第100話 みさきの成長記録
みさきと出会ってから一年と二ヶ月。
毎日欠かさず書いている日記は、いつのまにか四冊目に突入していた。
社会の底辺でフリーターをしていた俺は、今は怪しい会社でプログラミングを学んでいる。ドアノブに手が届かないくらい小さかったみさきは、今ではスッカリ自分でドアを開けられるようになって、なんとか小学生にもなれた。
この過程で俺がやったことなんて、ほんの些細なことばかりで、ほとんどは小日向さんや兄貴、それからロリコン達と、不器用な友人のおかげだ。
これでいいのだろうか。俺は何か間違えていないだろうか、その不安は今でも感じる。だけど、一年前に比べれば幾分か薄れた。それはきっと、人を頼ることを知ったからだろう。
本当に多くの人のおかげで今の俺がある。
いろんな人に助けられて、みさきは今日も元気に準備運動をしている。
「みさき、今日こそ目標を達成しような」
「……んっ」
今日は、月に一度の測定日。
みさきの成長を確かめる日だ。
「ええと、いったい何が始まるのでせう?」
成り行きで参加することになった小日向さんは、俺達と一緒に準備運動をしながら困惑したような声を出した。まったく、ジャージなんてそんな運動する気満々の恰好で良く言うぜ。
「みさきが……大きくなる日だ」
これまで、みさきは着実に記録を伸ばしている。
昨日のみさきよりも、今日のみさきの方がかっこいい。
「よし、行くぞ」
「……」
すー、はー、と深呼吸するみさき。
俺はゴクリと息を飲んだ。
みさきの隣で、小日向さんも息を飲んだような気がした。
土曜日の早朝。
公園には、俺達三人の姿しかない。
いつも来る公園。
子供が走り回るには十分な広さで、飲める水が出るオアシスと公衆トイレが設置されている。遊具はブランコと滑り台があるくらいで、少し寂しい。
俺は大きく息を吸い込んで、みさきにパワーを送るくらいの気持ちで言った。
「あめんぼ!!」
「あめんぼあかいなあいうえお! うきもに、こえびも、およいでる!」
よしっ、もう「ア行」は完璧だな!
「かきのき、くりのき――」
流石みさきだ、カ行もサ行もバッチリだぜ。
さて、問題はここからだ。
俺は思い出す。これまでのみさきを。
とてとて、たったた……た、った、た……たっ、たた、た!
みさきは、なかなかタ行が上手く発音出来なかった。
その度にシュンとするみさきを見て、俺も同じくらいシュンとしていた。
だが、今日こそは……っ!
「とてとて……たった、と!」
みさき!?
「とびたった!」
……言い切った。ついに、ついにタ行を言い切った!
「まだだみさき、油断するな、ここからが本番だ」
「……んっ」
力強く頷いて、みさきは呼吸を整える。
「なめくじ、にょろにょろ、なにぬねの!」
ナ行も超えたぞみさきぃ!
そして――最難関のラ行に差し掛かる。
「……」
流石のみさきも緊張した表情だ。
それもそのはず、ここから始まるのは通常の「あめんぼ」では無い。
みさき専用、ラ行練習用の試練だ!
……頑張れ、頑張れみさきぃ!
「……」
呼吸を整えているみさき。
「……っ」
口を開けたみさき!
「れらるら、れりるら、るーりるれ、るるりる、りれるら、らーるらる!」
「魔法にかかっちまうぜみさきぃ!」
言えた! ついに言った!
「さぁ最後だ、バッチリ決めろみさき!」
「んっ! わいわいわっしょい、わいうえを! うえきや、いどがえ、おまつりだっ!」
今、俺は震えている。
そして思い出している……特訓の日々を!
みさきは、喋る事が苦手だった。口数が極端に少なくて、しかも単語だけで喋るから、助詞を使う能力が育っていなかったのだ。
だから特訓を始めた。発声練習を始めた。
それは辛く険しい日々だった。
たったたの呪い。
ラ行のゲシュタルト崩壊。
絡まる舌、文字通り噛んでしまうみさき。
今日、みさきは全てを乗り越えた。
……やばい、泣きそうだ。
「やったなみさきっ、ついに、あめんぼ、クリアだ……っ!」
「……」
どうやらみさきも感動しているらしい。
グッと両手を握りしめて、今にも爆発しそうな喜びを必死に抑えているのが分かる。
いいんだぜ、みさき。思い切り喜んでくれ!
そう思った直後――なぜかみさきは、どこかへ走って行ってしまった。
「みさき!? おい、どこ行くんだ?」
*
どうも、小日向檀です。
今日はどうしてか早くに目が覚めて、そのままトイレに向かいました。
そしてトイレから出たところで、偶然にも天童さん達と出会いました。
「……ふひひ、偶然ですね」
私は少し恥ずかしい気持ちを抑えながら、いやもうほんとトイレから出たところで出会うなんてどんな羞恥プレイ!? と思いながら、挨拶をしましたビクンビクン。
その流れで天童さん達と準備運動をして、早朝に体操するのも気持ちぃなぁとか、小学生の頃にラジオ体操したのを思い出すなぁとか、そんなことを考えながら、わりと楽しんでいました。
すると突然始まったみさきちゃんの発声練習。
あー、そういえば何度か聞いたなーと、微笑ましく見守っていました。
みさきちゃん、一年前とは別人です。なんだか最近は声が聞き取りやすくなったなーと思っていましたが、なるほどこういう理由があったみたいです。
そして見事に発声練習を終えたみさきちゃん。
見るからに感動している天童さんとみさきちゃんを見て、私はニヤニヤが抑えられませんでした。だけど、なぜかみさきちゃんは走り出してしまいました。
がっくりとうなだれる天童さん。
「ええと、私、ちょっと見て来ますね」
「……ああ、頼む」
というわけで、私はみさきちゃんを追いかけて公園の外に出ました。
遠くまで行っていたらどうしようかと思いましたが、みさきちゃんは公園を出て直ぐのところに体操座りをしていました。
なにしてるの? そう声をかけようとして、しかし直前に思いとどまります。
よく見ると、グッと両手を握りしめて小刻みに震えているみさきちゃん。もっとよく見ると、口元がすっごいニヤけている。
そのまま見ていると、みさきちゃんは手で顔を隠しました。
それから足を浮かせて、じたばたじたばた。
……なにこれなにこれ!?
きゃわわっ! かわっ、かわゆす!
*
暫くすると、小日向さんがみさきを連れて戻って来た。みさきは、なんだか嬉しそうな表情をしている。流石は小日向さんだ。良く分からないが、きっと小日向さんが全て上手くやってくれたのだろう。
「……ありがとう、助かった」
「いえいえ、此方こそごちそうさまでした」
ごちそうさま? 聞き間違えたか? ……まあいい。
みさきに目を向けると、コクリと頷いていつもの場所にとことこ向かった。
ブランコの前から反対側にある公衆トイレまでの五十メートル(目視)が、みさきだけの競技場となっている。
初めて走った時、みさきはここを十五秒くらい(人力測定)で駆け抜けた。それから少しずつ記録を伸ばして、今では十二秒と少しで走り抜けることが出来る。
「……ええと、何が始まるんですか?」
「五十メートル走だ」
「ああ、なるほど……あれ、ストップウォッチとか使わないんですか? 私ケータイ持ってますけど、その、良かったら」
「ありがとう。なら一応計っててくれ」
「ふぇぇ?」
俺は今、緊張している。
今日のみさきは一味違う、そんな気がするんだ。
今日のみさきなら、十二秒の壁をブチ壊すことが出来るかもしれない……っ!
「みさき、準備はいいか?」
「……ん」
「あはは、なんか私、視界に入ってないみたいですね……」
みさきがスタートの構えに入った。
俺は神経を研ぎ澄ませる。
一秒を細かに切り刻んで、みさきの走りを正確に計測する準備をする。
早朝の陽射しは弱く、無風。地面は適度に乾燥していて、滑るようなことは無いだろう。
「位置について……」
みさきは地面に手を付き、真っ直ぐゴールを見つめた。
「よーい……」
みさきは静かに視線を落とし、腰を浮かせた。
「スタートォ!」
瞬間――空間を切り裂く音がした。
みさきが小さな体を大きく動かして、まったくブレの無い完璧なフォームでゴールを目指す。
……このペースなら、イケるっ!
「みさきぃぃぃ! 走り抜けろォォォ!」
みさきの背中を押すくらいの気持ちで叫ぶと、みさきは見事に加速してみせた。ぐんぐん勢いを増しながらゴールとの距離を縮め、そして――
走り抜けたみさきが、小さく肩を揺らしながら俺の方を見る。
俺は俯いて……静かに親指を立てた。
「十一秒、八七三……目標達成だ! やったなみさきぃ!」
感動が爆発している!
俺は今直ぐにでもみさきを抱きしめたい衝動に駆られて、大きく両手を広げた。
しかし――またしても、みさきはどこかへ走り去ってしまう。
「みさき!? な、なぜだ!?」
「……ええと、また見てきませうか?」
*
どうも、小日向檀です。
驚いたことがあります。天童さんの隣でケータイのストップウォッチを使って計測していたのですが……なんと結果は11.88。天童さんの測定とほとんど同じです。人力で百分の一秒まで計測してしまう天童さんっていったい……。
それはそうと、私はまた走り去ってしまったみさきちゃんを追って公衆トイレの裏まで歩きました。先程のこともあるので、またコッソリと覗き込みます。
立っていました。
見慣れた小さな姿が、ぽつんと有りました。
よく見ると背中が小刻みに震えています。
手をグッと握っているのか、身体が前を向いて若干ながら丸くなっているのが分かります。
そして次の瞬間――
……跳ねてるぅ! ぴょんぴょんしてりゅぅぅぅ!
ばんざーい、ばんざーいとぴょんぴょん跳ねるみさきちゃん。
やめ、やめやめやめてっ、私そんな、こんなかわい、可愛すぎて、わた、わたアブエェ!?
※鼻血が噴き出ました。
*
暫くすると、また小日向さんがみさきを連れてもど……
「小日向さん!? 大丈夫かそれ!?」
スゲェ量の鼻血を見て、思わず大きな声が出た。
「……ふ、ふひひひひ、わが生涯に、一片のクイ、な、ふへっ」
「小日向さん! しっかりしろ小日向さん!! チクショウこの短時間にいったい何がっ? まさか病気? そういえば、小日向さんは奇病にかかっていて……きゅ、救急車、救急車だ。ちょっとケータイ借りるぞ小日向さん――チクショウこれどうやって操作すりゃいいんだ!?」
くいっと、何かが俺の服を引っ張った。
「みさき? どうした?」
「だいじょうぶ」
「いやいや大丈夫じゃねぇだろ、この量はヤベェって」
「よくある」
な、なんだこの落ち着きっぷり。この量の血を見たら普通のヤツなら気を失ってもおかしくねぇのに……よくあるって、いったい、どういう。
「まゆちゃん、まんが、とき、よく、ぶー」
「漫画を描いてると、こうなるのか?」
「……ん」
「やっぱ病院に行った方がいいだろ、絶対ヤバイって」
「……ん?」
――と、こんなこともあったけれど、今日もまた記念すべき日となった。
みさきの成長を確認出来た今日のことを俺はきっと忘れない。
そして小日向さんと会う際にはタオルを常備するようになったのも、きっと今日が始まりだった。
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