第42話 SS:みさきといつもの日曜日
みさきが目を覚ますと、龍誠はいつも眠っている。
それは平日も同じで、みさきはいつも起きてから暫く龍誠の寝顔を見ている。
一時間くらいすると、不意に龍誠の息が止まって、ゆっくりと目を開く。
みさきの姿を見た龍誠は頬を緩めて、少し低い声で言う。
「おはよう、みさき」
「……おはよ」
最初の頃とは少しだけ違う挨拶をした後、龍誠はパンと頬を叩いて起き上がる。
「いくか」
「……ん」
夜のうちにまとめておいた荷物を持って部屋を出た二人は真っ直ぐ公園へ向かって顔を洗い、うがいをして歯を磨く。
「よし、発声練習だ」
「……ん」
という流れで声を出して、
「ついでに運動してくか」
「……ん」
というノリで動き回る。
「帰るか」
「……ん」
みさきが疲れた始めた頃、龍誠は見事に見抜いて帰宅を提案する。
「あ、朝飯まだだな」
「……ん」
「なにが食べたい?」
「……ぎゅうどん」
「よし、行くか」
「……ん」
龍誠の直ぐ隣で、みさきはとことこ歩く。時間は午前九時を少し過ぎたくらいで、すっかり目が覚めた龍誠だけど、口数はそれほど多くない。
「どうした?」
「……」
じーっと見られていたことに気が付いて、龍誠はみさきに声をかけた、みさきはふるふると首を振って、前を見る。だけど少し歩くと、自然と目が龍誠へ向かう。みさきが見ているのは、自分の頭と同じくらいの高さで揺れる彼の手だ。
手を繋いで歩きたい。それは憧れか、それとも甘えたいだけか、はたまた両方か。
みさきの微妙な表情の変化を見抜ける龍誠だが、こういう繊細な心の動きは分からないらしい。
今日も気付いてもらえないみさきは、ムッと口を一の字にして、ちょっとした羞恥心と格闘する。
果たして、牛丼屋に辿り着いたことでみさきの戦いは延期となった。だが牛丼屋では別の戦い……胃袋との戦いが始まる。みさきはいつも限界を超えて食べるのだが、それは食べるのが好きなワケではない。むしろ食べるのは苦しい。なのに頑張るのは、頑張っていると龍誠が応援してくれるからで、全部食べると龍誠が喜んでくれるからだ。
だが、無理なものは無理である。
「……いっぱい」
「もうちょいだな。ごちそうさま」
「……さま」
少し休んだ後、二人は帰宅する。その後、みさきはひたすら勉強だ。少し前までは龍誠が日雇いのバイトで外出することが多かったけれど、最近は家に居ることの方が多い。すると、みさきの勉強には熱が入る。
「……おわった」
というみさきの声に、龍誠はパチパチと瞬きをする。みさきの手元には、閉じられた算数ドリル6年生が置いてあった。
「算数ドリル、完全制覇しちまったのか……?」
「……ん」
得意気な、というより期待を込めた表情で頷くみさき。
「……かっこいい?」
「ああ! 最高にかっこいいぜみさき!」
みさきがここで何を望んでいるかは、きっと龍誠以外には分かっている。二人の周囲にある物に意思があったなら「いけっ、そこだ抱けっ、抱きしめろ龍誠!」と声を出したであろう。だが残念ながら本人は少しも気付く様子を見せない。
「なぁみさき、ちょっと見せてくれないか?」
「……ん」
少ししょんぼりした様子で算数ドリルを差し出すみさき。龍誠は受け取って、直接書き込みがされたドリルを見た。そこには、みさきの努力の跡がある。
何か新しい内容が始まると必ず最初の数問を間違えているのだが、一度正解してからは、もれなく全問正解していた。龍誠はみさきの学習能力に驚愕しつつ、ふと疑問を覚える。
……あれ、途中式書いてなくね?
他にも、龍誠が小学校へ通っていた頃には存在しなかった新課程や、当時の小学校では扱っていなかった文字式の存在など、驚くべき点は多々あるのだが、みさきに負けないくらいの英才教育を受けていた龍誠には、そんなこと気にならなかったようだ。
……まさか、みさき。
答えを丸写し……いやでも、みさきに限ってそんなこと。と冷や汗を流す龍誠。だが彼が疑うのも無理は無い。たとえばこんな問題がある。
白、黒、赤、緑、青の折り紙が1枚ずつあります。
1人に折り紙を2枚わたす時、色の選び方は何通りですか?
これを高校生であれば5C2という式を用いて10と即答できるのだろうが、小学校の教育課程において公式は教えられていない。実際、龍誠がページ後方の解答を確認すると、答えは表を使って求められていた。しかし、みさきの解答に表を用いた痕跡は無く、ただ答えだけが記されている。だが仮に回答を丸写ししたと考えた場合、なぜ最初の数問だけ間違えるのかという疑問が残る。
龍誠は緊張した面持ちで息を飲み、みさきに問いかけた。
「白、黒、赤、緑、青、紫の折り紙が1枚ずつあります。1人に折り紙を3枚わたす時、色の選び方は何通りですか?」
この「にじゅ、とーり」問題は6C3という――
「なんで、分かったんだ?」
「……かぞえた」
直前の問題で、龍誠は少し意地悪をしていた。
算数ドリルが示す表はスポーツの総当たり戦のような物で、縦と横にそれぞれの色が同じ順番で並び、左上から右下に線が引かれている。この表を使って、斜線の上側の枠に丸を付けることで数を数えていた。これは折り紙を2枚わたす時であれば対応できるが、3枚以上わたす場合を考えたら途端に対応できなくなる。また、数字を大きくすることで、頭の中だけでは考えられなくなったみさきが紙と鉛筆を要求して、どうやって解いているのか見せてくれるかもしれないという期待があった。
「わりぃ、もっかい言ってくれ」
「……かぞえた」
龍誠は少し悩んで、
「十種類の折り紙があります。これを四枚ずつ渡す時、色の選び方は何通りですか?」
「……」
十秒後。
「にひゃく、じゅ、とーり」
「ちょっと待ってくれ」
正直返事があるとは思っていなかった龍誠は、慌てて計算を始める。彼は頭の中で10C4という式を用いて、みさきと同じ答えを導き出した。
「正解だ」
「……ん」
嬉しそうに頷くみさき。
常々みさき半端ないと思っていた龍誠だが、そのうえで鳥肌が立った。今のやり取りで、どうやら本当に算数ドリルを制覇してしまったのだと悟ったのだ。
「流石みさきだな。敵わねぇよ」
「……かっこいい?」
「ああ、痺れたぜ……」
「……」
「どうかしたか?」
ぷいっ、と顔を逸らして不機嫌になるみさき。
「え、あれ、みさき? 俺、なんかやらかしたか?」
「……」
返事の代わりに、ムッと口を一の字にするみさき。
どうしてだ!? と困惑する龍誠。
こんな具合に、龍誠はいつも素直に甘えられないみさきに悩まされている。
彼がみさきの気持ちに気付く日が先か、みさきが羞恥心を乗り越える日が先か……ただひとつ言えるのは「りょーくんにぎゅってしてほしい」という願いだけで小学生が学ぶ漢字と算数を制覇してしまったみさきは、とんでもなく不器用であるということだけだ。
やがて、そこそこ機嫌が直ったみさきは龍誠に問いかける。
「……かんじ、わかると、ほん、よめる。さんす、わかると、なに、できる?」
み、みさきが長台詞(当社比)! と感動しつつ、龍誠は口ごもる。
……算数ができると、算数ができるんじゃねぇの?
「よし、なら宿題にしよう」
「しゅくだい?」
「ああ。みさきは本が好きだろ?」
「……ん」
「本の中には、どうして算数が必要なのか書いてある本もあるんだ。そうじゃない本にも、きっとヒントがある。だからいろんな本を読んで、頑張って答えを見つけてくれ」
「……んっ」
ふぅ、なんとかごまかせたぜ。と汗を拭う龍誠を、みさきはキラキラした目で見つめる。
「新しい本が欲しくなったか?」
こういう表情は直ぐに読み取れる龍誠だった。
こんな具合に、みさきは一日中龍誠と一緒に居る。銭湯では少しだけ離れることになるが、檀のことは嫌いではないので、少し寂しいくらいだ。
銭湯から出ると、三人は真っ直ぐ帰宅する。
「おやすみ、みさき」
「……すみ」
と返事をする頃には、みさきはいつも半分くらい眠っている。龍誠はみさきの静かな寝息を聞くと、いつも目を開いて彼女の寝顔を見つめる。そして柔らかく微笑んでから、今度こそねむりにつくのだった。
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