第76話 準備をした日(後)

「どうぞ、お茶買ってきました」

「あ、ありがとうございます」

「戸崎、さん、見てないっすか?」

「ゆいぽんは私も探したんですけど……」

「そっすか。じゃこっちでも探してみます」


 という経緯で公民館内をふらふら歩き、ノンピアスの人達が弁当を食べていた椅子と机のある場所から、ちょうどホールを挟んで反対側まで行って、ようやくその姿を見付けた。


 彼女は窓際にあるちょっとした出っ張りに座って、膝の上に乗せた弁当箱に目を落としていた。


 ……なんで一人で食ってんだこいつ。


 疑問に思いながらペットボトルを差し出そうとして、思わず動きを止める。


「……ふふふ、ゆいの作ったおにぎりさんはどれも小さくて可愛いですね。あっ、このおにぎり海苔でワンちゃんみたいになってます、かわいいっ! ……どうしましょう、食べられませんっ」


 どうしましょう、声かけられません……。


「って、こんなことしてる場合じゃありません。早く食べないと、せっかくのお弁当が残ってしまいます…………でもっ、こんな可愛いもの勿体無くて食べられないじゃないですかっ」


 なるほど、一人で食べたくなるわけだ。

 さておきどうしよう。ここは見なかったことにするのが正解だろうが……。


「飯が食えないなら茶だけでも飲むか?」

「!?」


 面白そうだから声をかけた。弁当箱を頬に擦りつけていた不審人物は、首を痛めそうな勢いで俺の方を見ると、そのまま硬直した。


「……」

「……」


 数秒後、いつもの表情に戻った戸崎結衣は


「何してるんですか?」


 と冷たい目で言った。いやそれこっちの台詞。


「ほれ、お茶買ってきた」

「頼んでません」

「気にすんな」

「いりません。飲んだら脳に致命的なダメージを受けそうなので」

「選ばれ続けたアマタカさんに危険はねぇよ……まぁいい、とりあえず置いとく」

「飲みませんからね……」


 じりじり距離を取る戸崎結衣は、警戒心の強い猫みたいに俺を睨んでいた。


 ……相変わらずの嫌われっぷりだが、なんつうか慣れたな。


「不愉快なので視界に入らないでください」


 視界に入れたくないなら睨むの止めろよ……と思いつつ、戸崎結衣の隣に腰をおろした。すると彼女は跳ねるようにして俺から離れる。


「日本語が通じてないんですか?」

「隣に座れば視界に入らないだろ」

「臭いので近寄らないでください」

「え、まじ? みさきに言われてから体臭には気ぃ使ってんだけど……」


 腕を鼻に寄せて嗅いでみたけれど、特に悪臭はしなかった。すると彼女はわざとらしく鼻を摘んで、


「加齢臭がします」

「テメェと同い年なんだが……?」

「なんですかそれ、私の年は教えてませんよ」

「祭りの日、佐藤と話してるのを聞いたんだよ」

「盗み聞きとかクズですね。ゆい経由でみさきちゃんに報告します」

「それだけは止めてくれ!」


 みさきを使うとか汚ねぇよチクショウ!


「で、何の用ですか? 手短にお願いします」

「いや、特に用ってわけでもないんだが……」

「なら消えてください。不愉快です」

「待て、用なら有る。いま考えてる」

「用無いじゃないですか」


 その声を無視して、俺は何か用事が無かったかと考える。


 ……特に、無いな。


 いや待て、ここに座ったからには何かあったはずだ。なんだっけ、わりと重要なことだったような気がするんだが……。

 

「いつまで居るつもりですか? 何度も言っていますが、私が貴方に期待することはとてもシンプルです。近寄らない、話しかけない、視界に入らない。この三原則を遵守してください」


 なに言ってんだこいつ、疲れてんのか?

 あれ、疲れてるといえば……あっ、思い出した。


「ありがとな」

「は?」


 ミスった、脈絡が無さ過ぎる。

 つまり、ええっと……


「おまえが頑張ったおかげで、すげぇ面白い人形劇になりそうっていうか……いや、ほんと、佐藤達が仕切ってたらグダグダになってたと思う。そういうわけで、ありがとな」

「……私は、ゆいの為に出来ることをしているだけです」


 ……あれ、照れてる?

 

 意外とストレートな表現に弱いのか、戸崎結衣は少し口角が上がっていた。それを隠すかのように小さなおにぎりを口に入れるのだが、むしろ頬が緩みまくって逆効果になっている。


 彼女はコホンと咳払いをして


「用件は以上ですか?」

「……まぁ、そうだな」

「だったら早くどこかへ行ってください。いつまでもそこに居られると不愉快です」

「わぁったよ。午後もよろしくな」

「言われなくても尽力します。早く行ってください」

「へいへい」


 相変わらずキツイ態度だが、慣れるとそうでもない。そう思うのは俺に特殊な性的嗜好があるからか、それとも彼女の子供っぽいところを何度も見たからか……。


「余計なことを考えていないで早く行ってください」

「だから何で分かるんだよ……」


 やっぱりこいつエスパーかよ。そう思いながら、俺はようやく彼女の言葉に従った。

 



 さっきまでノンピアスの人が居た場所に戻ると、そこにはてっちゃんが一人で座っていた。彼女はピアスの人に連れられてホールに入ったらしい。なんて話をしていたら、ホールから劇の台詞が漏れ聞こえた。


「いやぁ、熱心ですな。はっはっは」


 と、相変わらず機嫌の良いてっちゃん。

 俺は向かいの席に座って、声をかける。

 

「名倉さん、最近何かあったんすか?」

「はて、珍妙な事を聞かれますな」


 珍妙な喋り方をなさいますな。

 いや待て、この喋り方どこかで……。


「あっ、それもしかしてスガナレルっすか?」

「いやはや、息子に好評でして」

「へー、本とか読んで聞かせたりしたんすか?」

「いえ、どんな劇をやるのか問われまして。それで、たまたま本を開いた場所にあった台詞が、意外にも好評だったという次第です」


 嬉しそうに言うてっちゃん。


「あまりにも喜ぶので、年甲斐も無くはしゃいでしまいまして……未だに言葉遣いが変わることがあって困ります。ははは」

「そっすか。そりゃ大変っすね」


 上手く言えないけれど、てっちゃんの姿を見ていると嬉しかった。


 てっちゃんは、なんだか子供と妙な距離があった。俺はそれが気になっていて、プールで少し話をした。


 もしかしたら、あれが何かのきっかけになったのだろうか? なんて考えるのは傲慢か……もともと、俺はてっちゃんの一部しか知らなかったんだ。


 ノンピアスの人だってそうだ。あやとりをした日、彼女は子供に甘えられて鬱陶しそうにしていた。そんな人が、子供の為のイベントに、こうも真剣に取り組むだろうか。単純に、俺が彼女のことを何も知らなかっただけだ。


 ピアスの人だってそうだ。

 最初の頃と今では全く印象が違う。


 小日向さんが言っていたこと。

 相手の事情を考えること。


 兄貴の店で学んだこと。

 相手の立場になること。


 きっとこれは普通の人なら誰でも知っていることで、俺がずっと知らなかったことだ。


 たったこれだけで、俺の世界は大きく変わった。もしも知らなければ、この父母の会で見た人達の印象は、いつまでも最初と同じだっただろう。


 初めて父母の会に参加した時、俺は遅刻した佐藤にカッとなって、あれこれ文句を言った。


 だけど初めて戸崎結衣が参加した父母の会で、俺は嫌がらせのようなことをした佐藤に対して、強い負の感情は抱かなかった。

 

 これは成長と呼べるのだろうか。もしもそうなら、素直に嬉しい。


「そろそろ時間っすね」

「ええ、そうですね」


 てっちゃんに声をかけて、俺は立ち上がった。


 何度も参加した父母の会。俺がしたことは、今のところ見ていることだけだ。我ながら笑えるくらいの役立たずっぷりだが、これが今の俺の実力ということなのだろう。ならせめて、先輩達の姿を目に焼き付けておこう。


 ……悪くない。


 ホールに向かって歩きながら、ふと頬が緩んでいることに気が付いた。みさきと出会ってから新しいことの連続だが、まさかこんなことを考える日が来るとは夢にも思わなかった。


 未来に何が起こるかなんて誰にも分からない。と、こんな言葉が有る。俺はこの父母の会を通じて、それを痛感した。


 良い意味でも――悪い意味でも。




 頑張ってる人はかっこいい。

 午後の練習が再開してからのピアスの人は、それはもう必死に練習を続けていた。


 戸崎結衣は全体の流れだけを確認して、当日の劇を滞りなく進めるという方針だったようだ。しかしピアスの人が自主的に練習を求めるものだから、そこに多くの時間を使っていた。


 だけど


 彼女の努力が報われるには、あまりにも時間が足りなかった。


「ごめんなさい、もう時間です」

「……すみません、一度も上手く出来なくて」


 舞台の上で、ピアスの人が悔しそうに顔を歪ませた。

 何があったかは、二人が口にした通りだ。


「あの、大丈夫です。明日までに、ちゃんと出来るようになりますから」

「いえ、無理は禁物です。喉や体の調子を崩されては、どうにもなりません」


 戸崎結衣の言う通りだ。頑張りたいって気持ちは分かるが、無理して体を壊したら意味が無い。


「……そう、ですね。でも、このままじゃ楽しみにしてくれている子供達に申し訳なくて」


 そう言って、ピアスの人は俯いた。隣で話を聞いていたノンピアスの人は、ピアスの人と戸崎結衣を交互に見て、どうしたものかと迷っている様子だった。


 果たして、ノンピアスの人はすがるような目で戸崎結衣を見た。彼女ならどうにかしてくれると思ったのだろう。実際、俺もあいつなら上手くやるだろうなと思っていた。


「では、こうしましょう」


 相手を安心させるように、優しい笑顔を浮かべる。


「私が代わりにやります」


 時間が止まったような気がした。

 戸崎結衣は、まるで最善の方法を提示したかのような表情をしている。

 顔を上げたピアスの人は、呆然とした表情で戸崎結衣のことを見ていた。


「無理してお芝居をすることはありません。誰でも得手不得手は有りますから。当日は、保育士の方々と一緒に子供達を見てあげてください」

 

 俺は拳を握りしめた。あまりにも強く握ったせいで関節がバキバキと悲鳴を上げ、爪が手に食い込んでチクリとする。


 ピアスの人は、戸崎結衣から隠すようにして背中に回した台本を小刻みに震わせていた。


「どうかしましたか?」


 優しい表情をしたまま、彼女は言った。

 俺は思わず声を出しかけて、グッと歯を食いしばった。ここで声を出すのは早計だ。練習前にピアスの人から話を聞いたせいで、妙に肩入れしちまってるだけかもしれない。


 客観的に見れば、きっと戸崎結衣の言い分は間違っていない。人形劇の質を上げて子供を喜ばせる為に、彼女は最良の案を提示した。それだけだ。


 ……平等に、あくまで平等に――なんて、なれるわけねぇだろ。


「あのっ」


 我慢できずに立ち上がろうとした瞬間、ピアスの人が声を出した。


「すみません、無駄な時間を使わせてしまって」


 ……は?


「いえ、とても有意義な時間でしたよ」

「ありがとうございます……当日は、子供達の面倒を見ますね。えっと、頑張ってください」

「はい、任せてください」

「それでは……失礼しますっ」


 走り去る背中を、俺はただ見送ることしか出来なかった。


「……私も、失礼します」


 こうして、ホールには俺と戸崎結衣だけが残された。調光室にはてっちゃんが残っているはずだが、そのうち状況を察して降りてくるだろう。


 俺は、戸崎結衣のことを睨んでいた。

 その視線に気付いた彼女は、不思議そうな顔で舞台から俺を見下ろす。


「私は、何か間違ったことを言いましたか?」

「……どういう意味だ」

「彼女は安心していました。直前までの苦しそうな感じも、綺麗さっぱりなくなっていました」

「……ふざけてんのか」

「ふざけてなんかいません」


 真剣な目で、


「私は彼女のことを考えて、あの言葉を言いました」


 と、そう言った。

 俺は愕然とした。きっと彼女の言葉に嘘偽りは無い。本当に、本心からピアスの人の為になると思っていたのだ。あれは劇の質ではなく、ピアスの人のことを考えたうえでの発言だったのだ。


「……あのさ」


 保育園の前で、俺は彼女に言わなかったことがある。あの時は彼女と同じ目線で話し合いをしようと思っていた。今だって同じだ。あいつが考えていることを聞いて、理解した。


 だから、言わなくちゃいけない。


「おまえ、間違ってるよ」

「……間違ってる? 私が?」


 俺はこんなことを言えるような人間じゃない。

 だけど、それにしたって、こいつは……。


「安心してるって、それ本気言ってんのかよ」

「はい、そうです。何を怒っているのですか?」


 即答だった。一切迷うことなく、彼女はそう答えた。ありえないと思った。だって、あいつは俺よりもずっと近いところでピアスの人を見ていたはずだから。俺には見えない黒い布の裏側で、ピアスの人がどんな表情をしていたか見ていたはずだから。


 練習している声を聞いているだけでも、彼女がとても一生懸命なのが伝わってきた。


 それが勘違いではない証拠に、彼女は何度も上手く出来なかった部分の練習を求めていた。


 それなのに、こいつは……


「ふざけんな!!」


 自分の出した声がホールを反響する。少しだけ気分の悪い音だった。でもそんなこと気にならないくらい、俺は気分が悪かった。


「言っていい事と悪い事があんだろうが! あいつが本気で頑張ってんのが分からなかったのかよ!?」


 こんなに大声を出したのはいつ以来だろう。

 とにかく抑えられなかった。


「何を言っているのか分かりません」


 しかし彼女は澄ました表情で言う。


「風見さんは、ずっと辛そうでした。貴方こそ、それが分からなかったのですか?」

「テメェこそ、ずっと一緒に練習しててあいつが頑張ってんのが分からなかったのかよ」


 間髪入れずに言い返した。

 自分でも熱くなっていて、冷静じゃないのが分かる。だからこそ、戸崎結衣との間に感じる温度差みたいなものがハッキリ分かって、それが余計に腹立たしい。


「お前には、嫌々やってるように見えたのかよ!?」

「理解できません。何が言いたいのですか?」


 俺の怒りを真っ直ぐ受け止めて、しかし彼女は不思議そうな表情をしたままだった。

 

 ……ダメだ、本当に伝わってない。

 

「あの、もう満足ですか? 私もそろそろ時間がありません」


 ……落ち着け、考えろ。このまま話を続けても伝わらない。あいつは自分が絶対に正しいと思っている。その考えを変えさせることは不可能だ。少なくとも俺には出来ない。なら何か、何か別の方法があるはずだ――


「言いたいことが無いなら、もう行きますね」


 クソっ、時間が足りねぇ!


「来い!」

「なんですか、時間が無いと言っているのが聞こえませんか?」

「いいから来い!」


 乱暴に声を荒げたら、彼女は不服そうに頷いた。


 論より証拠だ。俺の考えが正しければ、きっとピアスの人は……それを見せれば、あいつの考えも変わるはずだ。


 ……どこにいる?


 闇雲に探してもダメだ。時間も限られてる。


「事情を説明していただけますか?」

「黙ってろ」

「何を怒っているのですか……」


 戸崎結衣は腕時計を見ながら言って、深い溜息を吐いた。やはり彼女を引き留めていられる時間は長くなさそうだ。


 ……集中しろ。必ず近くに居る。


 彼女がホールを出た後、走り去るような音は聞こえなかった。なら公民館の中か? そう仮定すれば、場所はひとつに絞られる。


「こっちだ」

「……五分だけですよ」


 昼間にこいつが昼飯を食べていた場所。

 あの場所に居なかったら諦めよう。


 何度も振り返って戸崎結衣がついて来ているのを確認しながら、目的地へ向かった。そこへ近付く度、居なかった時の事が頭に浮かんで不安になる。もしもそうなったら、明日の人形劇が台無しになるような気がした。


 ……頼む、居てくれ。


 果たして、彼女は――


「……」

「……」


 呆然とする俺と戸崎結衣。

 その視線の先に、二人の女性の姿があった。


「……そんな、はずは」

「よく見ろ。これが俺の言いたかったことだ」


 ノンピアスの人が、ピアスの人の背中を撫でていた。

 ピアスの人は、大粒の涙を流して泣いていた。


「……」


 戸崎結衣は言葉を失っていた。

 ただ信じられないといった表情で、ピアスの人を見ている。


「お前の言う通り、あの人は苦しかったはずだ。でもそんなの、真剣だからに決まってんだろ」

「……」


 返事は無い。彼女はただ呆けた表情をして、ピアスの人を見ていた。


「あいつが嫌々やってんなら、お前は正しかったよ。でも違うだろ、分かるだろ。真剣だから、あんなに必死だったんだろ。お前は、それを否定したんだ」

「……しかし、彼女は、本当に辛そうで……あの時、安心して」

「黙れよ」


 いい加減なことを言っているとは思わない。理屈は分からないが、こいつには人の考えてることを読み取る技みたいなのがあるんだと思う。ピアスの人は、こいつの言う通り安心しちまったのかもしれない。だけど、


「あの人がどうしてあんなに必死だったのか、ちょっと考えれば分かるだろ」


 少し強い口調で言うと、彼女はビクリと肩を震わせた。

 そして、ふらふらと震える手で頭を押さえて、譫言うわごとのように呟く。


「…………そんな、うそ、なんで」


 どんどん呼吸が荒くなる。俺はようやく自分が言った言葉の意味を自覚したのだと思っていたが、どうにも様子がおかしい。あまりにも、彼女は動揺していた。


「……おい、大丈夫か?」


 流石に心配になって問いかけた途端、彼女は踵を返して走り出した。


「おい!」


 声をかけた程度では止まらない。

 俺はどんどん遠ざかる背中に手を伸ばして、しかし彼女を見送ることしか出来なかった。


 ……なんなんだよ。


 あまりにも突然な出来事で頭が追い付かない。

 戸惑いながら振り向くと、ピアスの人はまだ泣いていた。


 順調に思えた人形劇は、しかし唐突に暗雲が漂った。全て上手くいっていて、誰もが真剣に取り組んでいたはずなのに、たったひとつの言葉で脆くも崩れ去ろうとしていた。


 ……どうにかしねぇと。


 





 翌日。

 戸崎結衣は、ゆいと一緒に少し早い時間に公民館へ訪れた。それからホールの一番前の席にゆいを座らせて、父母の会の集合場所へ向かった。集合時間までは残り十分ほど。しかし、他には誰もいなかった。


 彼女は、未だに昨日の出来事が信じられなかった。

 自分はいつも通りだったはずだ。過去にも似たような事はあり、同じことを口にした。それで何か問題が起きたかと考えれば、一切の問題は起きていない。


 全部、上手く出来た。失敗したことなんて無かった。

 どうにもならない時は、その人の代わりに自分がやれば必ず成功した。


「……大丈夫です、何も問題ありません」


 呟いた途端、ふと疑問に思った。問題という言葉が強く心に引っかかった。自分の言葉で、あれほど人を傷付けておいて、問題が無いと言えるのだろうか?


 だけど、ならば何が問題だったのか。

 彼女の色はハッキリと見えていた。本当に苦しそうで、あの一言で重圧から解放されたかのようにスッキリとした色に変わった。でも再び見た彼女は、言葉にするのが難しいくらい悲しい色をしていた。


 ――ちょっと考えれば分かるだろ


 不意に耳障りな言葉が頭に浮かんで、彼女は耳を塞いだ。

 その通りだ。彼の言う通りだ。だけど、納得するわけにはいかない。それを受け入れたら、自分が自分でなくなるような気がする。



 あの日と同じだ。

 お母さんとお父さんは、私を見て、本当に幸せそうな――



 いつのまにか、彼女は自分の手を強く握っていた。

 その手が不自然なくらい震えているのが分かる。

 どうしてか、心細いと思えて仕方なかった。


 そんなはずは無いと、彼女は即座に否定する。

 これは今迄と変わらない。

 過去に一人でやって失敗したことは無い。

 絶対に上手くいく。

 私は何も間違っていない。


 そうして自己暗示をかけ続けても、手の震えは止まってくれなかった。


「……なんで」


 ポツリと漏れた呟きを聞き届けてくれる友達は、しかし十年以上前に失っていた。何も言わなくても助けてくれるヒーローは、もう二度と現れてくれない。


 結衣は唇を噛んだ。


 ……弱音を吐くなんて許されない。私にとって大切な人達は、みんな私のせいでいなくなった。


 心の中で、自分に言い聞かせる。もう二度と繰り返すわけにはいかない。ゆいだけは、何があっても不幸にはさせない。その為には、強くなるしかない。


「……よし」


 と、決意した直後――声が聞こえた。

 それは数ヶ月前に初めて聞いて、それ以来、彼女の調子を狂わせ続けた声だった。

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