値が無いなんて思っているのは、あなただけだ」
心のどこかで求めていた言葉が、次々と彼女の口から紡ぎだされていく。
「それでもあなたが自らを肯定出来ないというのなら、もう何も言いません。そもそも、それを言及する必要など無いのです。だって、過去なんて関係ないのだから」
結衣はあの一年間の思い出だけを胸に生きていた。
しかし、ゆいと出会って、もうひとつの生きる理由を見付けた。
そして彼と出会って、二度目の恋をした。
全部、過去の出来事から繋がっている。
だけど未来を決めるのは過去じゃない。
「これからを決めるのは、今のあなたです。今のあなたには、みさきがいて、私がいる」
過去の出来事なんかで、未来は決められない。
「あとは、あなただけです」
前を向けと、結衣は言う。
「ゆっくりで構いません」
優しい声で、彼の目を真っ直ぐに見つめて、
「未来のこと、考えてください」
結衣は初めて、笑顔を見せた。
その頃には、龍誠の心の中は真っ白になっていた。
何も無い。
何も分からない。
何もわからないまま、たった一筋の涙が彼の目から零れ落ちた。
「……未来って、なんだよ。何を考えればいい」
龍誠が問いかけると、結衣は一歩引いて、悪戯な表情を浮かべる。
「それを考えるのはあなたの仕事です」
その無邪気な表情につられて、龍誠も静かに笑った。
「無責任だな」
「お互い様です」
二人は互いの感情をぶつけあった。
その結果どういう変化があったのかは、今はまだ分からない。
ただ、二人の声色には、確かな変化があった。
「……ま、まあ、どうせ貴方のことですから。また一人でウダウダ考え込むことになるのでしょう。だから特別に、特別に、私に相談することを許可します。もしも次に迷ったら真っ先に私のところへ来なさい」
途端に照れくさくなって、結衣はごまかすように早口で言う。
その姿を見て龍誠は急に脱力した。
「ああ、そうさせてもらうよ」
そこには、いつも通りの二人の姿があった。
だけどそれは、これまでとは決定的に違う。
互いにずっと心に抱えていたものがあった。
体の内側に刺さったトゲみたいに、ずっとチクりとした痛みを生み続けていたものがあった。
二人が経験した苦い過去は、呪いのように今を縛り続けていた。
だけど今、二人は前を向いた。
一人は、無責任な他人の言葉によって。
もう一人は、無責任な友達の言葉によって。
これから何が起こるかは誰にも分からない。それでも、ただひとつ言えることがあるとするならば……
この先に続く未来は、きっと輝いている。
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