第146話 朱音とデートした日(前)
二月初めの土曜日。バレンタインデーを翌週に控えたモールは、チョコレートに支配されていた。
右を見ても左を見てもハッピーバレンタイン。あちこちに見えるハートの形がまるで恋を応援しているかのようで、朱音は必要以上にドキドキしている。
時刻は十時を少し過ぎたところ。待ち合わせ時間は十一時だから、ちょっとだけ早く来てしまった。
土曜日だからか集客は多く、いつ龍誠が現れるかと思うと落ち着かない。
朱音は備え付けのベンチに座ったまま、スマホを目の前にかざした。それからカメラを起動して、さっき美容院で整えたばかりの前髪に触れる。
あと二ミリ右。ああ行き過ぎっ、七ミクロン左!
前髪の位置なんて少し動けば変わるし、きっと普段なら全く気にしない。だけど今日は不思議なくらい気になる。
服装はどうだろうか。
結局、この話は一瞬で工場全体に広がった。かなり恥ずかしかったけれど、みんな協力してくれて、服も用意してくれた。
あいつらは褒めてくれたけれど、やっぱり自分には可愛すぎるのではないだろうか。そう思うと落ち着かない。
朱音はオシャレなんてしたことがない。
しかし今日は不慣れなメイクをして、気合の入った服を着て、初めて美容院へ行った。
まさか美容院に行くことになるとは思わなかった。
髪はいつも自分で切っていたし、染めなおす時も自分でやっていた。
姉さんそれ毛根へのダメージやばいっすよ!
と言われ続けていたが、痛みを感じたことは無いし美容院なんて金がもったいないと思って頑なに行かなかった。
……四千円か。
それだけあったらジュースが何本買えただろうか。しかしながら、流石プロの仕事なだけあって綺麗になっている。長さが変わるだけではなく、いつもは跳ねてた部分とか滑らかになっていて、しかも少しキラキラしている。ほぼ毎日見ている自分からすれば結構な違いだ。
でも龍誠からしたらどうなのだろう。
今日は寝癖が少ないな、くらいにしか思われないのではないだろうか。
そうなったら悲しい。四千円もあれば龍誠が好きな食べ物とか、いろいろ買えたはずだ。いくらオシャレしたって、相手が喜んでくれなかったら虚しい自己満足でしかない。
……喜んでくれるかな? あと、少しくらい褒めてくれたら嬉しいな。
待ち合わせ時間までまだ三十分以上ある。
だけど心はずっと本番直前みたいに落ち着かなくて、ちっとも気が休まらない。
えっと、まずはレストランで昼ご飯を食べて、その後について話し合う。龍誠にプランがあったら、それを全力で楽しむ。もしも龍誠がノープランだったら、あいつらが用意してくれたプランを提案してみる。最終目的は既成事実、つまりは手を繋ぐことで……もしも本当に子供が出来たらどうしよう。ちゃんと責任取ってくれるかな。そもそも手を繋げたらの話だけど。
……手を、繋いだら。
朱音は左手を握って、右手で外側から包み込んだ。
そのまま胸へ押し当てられた左手が、やけに大きな心臓の音を伝える。
その音を聞いていると、どうしてか身体が温かくなった。二月の風を受けて冷たくなった手には、その熱がとても心地良い。
……まだかな。
スマホで時間を確認すると、モールに着いてからまだ五分も経っていなかった。体感的には一時間近く経っていたから、朱音はとても驚いた。そのとき口から漏れた息が、ふわりと浮かんで目に映る。それくらい冷たい空気が、しかし少しも気にならない。
顔を上げて龍誠の姿を探す。
人の数が多くて遠くまでは見えないけれど、きっと背の高い彼は直ぐに見つかるはずだ。
早く会いたい。
だけど、このまま待ち続けることになってもいい。
だって会う前からこんな状態なのだ。これでもし彼の姿を見たらどうなってしまうのか、それを想像すると少し怖い。それでも時間が気になって、つい何度も確認してしまう。
スマホの画面に映された数字が大きくなる度、いろんな感情も一緒に大きくなっていった。それは喜びであったり、焦りであったり、不安であったり……。
もしかして来ないとか。
そんなわけない、絶対に来る。
直ぐに見付けてくれるかな。
ちょっと隠れて脅かしてやるのもいいかもしれない。
こんな風に、心の声が鳴り止まない。
一分、二分……きっとこれまでの人生で最も長く感じた時間だった。
果たして、遠い所に彼の姿を見付けた。
見間違えるはずなんて無い。
「……龍誠っ」
朱音は立ち上がって、彼の名を呼んだ。
それは相手に届けることを目的とした声ではなくて、自然と口から出てしまったものだ。
隣を歩いている人にも大声で話さなければならないような喧騒の中で、しかし朱音の小さな声は龍誠に届いた。もしかしたら勘違いだったり、ただの偶然だったかもしれない。だけど、声を出した直後に二人の目が合った。
朱音は嬉しくて、彼のところまで駆け足で向かう。
「龍誠っ、一週間ぶり」
「……ああ、そうだな」
その声を聞いた途端、朱音は頭の中が真っ白になった。話したいこと、考えていたことが沢山あったはずなのに、途端に緊張して言葉が出なくなってしまった。
「……えっと……おはよう」
「……おう、おはよう」
会話が続かない。
朱音は焦って、だけど言葉は出てこなくて、逆に助けてくれという思いで龍誠の目を見た。そして、そこで初めて気が付いた。
……龍誠?
彼は少しも笑っていなかった。
それは緊張しているのとは違う。なんだか乗り気でないような、ここに嫌々やって来たかのような、そんな表情だった。
朱音の中で一瞬前まで浮かび上がっていた様々な感情が、急に沈んでいくのが分かった。それと入れ替わるようにして、先程までとは別種の焦りや後悔が、ものすごい勢いで浮かんでくる。
思えば強引なやり方だった。
きっと彼からしてみれば断ることが出来なかっただけかもしれない。それなのに自分は、頷いてくれたことに喜んで、相手にも気があると勝手に舞い上がっていた。一人で浮かれていて、龍誠の気持ちなんて少しも考えていなかった。そう気が付いて、途端に苦しくなった。
「……ごめん」
「ごめんって、何が?」
「……龍誠、ここに来るの、嫌だったのかなって」
その言葉を聞いて、今度は龍誠が戸惑う。
「そんなこと思ってない」
「……だって龍誠、楽しくなさそう」
その掠れた声を聞いて龍誠はハッとする。
朱音は柔らかい表現をしたけれど、彼女の目には龍誠が嫌々ここに来たように映っている。それは朱音の思い込みではなくて、実際に誰が見てもそう思えるような表情だった。
しかし、龍誠は嫌々やって来たわけではない。結局当日になっても考えがまとまらなくて、悩みながら朱音と出会ってしまったのだ。
だから龍誠は朱音の言葉を聞いて、その気持ちが顔に出てしまっていたことに気が付いた。
「嫌なんて思ってない。ただ、分からなかった」
「……何が?」
恐る恐る問いかけた。
龍誠は決して口が上手くない。だからこれから話す言葉は彼の本心だ。そして彼がそういう性格をしていることを朱音は知っている。
不安に不安を重ねた朱音に向かって、龍誠はゆっくりと口を開く。
「俺なりに、あれからいろいろ考えた。朱音にどんな返事をすればいいのか、真剣に考えた。それで、答えが出せなくて……今日、朱音とどう接すればいいのか、分からなかった」
一度言葉を切って、
「俺の方こそ、ごめん」
龍誠は頭を下げた。
すると今度は朱音が慌てて口を開く。
「なんで謝るんだよっ、龍誠は何も悪くないだろ」
「そんなことねぇよ。だって朱音泣きそうだったじゃねぇか」
「はっ、べつにっ、違うし!」
朱音は龍誠に背を向け、大声で言った。
そのあと少しだけ振り返り、今度は小さな声で問いかける。
「……なら、龍誠は、嫌じゃないのか?」
「当たり前だろ」
「……そっか」
その一言が朱音にとっては声にならないくらい嬉しい。
「龍誠も、オレのことで頭がいっぱいだったんだな」
白い歯を出して子供のように笑う。
その笑顔を見て、龍誠は思わず目を逸らした。
「龍誠?」
「なんでもない。さ、まずは飯だったよな。どこに行く?」
早口に言った龍誠。
それが面白くて朱音は笑った。
「何が面白い」
「……べつに。龍誠は行きたい場所とかある?」
「特に無いが、前と同じところでいいか?」
「うん、じゃあそれで」
なんだか気恥ずかしくて、龍誠は足早に歩き出す。
「待てよ、歩くの速いって」
すっかり緊張の解れた朱音は、楽しそうな表情で龍誠を追いかける。
一方で――
「いけっ! そこで腕を組め! おっぱい押し当てるんすよ!」
「ちょバカ声でかいって」
「君達、サボってないで仕事してね」
バイトとして潜入した従業員達も、わいわい騒ぎながら二人を見守っていた。
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